終章


 三月二十二日。晴天。ターミナル第六展望ブロック。


 握っていた黒い眼帯をゆっくりと締め直した。目元が少し熱かった。

 扉を開けた先は、目を閉じねばならないほどの光に満ちた世界だった。

 数瞬の間、目元に手をかざし光に慣れるのを待った。傍から見れば奇妙な行動だろう。だが、この眼帯に実際的効果はなく、巻いていてもすべてを透過するようにプログラムされていて、ただ体裁のために付けているに過ぎない。


 その後、開かれた視界に広がったのは、見渡すかぎりの大庭園だった。


 赤、桃、青、白など寒暖の入り交じる色彩豊かな花々が、足元から遠く離れた小高い丘の向こうまで、まるで虹のような深いグラデーションを描きながら続いていた。

 カラフルな花の間を小奇麗に整えられた細い小川が流れ、濁りのない透明な水の中に小魚が泳いでいる。首を右に捻れば、腰ほどの小さな滝が設えられ、せせらぎが心地よく耳を打つ。

 上空には輝く太陽と一面の青い空。斑点のような雲の群れに、遠くに浮かぶ入道雲はどこまでも巨大に天高く連なっている。

 あらゆる方向から無数の生命を感じる。虫か、鳥か、小動物か。空間は金属のターミナルにあって、不釣り合いなほどの生命と自然で充満していた。

 顔を下げると、足を支える透明のガラス板が直線状に伸びていた。道を辿れば、部屋の規模にして大きな湖が見え、ガラスの道はその手前に置かれた円形の台座で終わっていた。彫刻の施された大理石の屋根が四本の柱に支えられ、その円形の舞台を縁取っている。


 そしてその舞台の上に――この空間の設計者がいた。


「どうぞ、御剣颯。こちらへ」


 つま先を立てて少し背伸びをした海馬沙耶が、赤く小さな唇を半月に歪め微笑した。

 その幼い声に誘われ、俺は足を踏み入れる。ガラス板の下には草花が生えており、さながら空中を歩くような錯覚に陥るが、俺がそんなことを言っても意外性は薄いだろう。


「あ、テーブル片付けちゃった。ちょっと待ってて、今造るから」


 俺が舞台に到達すると、彼女はせかせかと舞台の中央に向き直った。

 人差し指を立て空中に大きな円を描く。その様子を俺は黙って眺めていた。

 描かれた円が舞台と水平に向きを変える。かと思うと、四方から変形ギミックよろしく細い棒が生え、インクを中に注入したかのように、線で構成されていたテーブルに白の色が塗布された。なるほど、造るとはまた愉快な――苛立たしいほど愉快な表現だった。


「座って、って言っても言わなくても、あなたは座るのよね。わかってるわ」


 テーブルとそれに付随する椅子二脚を造り出し、にこりと彼女は笑う。俺は静かに頷いた。


「飲み物を飲んだほうがあなたの気持ちが落ち着くから出そうと思うけど、ダージリンティーでいいかしら? ごめんなさい、ブラックは好きじゃないから用意出来ないの」


 答えるよりも先に提示された解答に、俺は思わず肩をすくめた。

 オッケー、と薄く微笑む海馬は、ぱちんと小気味よく指を鳴らした。

 すると、俺たちの目前に、受け皿に載った白い陶磁器のカップが出現した。縁と取っ手に金色の箔が押された高そうなものだ。


「お気に入りの食器はプログラムを最初から書き直すんじゃなくて、保存ストレージしておくの。同じものを造り出すのって難しいし、面倒だから」


 その間、湧き出すようにカップの底からオレンジ色の液体が溜まっていく。


「まるで……魔法使イだな」

「この世界ではあたしは神様なの。なんだって出来るわ」


 意気揚々とのたまわる彼女に、俺は頬を歪めてみせた。笑うつもりだった。


「それにしても――」


 出来上がった紅茶に一口つけると、彼女は唐突に話し始めた。


「あなたがここに来るのはもちろん予知していたわよ。でも、よくここに来る気になったね。実はね、はづきと一緒に賭けをしたぐらいなんだよ。この一週間、どこで何をしていたの?」


 一週間、思えば長い時間だった。


「……実のところあまり覚えていないンだ」

「なるほど……記憶領域が侵食されているのね。でも同時に感覚野にも障害が出てるみたいだから、侵食状況に差はないのかしら? その身体ももう使いものにならなさそうだし」


 早口に持論を捲し立てる海馬。

 彼女の考えは、概ね間違いじゃないだろう。視覚は右側だけ、痛覚も、鼻もほとんど役目を果たさない。言語を介するにもうまく発生出来ず億劫になるし、記憶はだんだん薄れていく。肝心なところが雲にかすんだり、どうでもいいことに執着したり。だが、今挙げた点以外はどこも正常。気になるところはない。


「正直に言えば、さっきお前が言った名前……は、は――」

「はづき? 八神はづき?」

「ああ……そう、それ。その名前も記憶にないンだ」

「でも、博士との会話でも出てきていたわ。覚えていないの? ついさっきよ?」


 その言葉に俺は首を横に振った。


「……わからない……大事な名前だった気がする。とても暖かい名前という感覚があるのに、それが誰なのカ……わからないんだ」


 テーブルに肘を突き、頭を垂れたように顎を載せる。おもむろにカップに手を伸ばし俺は少量を喉に流し込んだ。どこかで飲んだことのある懐かしい味だと思った。


「それは悲しいわね」


 大切な人のはずなのに、と海馬はそこで初めて笑顔を消した。哀愁が顔を覆った。


「ただ……消えていく記憶もあれば、よみがえる記憶もある。彷徨っていた一週間、あることを思い出して、そのことばかりを考えた……お前にその記憶の意味を訊きたくてここに来た」

「んー、記憶の意味……その質問は初めて聞くわ。いいわよ、言ってみて」


 海馬は唇を上に尖らせたが、最後は快活に頷いた。俺は記憶をたどる。


「俺とお前が最初に接触シタのは……ログハウスじゃなかった。それよりも、モットずっと前に……そうだ……卒業式の前日、あの帰り道の交差点で俺たちは出会ってイた」


 それでそれで、と彼女は机に身を乗り出して先を促す。


「その次は旧校舎の入り口、さらに次は秘密の部屋。どれも実体は掴めなかったが、俺たちはすでにソコで出会っていた」


 俺は平坦な口調で事実を突き付ける。無論、それで動揺するような海馬ではなかった。動揺するとすれば、きっとそれは、その後に述べようとしている俺の推測のほうだろう。


「ええ、それは間違いじゃないわ! 確かに、あたしは何度も御剣くんに接触していたわ。キミのことに興味が湧いて、だから見に行ったのよ」

「じゃあ、どうしてその記憶を消したンだ」

「それは……その接触が、シナリオにないことだったからよ」


 面倒よね運命って、と彼女は目を伏せた。


「でも、それがどうしてキミがここに来る理由になるの?」


 その問いに、俺は迷わなかった。どんな結果になろうとも、恐れることはなかった。


「重要なのは……お前の立場だ」

「立場?」

「海馬沙耶が俺と接触することは、政府側にとって最も避けなければならない出来事のハズだ。お前は、政府お抱えノ箱入り娘なんだからな。なのに、お前は平然と俺に接触してきた。そんなこと理屈に合わナイ」


 その直後、俺は海馬の笑顔が作りものに変わったのを感じ取った。頬の筋肉が微動した。


「思えばおかしなところは、それだけじゃない。鞍馬と雫が、俺を秘密の部屋に連れていった日のこと。あれは、俺が力に目覚めるキッカケになるような防がなければならない出来事だった。だけど、邪魔する人間がいて当然のそれを、誰も邪魔しなかった。むしろ直前に現れたお前は、それを助長しているフシがあった」


 畳み掛ける。海馬の表情がさらに歪む。


「あのログハウスじゃあ、わざわざロンギヌスを外に待機させて、俺たちに逃げる時間まで与えた。東藤が死んだ時もお前はただ傍観するだけだった。暴走した直後ならまだ俺を止めることが出来たはずなのに、だ」

「それは東藤が殺されたことで外の人間が対応に遅れたのよ。それだけじゃないわ。あの時のロンギヌスの出動数は五体のみで、それ以上の投入が政府と製造会社の貸借契約規定上、出来なかったのよ」

「……違う……そうじゃない、違う。そういうことが聞きたいわけじゃない」


 あたふたと見え透いた言い訳をする海馬を、俺は即座に否定した。


「最初から、お前は俺を導いていた。まるでココに来ることが運命で決まってイルかのように、その運命を遵守するかのように俺を導いてイタ。それがお前の望みだったんだ。ここでこうして向かい合わセに椅子に着くコトが、お前のシナリオ……本当のシナリオだったんだ」

「……」


 いよいよ沈黙した彼女に告げる。俯いた顔はもう見えなかった。


「どうしてそんなことをするのか。この一週間を使ッて考えた。自分を殺そうとするウィルスを導く理由は何か。意図ガあるのならソレは何か、って」


 核心を間近に、俺はそっと湯気のたつカップを見つめた。いよいよだ。


「考えた結果、出てきた答えはまったく逆だッタ。本当は……お前は――」


 ――殺されたかったんだ。


「…………」


 完全な沈黙。顔を上げた彼女の頬の痙攣は収まり、揺るぎない無表情が俺を射抜いていた。

 庭園を強い風が吹き、周囲を静寂が包んだ。


「お前は殺されたくて、俺をココまで導イタ」

「…………」

「まるで子供の気紛レを演じ、政府がその対応に慌てるのを楽しむかのように振る舞いながら、巧みに周りを欺き続けた。周到に仕組んで、ウソをツいて、」

「…………、いい」

「俺を、鞍馬を、雫を……みんなを騙して――お前は、」

「……もういい、もういいの……」


 わかったからもう言わないで、と海馬沙耶は俺の言葉を遮った。


「そう……その通り大正解……あたしは、殺されるためにキミをここまで導いた」


 ぽつりと、こぼすように。ぽつりと、悲しそうに。ぽつりと、痛むように――


 ――告白した。


 海馬は両手足を伸ばし、諦めよりも、むしろ開き直った声を上げた。


「あーぁ、とーても意外! 他に気付いた人、誰もいないんだよ。みんなあたしに無頓着だから、きっと気付くはずもないわよね。でも、まさかAIに看破されるとは思わなかった。うん、キミの思考ルーチンは他に存在するどれよりも優秀よ。人間を含めてもね。あー、でも鞍馬博士はどうなんだろう。もしかしたら、何か感付いていたのかも」


 さすが親子ね、と心にもなく賛辞を述べる。


「ちょっと待ってて」


 そう言って彼女は、ぴょんと立ち上がった。

 続けて、白く小さな両拳を空中で縦に並べ、景色を掴むと、まるでカーテンを引くように腕を曲げた。腕に引きずられた景色はその場から引き剥がされ、彼女の身体に巻き付き、さながら試着室のカーテンのようにすっぽり隠れてしまった。だが、数分と待つことなくカーテンは取り払われ、中から一人の少女、否、一人の女性が姿を現した。


「ソレが……」


 その姿に俺は眼帯の奥の目を見開き、言葉を失った。失わざるを得なかった。

 カーテンのように景色を引き伸ばす光景でも、払われ捨てられたカーテンが景色と元通りに同化した光景でも。

 そのどれでも微動しなかった俺の心は、彼女の容姿を目にすることで大きく揺さぶられた。


「これがあたしの本来の姿。ルーインに繋がれたあたしの、二十歳の海馬沙耶の姿なの」


 少し大人びた笑みを見せる海馬沙耶の頬は、ひどくこけていた。二十歳という年齢に比べ、十年前の身長と変わらず小柄で、淀んだ瞳に生き生きとした気配は皆無と言っていい。

 華奢だった腕も、脚も、やつれ荒み、骨が浮いていた。それは華奢と呼ぶにはぬる過ぎた。

 肉付きを失い、骨と皮だけになった身体は――まるで骸骨のようなのだ。

 小川のようなツヤにあふれていた長い髪はちぢれて痛み、四方に乱れて見る影もない。

 押せば折れて、叩けば崩れてしまいそうな虚弱な女性が立っていた。


「十年前、保護という名目であたしを監禁したことで、政府はこの牢獄の完成に至った。ところが、まだ幼かったあたしを犯罪防止のシステムとして利用するためには、その未熟な意思がとても邪魔だった。そこで政府は、あたしの意識をルーインシステム内に転送し、精神と肉体の分離を提案。無抵抗な状態、彼らの望む最適な状態にすることを考えた」


 ――だから、あたしはこの世界に閉じ込められた。


「当時十歳だったあたしは、この牢獄の中で未来を視続けることになった。未来を予知し、それを逐一予防局の人たちに報告し続けた。ここ十年間でのあたしの殺人、強盗、放火、その他の犯罪検挙件数を教えてあげましょうか?」


 その言葉に俺は頷いた。たとえ消えていく記憶だとしても、聞かずにはいられなかった。


「一五,三八二件」

「一万……」

「ここ数年で発生件数自体が減少しているから、その多くはあたしという存在の認知度が低かった最初の三年間。およそ三年間の間に、あたしは一万以上の事件を視ることになった」


 それは、強い恨みのこもる声で、だけどかすれて弱々しい声で。


「わずか十歳の少女に犯罪現場を視るように政府は強要した! 最初は仕方ないと思ってたわ! 人殺しはダメ、あたしのしていることは正しいことなんだって思ってたから。だから、あたしは弱音を吐く自分を黙らせた! 未来を拒む自分を黙らせて、納得しようとしたッ!」


 慌てて言葉を区切り、彼女は紅茶に手を伸ばす。あまりにヒートし過ぎているのが自分でもわかってしまったんだろう。だが、カップを握る指は小刻みに震えていた。


「最初の五年間は順調だったわ……。ここからだと外のことなんて知ることが出来ないから、あたしの予知は完璧で間違いはないと思ってた……だけど……運営開始から五年が過ぎた時、ある事件が起きて、それがすべてウソだってわかったの」

「……俺か」


 五年前の出来事を思い返せば、それは簡単な答えだった。


「そうよ。御剣颯という未知のコンピュータウィルスがあたしを襲った」


 彼女は俺に背を向け、広大な湖を眺めた。


「亀裂が入ったのは、そもそもキミがあたしを殺すことを予知出来たこと。たぶん知っているとは思うけど、あたしはかつて人間以外の殺人を予知したことがなかった。これはただの推測だけど、キミはそれだけ人間に近い存在だったってことなのだと思う」


 冷静に、淡々とした分析を呟く。


「最大の亀裂は、あたしの殺人予知――御剣颯が海馬沙耶を殺すという予知を覆したこと。キミはあたしを嘲笑って、殺すのをやめてしまった。この事件のせいであたしの自信は揺らいだわ。あたしの予知は、本当に完璧なのかって。もしかしたら冤罪もあるのかもしれない、って。そう考えた時、何が正しいのかわからなくなった。あたしの心が折れるのは簡単だったわ」


 椅子を立った俺は、湖を覗き込む彼女の隣に並んだ。眼下の湖面を指差した海馬。


「……これは」


 思わず俺は息を呑んだ。視線を下ろすと、湖面には見知らぬ人の顔が浮かんでいた。それはテレビの電源を入れるように瞬く間に数を増やし、一面に数百というビジョンを映し出した。


 恐怖。悲鳴。怒号。慟哭。激昂。


 刃が、銃が、人を襲い、血が飛び、火が舞い、肉が裂ける。


 誰かは跪いて許しを乞い、誰かは怨嗟をぶちまける。白昼に殴り、夜闇に脅かす。


 湖面全体を、阿鼻叫喚の死の光景が覆っていた。


「あたしはここに映っている何十倍も何百倍も人の死を視て、人の運命をねじ曲げていった」


 画面一杯に飛び散る血の雨を見ながら彼女は言った。


「あたしの心はとっくに壊れていた。たくさんの死に直面して、ぼろぼろに傷付いていた。いつからかはわからないけど、この世界から逃げる方法を探すようになってた。この世界から逃げ出すにはどうすればいいのか。その答えが知りたくて、あたしは彼女を訪れた」


 湖面に映っていた死の光景は波紋とともに流され、代わりに一人の女性が映し出される。映ったのはブロンドの髪をした可愛らしい女性だった。どこか八神まどかに似ていた。


「あたしは逃げる方法をはづきに相談したの。そしたら、この人なんて言ったと思う?」


 呆れたように笑いながら問う彼女に、俺は苦悶の表情で応えた。


「あの人ね……死ぬしかないって言い出したのよ。それが唯一ここから逃げ出す方法だって。まあ、はづきは元々あたしを殺そうとした側の人間だし、そういう考えをするのは当然のことよね。でもさあ、あたしがそれをしなかったと思う?」

「……」

「自殺なんて、すでに何度も試したわ。でも全部無駄に終わった。だってここは現実じゃないんだもの。この世界で自殺を試みても安全装置セーフティが掛かって傷の一つも付いてくれない。あたしがどんな手を尽くしても死ぬことは出来ない。きっと政府の人間も、あたしがいつか自殺を考えるってわかっていたんだわ。だから、あらかじめあたしの肉体と精神を分離したのよ」


 悔しそうに海馬は自らの爪を噛んだ。


「八方塞がりよ。あたしはこうしてずっと、寿命を迎えるその時まで人の未来をねじ曲げていくしかないの。箱の中の生きているか、死んでいるかもわからない猫を、この手ですべて殺していくしかないの。牢獄の中で行動したって何もならない。あたしは生きることも死ぬことも諦めたわ。何もかも諦めた……」


 言い終えて彼女はその場で膝を折り、座り込んだ。直後彼女の足元に点々と小さな染みが浮かび上がった。


「でも……でもある日、こうして湖の前で座っていたら……キミの姿が視えたの。鞍馬博士や雨宮雫と仲良くしているキミの姿がね」


 その言葉に呼応して、湖面に俺たち三人の姿が映し出された。アルミフレームの眼鏡とポニーテールの黒髪と、その二人の間で笑っている男の姿。場所は街の商店街だった。


「二度目の予知を視たのは一か月くらい前かな……。映ったのは卒業式の前日から――キミが再度あたしを殺すまで。出演者はキミと鞍馬博士と雨宮雫。八神姉妹、東藤、」


 それからあたし、と自分を指差し、涙で濡れた頬を和らげる。


「ようやく死ねると思ったんだよ。キミがまたあたしを殺しに来てくれる。やっとこの牢獄から解放されるって」

「歪ンでるな……お前」

「へへへ……言ったでしょ? もうあたしは壊れてるんだよ」


 溢れ出る涙に、顔をよれよれにくしゃくしゃに歪め、海馬はやつれた微笑を作った。


「鞍馬博士には八神姉妹のことは話さず、この予知の結末も彼らの都合のいいように改変した。つまり、御剣颯を無事に外に出すことが出来るような話をでっち上げた。人が死なない予知も出来るようになっていたから、彼もあたしのウソをすんなりと信じたわ」

「すべては自分が死ヌためニ?」

「そうよ……そうする以外に方法がなかったんだもん」


 おもむろに彼女は立ち上がり、俺のコートを両手で強く握り締めた。しわが寄るほどきつく取られたコートに、だけど俺は抵抗しなかった。腫れた顔で海馬が、俺を見上げていた。


「……お願い、あたしを殺して。キミは……そのために存在してるんでしょ? もう未来を視るのは……疲れた。もう嫌なのよ。人の運命を歪めてヒーロー気取りでいるなんて……もう死んで楽になりたい。全部終わりにしたいの」


 そう懇願され、そう嘆願され、そう哀願され、しかし――俺は何もしなかった。


 彼女を殺すのは簡単だ。それは彼女の本懐であり、俺の存在理由でもある。

 海馬は死ぬことを望み、俺の中のウィルスの部分が眼下に迫る彼女を求めている。それはもはや滑稽なほど完璧なシナリオなんだろう。


 だけど――違う。そんなことのために俺はここにいるんじゃない。


 海馬沙耶がどうして俺をこの部屋まで導いたのかを知った。

 彼女の抱えている痛みを知った。知ることが出来た。

 彼女の話を聞いて、そして俺は――もう一つの目的を見つけた。


「……なんとかなる」

「……え」


 出し抜けの言葉に海馬は目を丸くした。俺はほのかに頬を歪める――笑んでみせる。


「いつか俺は運命を変えたいッテ思ってた。くだラナイ世界だ、取るに足りない人生だって思っテた。でも……この世界がオ前らの造ったニセモノだって知って、むしろ助けられたンだ。コノ世界は誰かによって都合よく仕組まれたニセモノ。だったら、マダ何かを変えることだって出来るンじゃないかって。まあ、結果的に俺の運命は、落ちるトコロまで落ちて変えられなかったけど。でも、俺はまだ諦めたつもりはない。絶望的だって、最後の最後までもがき続けル。ソレが俺の生き方だから」


 諦めない。もがき続ける。もがいてもがいて――俺の死ぬ運命は変えられないけど、海馬を救うことなら、彼女の生きる運命なら掴み取ることが出来るかもしれない。

 そうすることが親友たちに向けることの出来る餞なんだと信じている。


「も、もがいても……どうにもならないのよッ!」


 早く殺してよ、と泣きじゃくる彼女はその場にくず折れた。

 悲鳴を混じらせる少女に視線を合わせるよう、俺も膝を折り彼女の顔を覗き込んだ。


「――殺さナイ。俺は、お前を殺サナい」


 彼女の手を取ろうとして、だけど動かなくなった左手に気が付いた。

 俺の時間は長くない。物語はもう終わる。


「そんな簡単なものじゃないッ! キミの運命が決められているように、あたしの運命も決まっているのッ! あたしはキミに殺される以外に運命を変える方法を知らないッ! この方法しかないからよ!!」


 彼女はもう完全に諦めている。この十年間の苦悩が堰を切って溢れた。


「……ある。お前ノ運命ヲ変える方法ヲ……俺は知ッている」


 だけど、俺なら彼女の苦悩をなくしてやれる。

 はっとして海馬が俺を見つめた。すぐに目を細める。俺の心を覗くように。


「む、無駄よッ! キミが次に提案する方法はわかってる。だって視えてるもの。キミはこれからこのルーインの破壊をあたしに提案するわ。でも、でも……ルーインを破壊したって、すぐに次のプログラムが造られて、またあたしはそこに閉じ込められる。同じことの――」

「……違う」


 えッ、っと彼女は喉を詰まらせた。凍り付いた顔が俺を凝視した。

 俺は右手を彼女の頬にあてがう。片目を拭う彼女は、怯えたように咄嗟に身を引いた。


「な、何を言っているの? 知らない……こんな運命、あたしは知らない!! いやッ!! や、やめてッ!! 来ないでッ! 何なの! キミは一体何なのよッ!」


 心が見える。恐怖が伝わってくる。強い不安に苛まれ、孤独に呑まれ。発狂し、死に物狂いで逃げようとする彼女を、俺はしっかりと見据えた。離すつもりはなかった。


「俺は……」


 何者なのだろう? 一体何者なのだろう。


 プログラムで、AIで、コンピュータウィルスで、SXH-01で、ルーインに閉じ込められた囚人で、だけどそのすべてが――


「御剣颯だよ。ソレ以外の何者でもない」


 鞍馬総一郎という一人の研究員によって造られた存在。

 その鞍馬と雨宮雫の親友である存在。

 そして、彼女――海馬沙耶を救う存在。


「また……なの……? キミは……また……また超えるの?」


 ぼそっと嗚咽を混じらせながら、海馬は遠ざけようとしていた身体を俺に寄せた。細い腕で俺の両腕を掴んだ。彼女の震えた手がコートにシワを作る。


「あたしはこれからどうなるの? 死ぬの? そうじゃないとしたら……」


 すがり付き喚く彼女の言葉を手で遮る。そして、きつく、折れないように優しく抱きしめる。


「信じろ。俺を信じろ」


 このシナリオの結末はまだ誰も知らない。そもそも運命なんて誰にも知ることは出来ない。

 だからこそ、やれることがある。泣きじゃくる彼女を笑顔にすることだって出来る。


 きっと――俺はそのために生まれたんだ。


 絶望する彼女を希望で満たすために、ここに来たんだ。

 やっと……やっと、俺はレールの終着点を見つけた。

 誰の意図でもなく、定められた運命でもなく、俺が決めた意志でここに来た。

 だから、俺は言う。いつだって俺を助けてくれた言葉を言う。

 あぁ……このセリフを言うのも、これで最後か……。


「……大丈夫、きっとなんとかなるさ」

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