第五章 三節

「お前の言いたいコトはわかった。だけど、俺は考えを変えるつもりはない」


 黒の手袋を深くハメ直した颯は、腹の底にまで響く重い声を出した。ノイズが強くなる。


「お前にやらなければならないコトがあるように、俺にもやらなければならナイことがある。それを邪魔する権利はお前にもない」


 踏み出す。ブーツの踵が鉄の床を鳴らした。

 彼が距離を詰めるごとに僕の心臓は、ひずむように痛みを増す。


「ああ、何となく……そんな気がしていたんだ。可能なら言葉でどうにかしたいと思っていたけど。説得は無理そうだね……」


 不快感から逃れるように退きながら、僕は額の汗を払った。彼は唇を曲げた。


「頼むから退いてくれ。死ぬかもしれないンだぞ」

「構わないよ……友達を守れないよりはいいさ」

「……ああ……そうカ」


 もう選択肢はないんだナ、と彼は落胆を露わにして、被っていたフードを外した。


「……えッ!?」


 そこに現れた彼の顔に、僕は目を見張った。

 彼の両目が――分厚く黒い眼帯に閉ざされていた。

 それだけじゃない。頭髪は白と黒のまだらに染まり、左頬から首の肌――おそらくそのコートの下の全身も――には六角状の網目が描かれ、そのハニカム構造に刻まれた傷跡が感染症のように肌を蝕んでいた。


「ウィルスが……侵食しているのか……身体に」

「もうずいぶん進行してンだ。色々と機能していない。記憶だってあやふやデ……正直こうやって話シてる時間モ惜しい。まさカ……自分の力が自分を殺すなんて情けないよな」


 そう言って彼は頬を引きつらせた。それは笑みにも見えるし、皮肉っているようにも見えた。


「くそッ」


 理想的な形は説得することだった。死者も出ず、無血でことが終わるならば、これ以上にいいことはなかった。説得のための材料も揃えたつもりだ。

 だけど、おそらく今の彼には、僕の説得を聞くだけの余裕もないのだろう。

 見ればわかる。ちょっと目を離しただけでたちまち崩れてしまいそうなその朽ちた肌が一際目を引く。人のものとは思えない不自然な挙動が恐怖を呼ぶ。一刻の猶予も許されないこの状況で、僕の説得を聞き入れてくれるとは思えない。


 ――もはや実力行使しかないのか。


 軍服に巻いたベスト型のホルスターから銃を抜き出し、堅く構える。9ミリ拳銃


 ――昔、陸上自衛隊で使用されていた旧式のものだ。


「サマになってるじゃないカ。少し前とは大違いだ」

「この時のために、散々雫に怒られたからね。そうじゃなきゃ困るよ」


 スライドを引く。両足を肩幅に、左足は半歩前。右手を強く前に伸ばし、脇を締め、左手はその右手を包み込むように添える。大丈夫、雫がいるんだから。

 その僕を前にして、颯は人間味のない平坦な表情を作った。


「……行くぞ」

「――――くッ!!」


 それは瞬く間も与えてくれなかった。気付けば、彼の顔は僕の鼻の先にあった。

 回避。横に跳び、咄嗟にやり過ごす。同時に二発の鉛玉を打ち出す。

跳び込んできた彼は光のような速度のまま左右にステップし、僕の弾丸は華麗に避けた。

 一発、二発。銃声が狭いフロアにこだまする。当たらない。

 急ブレーキで制動を掛けこちらに振り返った彼は、じわじわと静かに歩み始めた。こちらの次の手を窺うように、タイミングを見定めるように歩く彼に、僕はまた銃を向けた


「……ふう」


 ため息を一つ。颯の動きが想定よりも数段速い。ロンギヌスとの攻防で戦闘に関するある程度のデータを得ていたが、今の動きはそれをはるかに凌ぐ。僕の身体能力では足りない。


「ちゃんと狙エ」

「じゃあ、そのまま動かないでくれ、よッ!!」


 それを合図に、三度引き金を引く。

 だが、目にも止まらぬ速度で跳ぶ弾でさえ、すべて最小限の動作でかわされる。

 再度三発。拳銃に内蔵された銃弾の自動生成機能が働き、下手な鉄砲も数には困らない。

 一発、二発、三発。右腕に構えた銃が乾いた音を立てて火を噴く。

 射出された弾は首の脇を抜け、肩を透かし、颯は緩やかだった歩調を次第に上げていく。


 ――さあ、来い。


 直後、彼は急激に速度を上げて走り出し、天井高く跳躍する。

 頭上から黒い塊が降る。足を突き出し、車輪のような縦回転が空を切る。

 直滑降に落下する颯に、瞬時に僕は銃を向けた。

 空中ならば回避は出来まい。そう放った弾丸は虚空に甲高く反響し、黒の塊を正面に捉えたが――彼は、たとえ空中でもその軌道を変えてみせた。

 よしっ、と心で拳を握る。すべて想定通りだ。

 銃弾が颯の間近に迫ったその瞬間、それは空間を覆い尽くすまばゆい光を放った。

目も眩むほど光が四方八方、放射状に広がり、直後電界を帯びた青白いネットが拡散する。

 空を映す天井に張り付けにされた彼の姿は、さながら蜘蛛の巣に掛かった蝶に似ていた。

 瞬く間に広がった電磁ネットは、彼を巻き込み、その黒い肉体をまるごと封じ込めた。薄ら流れる電流に痺れ、颯の肉体が細かに痙攣する。


 ――これで終わった。これで……。


 ところが――その期待はすぐに裏切られた。


「ど、どういうことだ……」


 彼の表情が暗く曇るのに合わせ、青白かった電磁ネットがドス黒く変色し始めた。一本一本の糸がどろっとした粘っこい液体に変わり、一部がぼたりと大きな音を立てて床にこぼれた。数順と待たずしてそれらはあまねく溶け落ち、留めていた颯が解放される。


「無駄なんだよ。こんな平易なスクリプトで造らレた物体じゃあ、俺のプログラムには耐えきれない。すぐに侵食して、壊れちまう」


 つまらなさそうにぼやき、颯はその場でおもむろに立ち上がった――天井より頭を下にし、蝙蝠のようにぶら下がりながら、重力の概念を根こそぎ無視して立ち上がった。身にまとうコートも、両目に締めた帯の余りさえも法則に反して上を向いていた。


「あんまり……壊してほしくないんだが……」

「それは無理な相談だな」


 真上から見下ろされる姿勢になって僕は、天井へと発砲を繰り返した。吐き出された全四発の弾丸はすばやく軌跡を描き、やはり何ものをも貫くことなく彼の足元――天井に着弾した。


 ――どうすればいい……?


 時間がない。このまま弾を浪費したって何の意味もない。一分一秒だって今の僕にとって、ただ時間を捨てるようなものだ。そんなことをしている場合じゃない。

と、その時だった――


「ん?」


 何かが床に落下した。電磁ネットの名残だろうか、それとも弾薬だろうか。欠けた天井が剥がれたのかもしれない。


 だが――だが、今落下したのはそのどれでもなかった。


 太陽のマークに似た赤い血痕が、床に小さくかたどられていた。

 ハッとして上を見上げる。見れば、颯は自らの割れた頬を――赤い筋の通った頬を不思議そうに押さえていた。僕は思わず眉を寄せる。


 ――当たったのか?


 彼の反応速度を考えれば、それは絶対にあり得ない。実際、僕にはさっきの弾丸を最も少ない挙動で避けられたように見えた。ただ、頬の傷と天上の着弾点は一直線に繋がる。


「すまない」


 小さく謝罪した彼は天井から足を外し、二十メートルをゆうに超える高さから落下した。

 どっ、と轟音を打ち鳴らし、床板を好き放題めくり上がらせつつ着地した彼は、同心円の着地点の中で、ゆったりと頬の血を拭き取った。何枚かの皮膚がこぼしながら。


「もう時間がない。悪いガ……終わりにしよう」


 時間がない。彼自身の口から告げられた言葉に、土気色に淀んだ焦燥感が込み上げる。

 最低最悪の事態――彼の中にあるウィルスの部分が御剣颯の人格を壊してしまう。とすればそれは彼の消滅を意味することになる。すでに身体のプログラムが壊されている状態で、人格の破壊はそう遠い話じゃないはずだ。


 ――もう策は、一つしかない。


 銃をしまった僕は、おもむろにポケットから一本のペン型の注射器を取り出した。中に満たされた、いかにもグロテスクな黄緑色の液体を観察し、内容量を確認する。


「なンだよ、それ?」


 僕の行動に、颯は首を捻った。対して、僕はペンを強く握り締めた。


「最終手段にと取っておいたんだ。本当に打つ手がなくなった時のためにね……だけど、どうやら、今がその時みたいだ!!」


 大きく振りかぶった注射器を躊躇なく首に突き刺す。みるみるうちに液体が僕の体内へと流れ込む。


「くっ……グッ!」


 全身が熱い。灼熱に炙られるように沸々と内臓が煮える。身体中から赤い光がほとばしり、全身を炎が包み込んだ。肩から、腕から、背から、脚から深紅の火炎が立ち上る。


「無茶なシステムの改変はバグを誘発するんじゃないのか?」

「言っただろ……キミを止められないよりはマシだって! ヴゥッ!! アアアアアアアアアァァァァァァァ――――――――――――――――――ッッ!!」


 身体を呑み込んだ炎は燃え上がる角と牙、鉤爪に形を変えた。


 ――悪魔を模した強化補正プラグイン。


 全身の筋肉にシステムの規定値外の補正を掛け、飛躍的に身体能力を上昇させる。腕力、脚力、反応速度、敏捷性のあらゆる面で人間のそれを超越し、このルーインプログラムに存在するすべてのプログラムを支配することの出来る僕特製のプログラム。

 吠える。内に宿る想いを残らず吐き出す。


「絶対にキミを止めるッ……後悔したくないんだッ!」


 そう言い終わるのが早いか、コートを翻した颯が猛然と走り出し右腕を振り上げた。

 真っ直ぐに伸びる拳を僕は顔の数センチ前で受け止める。

 しかし、運動エネルギーによる重量の載った一撃を止め切るには適わない。僕はそのまま鉄壁に殴り飛ばされた。


「――ぐッ!」


 息が詰まった。内臓が揺さ振られ、強烈な嘔吐感が僕を襲った。

 だが、すぐさま立ち上がり、しかと、颯を見つめる。

 そして――炎に包まれた足で床を踏み抜き、一気に飛び掛かった。

 その直線的な僕に彼はまるでタイミングを合わせ、二人の拳が交錯する。つぶてがお互いの頬を抉る。

 その間際、僕は咄嗟に顔を引いた。腰を軸にし、引いた力と逆方向に足を振り上げた。


「ウラアアアアアアアアアアアァァァァァ―――――――――――ッ!!」


 大鎌のように力の付いた足は彼の首に深々と突き刺さる。そのまま身体を回転させ、蹴りの連激を浴びせ掛ける。それらはすべて彼の身体に吸い込まれ、一撃一撃に彼の身体が歪む。

 切り返し、握り拳を腹に集める。抉るように強く、深く。


「肉体は要らないんだッ、中身さえ残ればッ!」


 一時的な機能停止状態に追い込まなければ、彼を解放することは出来ない。

 度重なる連撃に床に崩れ、大の字に倒れた彼に馬乗りになる。

 浴びせ掛けるように拳を振り上げる。バラが咲くように火の粉が舞う。

 何度も、何度も、何度も……。

 僕たちの願いのすべてを乗せて。

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