第五章 五節
「――――ガハッ!!」
骨の関節がズレるほどの衝撃に、僕は息を詰まらせた。天井に張り付いた身体が軋む。
ぱちぱちと燃える音が淡々と耳を打った。全身が熱い。
階下で雫を見た。拳で床をぶち抜き、十フロアほど下にある管制室前で、彼女もまた闘い続けていた。形勢は雫にあったように思うが、でも今はそれに取り合っている暇はないだろう。
――颯の心が見えない。
彼が何を考えているのか。雫を見て、それでさえ心の一つも乱さない。まるで感情を亡くしてしまったかのように、一重にも見せてくれない。
――もう無理なのか。
頬を伝い垂れる涙が、肉体とともに天井から落ちる。だが、それと交錯して――
「あぐあッ!!」
再び全身が天井に打ち付けられた。天井に移された空がビシリと波打った。
身体が深くめり込むのが、背骨を通して伝わってくる。
「どうしテ……俺に構うんだ。どうシて……」
階下から跳躍してきた颯が僕に跳び掛かった。
「無駄だって……理解シロッ!!」
「嫌だッ!!」
まるで子供のように叫ぶ僕は、彼を蹴落とした。だが、落下するかに思われた彼は重力をあらかた無視して、側壁に着地すると即座に蹴り上がってきた。
「アアアアアアアアアァァァァ――――――――――ッ!!」
天井から抜けた僕は颯に跳び掛かり、組み合い、もつれ合い、無様に回転しながら落下する。
床に落ち、一度間合いを取るが、すぐに磁石に引き合わされるかのごとくぶつかり合う。
素手が飛び交い、蹴りが舞う。
僕の拳を彼はかわし、放った蹴りは右手に収まった。掴まれた脚を軽々持ち上げられ、片手で投げ飛ばされる。
一閃の火球となった僕はめまぐるしい速度でフロアを横断し、壁に突撃す――
だが、その先に立ちはだかる壁に――床と平行になって立つ彼が待ち伏せていた。
断頭台のごとく降り下ろされた拳が僕の頬をえぐり、真っ逆さまに床へと叩きつけられる。
「――――ッ!!」
受け身を取れど、その衝撃は計り知れない。間髪入れず、四つん這いから立ち上がる。
「何がキミを動かすッ! どうして闘うんだ!」
火炎を吐き、僕は喉を焦がさんばかりに吠えたてた。
「どうしてッ……」
彼を突き動かすものは何か……。彼と僕はどうして争っているのか……。
迷いが、雑念が、葛藤が、僕の動きを鈍らせる。
当たらない。回し蹴りも、膝蹴りも、上段も中段も下段も、突きも、肘も、正拳も。
炎渦を成すすべての攻撃は、彼に一切届かない。
きっと思っていた、気付いていた。
勝てるわけがなかったんだ。このために造った強化プラグイン――これは、この世界で出しうる最高の能力を発揮するために僕一人で組み上げたものだ。
ならば、彼には――ゼロワンには――御剣颯には通用しない。
何故なら颯は、僕とはづきさんが二人で造った最強のプログラムなのだから。
「――ぐッ!」
突き出した拳を掴まれ、足を払われ、僕の身体は風車のごとく回転した。
――落ちる。
気付けば……僕は天井を見上げていた。太陽を映す天井が眩しい。しこたま打った背中が痛み、わずかの間呼吸が途切れた。
颯の手が喉を鷲掴みにし、僕を持ち上げた。万力のようにぎりぎりと締め上げる。
「……死ぬぞ、お前」
にべもなく告げられたその言葉に、絶望を感じない僕じゃない。でも、その詰まる喉でさえ反論せずにはいられなかった。
「……死な、ないよ……死ぬわけ、には、いかない」
その言葉に彼の手が微動する。
「こんな人生を、キミに与えてしまっ、た……僕は……償いたい、んだ……」
力なく足を下げ、苦しみに喉を震わし、悲しみに頬を濡らす。
「せめて……親として、キミにいい、人生をと……思った。勝手な、都合で、壊したキミの人生を……どうにか取り戻した、かった。それはいつしか、僕の生きる意味に、なった。キミや雫といた……時間は、とても……とても幸せだった」
その幸せをもっと長続きさせたい。それはもっとも単純な欲求。
きっと、単なる自己満足なんだろう。颯にとっては大きなお世話なんだろう。
だけど、そうせずにはいられない。
――彼は僕の親友だから。
「……ふざけるな」
くぐもった声が鼓膜を揺らす。途端、僕の全身を悪寒が襲った。
同時に覆っていた炎が激しい音とともに霧散した。僕を包んでいた熱は、辺り一帯に火炎の鱗粉となって、やがて掻き消える。彼はその崩れかけた顔を上げる。
「俺だって!! 俺だって楽しかったンだッ!」
感情の奔流だった。それは、明らかな怒りを表現していた。
「ずっと続けばいいと思ってたさッ! お前らの存在が、俺にとってどれだけ重要だったか、わからないわケじゃなイだろッ! 誰よりも大事な存在だって思ってたンだ! バカみたいに遊んで、バカみたいに笑って!!」
彼の頬から剥離した皮膚が、まるで涙のようにぼろぼろとこぼれ落ちる。
「お前と雫の恋愛相談も! タワーに上って見た景色も! あの旧校舎でのコトも! 全部、全部、全部ッ!」
首を掴む彼の手が震える。一言一言に力がこもる。
「そういう日常がズット続けばいいって思ってた!! なのに、それをぶち壊したのはお前じゃないカッ!! 旧校舎に連れていったのはお前たちだろッ!!」
あれは沙耶が、と反論しようとして、しかしきつく締められた首に言葉は遮られた。
「感謝したい気持ちはある。だけど! それ以上にこの現実は残酷過ぎるンダッ!!」
「ヌグッ!」
全身に力が入らない。まるで、彼の怒りに共鳴するかのように、僕の身体がハリボテに変わっていくのを感じる。じわりじわりと自由が失われていくのを感じる。
――これは……。
「俺だって死にたくない……出来るんだったら、運命を変えたい……でも、でも……もう俺が消える運命は変えられない」
空いた手を眼帯に掛け、彼は勢いよく剥ぎ取った。そこに現れた彼の顔に僕は目を疑った。
「そ、れは……」
彼の左眼球があったはずの場所は黒く窪み、その原型を留めていなかった。反面、右眼球はその原型を留めるも瞳の色が完全に白色に染まり、無色の玉が入っているだけだった。
「俺はこの先に行く。そこで俺と……彼女の運命を見届ける。それが俺のシナリオだ」
その直後、僕の身体を激しい痙攣が響き、全身の筋肉が波打つように一斉に弛緩した。
首から失われていった感覚に、僕は突然の症状の原因が何なのかすぐさま得心した。
――ウィルスか……。
「すまない、鞍馬……本当にスマナイ」
彼は僕の首を離した。僕は抵抗することも出来ず、床に伏した。立ち上がることも、声を上げることも、ましてや手を上げることも出来ぬまま、僕は颯が最奥の扉に手を掛けるその光景を、ただ呆然と眺めていることしか出来なかった。
やがて、完全に扉が開き切る直前、僕の身体が抱え上げられた。
「……ソウちゃん! しっかりして!」
雫の声が聞こえた。彼女の澄んだ声が僕の耳を打つ。すると、視界の端に彼女の、涙に腫らした顔が飛び込んできた。次に彼女は、扉の奥に目をやった。
「行かないで、颯ッ! 待って! お願いッ!!」
それは水の中から音を聴いているような、ぼんやりと反響する声だった。
もう身体の感覚は何もない。本当に死んでしまったかのように何も感じない。
目一杯に空気を吸った雫がはち切れんばかりの大声を上げる。
「颯ええええぇぇ――――――――――――――――ッ!!」
消える。彼の背中はその叫びさえも無視し、扉の奥に吸い込まれた。
人の心は、やはり僕には理解出来ない。はづきさんの心も、沙耶の心も、そして颯の心も。
何一つ理解の出来ないのだから、何一つ成功することなどありえない。
人工知能というまやかしにかまけ、僕は大事なものを疎かにしてしまった。きっとツケが回ったに違いない。そう、きっとこれが僕のシナリオだったんだ。
接続が途切れる寸前、僕は心の中で呟いた。
――ごめん……颯。
償いの言葉だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます