第四章 二節
唐突な逃亡は、バックドアの白い世界を目の当たりにすると同時に、唐突に終わりを告げた。はづきの用意した裏口は、俺とまどかをその内部に残して跡形もなく消えてしまった。いくらもがいても引き返すことは――絶対に出来ない。
「うっ……ううっ」
堪えても止まってくれない涙をそれでも押し留めようと、まどかは白色の床に膝を突いた。
何分が、何時間が経ったのだろう。俺は言葉もなく、彼女の丸くなった背中を見ていた。逃げる寸前、グングニルに破かれた彼女のコートがどこか痛々しかった。
「……八神」
声を掛ける。子供のように泣きじゃくる彼女をこのままにしてはおけなかった。だが、
「……」
返答はない。音を飲まれた白色の世界に響くのは、ただ彼女のすすり泣く声だけだった。反響もせず、感動もせず、白色の世界は物言わず俺たちを見下ろしていた。
やがて――
「わ、私が、ルーインに侵入した最大の……理由は、うっ、捕まった、ただ一人の姉を助けること……で、そのために厳しい訓練をしました……やっと、やっとここまで来たのに――」
失敗してしまった、と彼女は嗚咽を片手で止めながら言った。
そんなこと聞かなくても、はづきに会った時の嬉しそうな態度で察しはついていた。
「他に方法はないのか? はづきを助ける方法は」
「現状は……ありません。私たちがお姉さまと、接触してしまった以上、お姉さまに……対する警戒レベルは引き上げられた、はずです……そも、そも、あれほど簡単に出会えたこと自体が奇跡だった……もう先ほどの、ようには、行きません。それに……生きているかどうか」
「……おい」
打ちのめされ、悄然とした彼女の態度に黙っていられなかった。
「お前、なんで諦めんだ。そんなの全然お前らしくねえよ。いつもみたいに堂々としろって」
柄にもない俺の言葉は、それさえこの世界では反響しなかった。
だが、目の前のまどかに伝えるには充分だった。俯けていた顔を上げ、彼女は涙に濡れた瞳を俺に向けた。くしゃくしゃに歪んだ顔を俺に向けた。
「俺、お前のことすごいって思ってたんだ。俺と大して歳変わらないのに、いつだって冷静で、俺の質問はすぐに答えられる。あのロボットにだって負けない。それって全部姉を助けるために努力した結果なんだろ! それ、すげえよ!」
俺みたいに感情的になって親友に銃を向けてしまう馬鹿な人間には、到底マネのできない芸当だ。温室で育てられた俺に、彼女のストイックな精神は持てない。
正直、はづきのことは『ミストラル』創設の件もあって、好きにはなれないし捕まったままでいろとさえ思う。だけど、その感情を妹のまどかに向けるのは筋違いで、こうして頑張る彼女を目の当たりにしていたら、このくだらない私怨をほっぽり投げたって構わない。ここまで来たらヤケクソだ。もはや世話好きも真っ青のお節介焼きだ。
「誰でもない! これは八神まどかにしか出来ないことなんだよ!」
そう叫んで、唐突に耳が熱くなるのを感じた。まるで告白でもしている気分になって、急に恥ずかしさが込み上げてきた。今のはやっぱなしだ。
「……あ、あ」
悶々と格好の悪い男を見上げた少女は、きつくと唇を噛みしめた。一滴の涙がこぼれた。
やがて、手を突き悠然と立ち上がると、彼女は濡れた顔をコートの袖で拭き付ける。美しい柳眉をかざし、口は真一文字に引き結ぶ。いつものように、いつもの八神まどかのように。
「……あるには……あります。ただし、成功する保証はありません」
「それでもいい。聞かせてくれ」
「このルーインを完全に破壊してください」
「……破壊って……ま、また大きく出たな」
即座に冷める。ノア――海馬沙耶を殺すのも大概だが、この世界ごと壊せと言うのは、これまた凄まじい。
「この世界を根本的に破壊すれば、収監されている人間は皆、現実で目が覚めるはずです。囚人の場所は、ノアとは違って我々の知るところ。全員が目覚めたことにより発生するであろう混乱に乗じてお姉さまの身体を奪取します」
「その作戦、上手く行くのか? いや、今はそれしかねえんだよな」
「すみません。現状はこの策しか……」
「やってみよう……きっとなんとかなるさ」
俺は、バックドアの出口を目指そうとまどかの背を押した。
その背から小さく、ありがとう、と声がしたのを、俺はあえて聞き流した。
バックドアの仕組みは、いまだはっきりとはわからない。許可のある者以外は不可侵であったり、入り口と出口は必ず一方通行だったり。最終的にある程度歩くとスチールや木、鋼鉄、大小様々な種類の扉の群れが現れ、適したドア以外は開くことがない。
まどかは同時に複数現れたドアのノブを片端から回し、すぐに一つの答えを引き当てた。
「お姉さまの用意したこの扉がどこに繋がっているのか、私にもわかりません。敵の本陣のど真ん中に出てしまうことも万が一にもあるかもしれません。心の準備はいいですか?」
「盛大にやってくれ」
その返答に彼女は苦笑した。そして握るノブを慎重に押した。
「――――ッ!」
風が吹き込む。身も飛ばされそうな強い突風に二人のコートが激しくはためいた。
「どこだ、ここ?」
どこか寂しい空気が漂う場所にいた。足元が固い。少し前まで、しこたま自然物を踏んで慣れていたせいか、その固さが妙に居心地悪かった。
見渡せば、視線の先に夜空が見えた。そこに浮かぶ綺麗な満月が漆黒の中でアクセントとなり、俺達を照らしている。
しかし、外にいるわけじゃない。足元も天井も冷たい灰色のコンクリートが覆っている。数メートル先に鉄骨のむき出しになった数本の柱があり、よくよく見ると、月が浮かぶのはガラスのない窓の向こう。なるほど、ようやくどこにいるのかがわかってきた。
「ビルですね……それも工事途中の」
同じ結論に至ったまどかがいた。窓際まで移動し、俺はそこから下の景色を窺った。
吹き上げた風が頬を撫でる。ビルは相当高く、眼下に広がる都市部は穴の底ように暗い。
「どうやら街に戻ってきたようです。見てください」
隣に並んだまどかが片手を上げる。指を立て、とある一点を示す。
彼女の示した方向には、俺の街でシンボルになっている一本の塔が立っていた。
この街には不釣り合いに大きく、世界のすべてを反射しそうな無数の鏡に覆われた銀色の塔が、闇の街の中でも、まるで魔城の異彩を放って屹立していた。天を突く塔は、上に行くにつれて細く矢じり状に姿を変えていく。
ああ、間違いない。あれは俺の街にあるたった一つのシンボルだ。
ところが、そう得心する俺に、まどかは奇妙なことを言い出した。
「あれが私たちの最終目的地、ターミナルです」
「は? 何言ってんだよ、お前」
「いえ、間違いありません。あれがターミナルです」
再度強く言い放たれた言葉に俺は言葉を失った。
だってそうだろう。あれは街を一望するために建てられた、いわゆる娯楽施設なんだ。実際、卒業式の前日、俺と鞍馬と雫の三人でここを訪れた時は、ゲーセンとか、グッズショップなんかがあって、ターミナルなんて呼ばれるに値するような施設には見えなかった。それが政府の重要な場所なわけがない。
「し、信じられねえ。あれが……ターミナルって、ありえねえよ」
「あなたはあれがターミナルではないと言い切れるほど、あの建物を隅々まで調べたことがあるのですか?」
「……え」
口ごもる。その指摘はごもっとも。すべての階の、すべてのフロアを見てきたことはない。そもそも、一度しか行ったことがない場所なのだから、それも無理はないだろう。
だが、奇妙な建物だとは思っていた。
あの日――卒業式の前日、中層展望室を目指すエレベーターの中で、停止ボタンがない階層をいくつも通過した。従業員用の何かだろうとその時は思ったもんだが、それは一つや二つではなく、かなりの数にのぼる。凄まじくアホみたいな高さのほんの一部しか触れておらず、はるか天を貫く建物の上層に何があるのかなんて見当もつかない。
言われるまで気にも留めなかった。仕組まれたように考えが浮かばなかった。
「あれが……ターミナル?」
本当に何も知らないんだな、俺は。八神に聞かされたたくさんの真実なんて、まだごく一部に過ぎなくて、知らないことは山のようにたくさんあるんだな。
不気味にそびえる塔を遠望し、俺は立ちすくんだ。
――その直後、声は聞こえた。
「何も知らない。何も教えない。それがゼロワンに用意されたシナリオだからな」
咄嗟に振り返り声の方向を睨んだ。暗がりになった柱の隅から軍服をまとった男性が姿を現す。がっしりとした身体つきに若々しい顔を載せた男性は、それに似合わない剣呑とした表情を顔面に貼り付けていた。
全身が堰を切って熱くなる。その顔に俺は衝撃を受けずにはいられない。まさかここでまた会うことになるとは思わなかった。まったく、スーツよりもさまになってるな、その軍服……。
「……親父」
「また会えるとは思ってなかったよ、颯くん」
親父はその険しさを顔に残したまま口の端を吊り上げた。
「八神まどかくん、だったかな。遊びも飽きただろう? そろそろそいつを返してくれないか。こっちも上がご立腹でね。気が気じゃないんだ」
「どうしてこの場所がわかったのですか」
親父の要求を端から聞き入れず、まどかは彼を細く睨み噛み付いた。
「キミにしては愚問だな」
そう言って親父は軍服の胸ポケットから何かを取り出し床に滑らせた。ひらひらと木の葉のように落下したそれは、一辺十センチ程度のいびつな黒い布だった。それには見覚えがあった。
途端にまどかの瞳は丸々と広がり、破けたコートの裾を掴んだ。忌々しげに歯軋りが鳴る。
「慎重派のキミには考えられないミスだな。これを回収されて、すぐにこちらが解析を始めるとは思わなかったかな?」
得意満面な親父の表情に、まどかの表情はさらに歪む。握り拳が固くなる。。
「ここは私が引き受けます。先にターミナルへ」
小声で耳打ちされる。譲らない意志がそこにあるような気がして、何も言うことが出来なかった。俺は、彼女を残してその場を離れようとした。
そこへ――軋みを上げる駆動音が辺り一面にけたたましく鳴り響いた。
途端、まだ窓のハマっていない枠の外から、一斉にグングニルが飛び込んできた。
数は五。一直線にこちらに向かうロボットは……いや、違う。あれは――なんだ。
「ロ、ロンギヌス!」
割れんばかりのまどかの叫びがコンクリートを揺らした。
それは俺たちの前に幾度となく立ちはだかり、邪魔をしたあの青いロボットではなかった。
全身を覆う流線型の形状はそのままに、だがあの特徴的だった青いフォルムは一新され、鮮やかな赤色に統一されている。丸い頭部にはグングニルの一角とは違い、まるで王の冠を思わせる五本の角が放射状に伸びている。両手にびっしりと揃い、研ぎ澄まされた鉤爪はなくなり、代わりにその手にはその二メートル近い体躯に並ぶ、長い薙刀が握られていた。
「グングニルの
「改良型?」
「はい、世界最大のロボット軍需企業ゼネラル・ハーネス社が巨額の資金を投入して、開発、設計した最新鋭機です。……あれが持つ性能は、もはやグングニルのそれとは比べ物になりません。あの数は……」
末尾を言い終わるか終らないかで彼女の頬を汗が伝った。俺は唾を吞み込んだ。
五体のロンギヌスが近づくさまは死の足音となって心を圧迫する。
あれは完全に人を殺すための機械だ。機械の握る薙刀の先端には中国刀のように幅の広い刃が長々と輝き、薄く青白い電界を帯びている。
「大人しくゼロワンをこちらに引き渡すなら、身の安全は保証しよう。まあルーイン送りは免れないだろうがね」
ふっ、と親父は鼻で笑う。悔しそうに沈黙するまどかに優越感でも浸っているんだろう。言い返そうにもこの状況がいかに絶望的か、彼女には否応なしに理解出来てしまうに違いない。
「か弱い女の子相手に、ちょっとやり過ぎなんじゃねえのか」
ならば、と俺はまどかをかばうように親父の前に立った。
「ふむ……少し黙っててくれないか、ゼロワン。私は彼女と話をしているんだ」
高圧的な態度で睥睨した親父は、俺を識別番号で蔑視した。
それは俺の怒りを買うには充分の悪罵であり、脊髄反射で俺は叫んでいた。
「ふざけんなッ!」
爆発した怒りはあっさりと喉を通った。
「さっきからゼロワンゼロワンってうるせえよ! 俺の名前は――御剣颯だッ!!」
乗った勢いをそのままに、背後に立つ少女に呼び掛ける。
「まどか! こいつの言うことを聞く必要なんかねえよッ! 俺がお前を守ってやるッ!」
「なっ……どうやって……」
まどかの声が震える。その質問は至極当然で、あいにく大見栄を切れる良案を持ち合わせちゃいない。
でも――やってみなけりゃわからねえんだよ。
「きっとなんとかなる! 諦めんなって言っただろ、俺を信じろッ!」
その後数秒間、俺の顔を丸く黒い瞳で見つめたまどかは、はあ、と一度長い溜息を洩らした。そして思いっきり自らの頬を叩くと、瞬く間に出現させた鮮やかな刀を毅然と振った。
「あなたといたら命がいくつあっても足りそうにありませんね……」
彼女は自嘲気味の笑みを浮かべ、鋭い眼光を機械の群れにそそぐ。
「いいでしょう……ロンギヌスは私が引き受けます。ですから、あなたはあいつを頼みます」
五体の機械に挑み掛かる彼女を向け、親父は駄々をこねる子供を諭すように声を上げた。
「やめておけ。もう終わったんだよ、キミたちはよくやった」
「お前の相手は俺なんだよ!」
左手を伸ばし、親父の胸倉を掴んだ。込み上げる怒りで全身が熱くなる。
「お前は、少し年上に対する口の利き方を学ぶべきだろう」
「悪いが、くそ野郎に使う敬語は切らしててね」
「愚かだな……」
俺の腕を振り払い、乱れた軍服の襟を正しいながら、親父は首の骨を二度三度鳴らした。次いで拳を顔の前に持ち上げる。
「防衛局特殊実戦隊隊長、
雲が流れる。夜が深まる。
正直勝算はなかった。あの時の俺は私怨丸出しの勇み足で、冷静な判断を欠いていた。
武術の心得もない俺が、どっかの特殊部隊らしい東藤を相手取るのは、得策じゃなかった。まったく情けねえ。
「はあ……はあ、はあ……」
「最初の威勢はどこにいった?」
見下ろす笑みが憎らしい。膝を突き、口の端から零れた血を拭う。遠くで金属の触れ合う鋭い音が断続的に聞こえ、まどかの生存を知らせてくれる。あいつのためにも、負けられない。
「ま、だ……まだだッ」
飛び起きるように右拳を振り上げる。だが完全に東藤に見切られ、無駄のない動きでかわされてしまった。間髪入れず左手を突き出すも、それも簡単に塞がれた。
くっ、と足がよろめく。顔や腹にはすでに数えられないほどのアザをもらっていた。さらによくよく鍛えられた蹴りを両腕、両足、脇腹と余すところなく頂戴し、立つこともままならない痛みが全身を襲っていた。
「諦めが悪いのは感心しない、なッ!」
東藤の右フックが、深く深く腹部をえぐった。反動で一瞬身体が持ち上がり、そのまま地面に突っ伏した。何度も立ち上がろうと試みるが、腕にも膝にも力が入らない。
「かはッ」
吐血。コンクリートに紅い血が塗られる。
「ああああああぁぁぁ―――――――ッ!」
獣のように叫び、咄嗟に懐の銃を咄嗟に引き抜き、すかさず東藤に照準を合わせる。
けれど、彼の正確な蹴りが銃を握る俺の手を打ち、それは高々と宙を舞った。銃は回転しながら床を滑り、柱に当たって停止する。
「く、そッ」
万策尽きた。ここから俺に出来るすべてを尽くしたって、こいつに勝てる自信がない。
――どうにもならねえ。
まどかに諦めるな、と啖呵を切ったくせに俺には力がない。
この世界を破壊する力? 何のこっちゃ。
所詮俺はただのガキだ。悔しくて、みじめで、情けなくて、だけどどうにも出来ない。
俺には、もはや為す術がない。
そこへ――追い打ちを掛けるように響く声が、絶望に拍車を掛けた。
「あああああああああぁぁぁぁぁぁ、あああぁぁ―――――――――――ッ!!」
絶叫をぶちまけたまどかが、折れるように地面に倒れ込んだ。彼女の左足を、ロンギヌスの槍が深く貫いていた。トマトを潰すように弾けた太ももから累々と血が噴き出す。まどかは流れる血を止めようと傷口を左手で抑え、敵の追撃を逃れようと必死にもがき続ける。見ればロンギヌスの数は三体に減っていたが、もはやその功績を喜ぶ暇すらない。
「や、八神ッ! ――なッ!?」
血液の混じる声を吐き、たまらず床を這った。だが――俺の右腕に、蛇のような青い縄が絡み、思わずたたらを踏んだ。その縄が俺とコンクリートを結び付けた。
「不本意だが、お前は捕獲するように言われている。黙って見ていろ」
背後にいた東藤が青いブレスレットを弄っていた。
彼は次々とブレスレットを床に投げ付ける。滑るように床に接地したそれは半ばで千切れ、片端は床、もう片端は俺の腕や足に瞬時に絡まり、まるで操り人形のように床に張り付けた。
目の前で座り込むまどかは、切り裂かれた足を押さえながら、必死に身体をよじって後退する。追い掛ける三体のロンギヌスは、まるで誰がトドメを差すのかを相談するがごとく、アーモンド型の瞳を盛んに明滅させる。
「や、がッ、――グッ!」
叫ぼうと口を開いた途端、東藤の投げた最後の腕輪が首を捕らえ、それを阻んだ。
「あぐあっ、があッ!」
――やめろ、やめてくれッ!
食い縛る歯の隙間から血が滴る。
――死なせない……!! 死なせたくないッ!!
ただ一人の姉のため、この世界に閉じ込められた人のため、そして俺のためにその身を犠牲にしたまどかを、みすみす犬死にさせたくなかった。
――もうこれ以上、世界に失望したくない!!
矮小な俺の……取るに足りないちっぽけな願い。
だけど、それで誰かを助けることが出来るなら――いくらだって懸けてやる。
どんなに絶望的でも諦めない。もがいて、もがいて、醜くもがいて。
彼女がここで死ぬ。
それが定められた運命なら、そんなふざけた運命、俺が否定してやる。
ロンギヌスが手に持つ薙刀を高く掲げた。電撃の発する音が響く。
地べたを這いずるまどかがそれでも決死の覚悟で刀を楯に構えた。
だが、やがて凶刃は一直線に、彼女の胸元へと降り下ろされた。
殺される――
だが、それは何かの引き金だった。
――俺の内部で何かが音を立てて壊れた。
身体の内部で電光が弾けた。すべてが速度を失い、広がった闇とともに音は消えた。
感覚がない。殴られた腹の激痛も、蹴られた足の疼痛も、締め上げられる首も痛みを失った。
荒波が静まったような、時計の針が止まったような、人が眠りにつくような。
だが、確かに感じた。
俺は――俺自身が壊れるのを感じた。
「やめろおおおぉぉぉ■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!」
悲鳴でも、叫びでもなく、ただ壊れたラジオが流すノイズが、突如俺の口から溢れ出した。
世界が歪む。俺の視界ではなく、正真正銘ビル全体がコーヒーにミルクを混ぜるようにまだらに歪み崩れた。
「なんだッ……貴様ッ! 何をしたッ!」
東藤が叫び、後ずさる。
「……はあ……はあ」
俺は、ぼんやりとした頭をさすりながら立ち上がった。俺の五体を縛り付けていたブレスレットは何故かすべてが千切れ、もはや阻むものは一つたりと存在しなかった。
同時に何故か――まどかを囲っていた三体のロンギヌスは、スタンガンを喰らったように全身を痙攣させ、地面をのたうっていた。
「貴様ッ、ふざけるなああ―――――――――ッ!」
軍服のポケットから軍用ナイフを抜いた東藤は、磨き上げられたそれを俺目掛けて突き立てた。ナイフは音を切り、空気を裂いて一直線に俺の身体を強襲した。
その時、俺は強く感じた――東藤泰孝の恐怖を視た。
そして――
「あああああああああああああああぁぁぁぁ――――――――ッ!」
驚くべきことに、直後激痛を声にしたのは東藤だった。ナイフを握っていたはずの彼の長い右腕が、赤い液体を噴水のように飛び散らし、放物線を描いて床に転がり落ちた。
わけもわからず、俺は自分の手が握るものを見つめた。
東藤が握っていたはずの軍用ナイフが、俺の手に収まっていた。
視えていた。
突き立てられた東藤のナイフを俺の腕が奪い、彼の肘から先を斬り落とす光景が。
コンマ一秒にも満たない光速の世界が視えた。
「が、があああッ、ぎゃああぁぁ―――――ッ!」
ドクドクと濁流のように溢れる血液が東藤を真っ赤に染め上げる。彼は切り取られた肘を押さえ膝を突く。うじ虫のように床を這いつくばり、赤い液体をまき散らす。
その彼を俺は無意識に見下していた。軽蔑の眼差しで東藤を見つめていた。
「やめろッ! 死にたくないッ、こんなとこで死にたくないッ!!」
全身から液という液を垂れ流し、東藤が血の海を逃げ泳ぐ。
俺は東藤の襟を掴み上げると、残ったほうの手を矢のように彼の胸に突き立てた。
指はいとも容易く皮膚を貫き、胸の奥に深く入り込む。中はゼリーのようで、ねばねばとした何かが手にまとわりついた。かき混ぜて、こね混ぜて、腕は内部を泳ぎ回る。
――探る、探る。
自分が何をしているのかわからなかった。脳の命じるままに腕を動かしていた。
すぐにそれは見つかった。青い花に触れた時、赤いホオズキに触れた時。その二つの事象と同種の感覚がよみがえる。
「あうあ、うるああ、うああウルアアアァ」
途端東藤の身体が細かく微動する。鼻を垂れ、よだれをこぼし、涙を流す男は悲鳴を上げた。
「やメろッ! 死にたくナイッッ! ノアッ!! コンな、こンなシナリオ、俺は聞イてなイゾッ! 俺ガこんな奴にイイィ、こんな――」
――ウィルスなんカに殺サレるのかッ、と男は怨嗟のこもる怒声をぶちまけた。
「ギャガアアアアアアアアアアァァァァァ――――――――――ッ」
そうして耳障りな断末魔を上げて東藤の肉体は弾け飛んだ。散り散りに爆ぜ、男は肉塊一つたりとも残らなかった。ダイアモンドダストのような微粒子が周囲を取り巻く。
きらきらと光に包まれる俺の頭を、一点の疑問が支配していた。
――ウィルスって……どういうことだ。
「御剣! 御剣颯ッ!」
背後からまどかの声。しかし、呼ばれた声に振り向く間もなく、背中に小さな衝撃が圧し掛かった。
足を引きずったまどかが背後から俺を抱き締めていた。足元には彼女の落とした血痕が列を成す。背中に顔を密着させる彼女の表情は窺えない。でも、見なくともわかる。
逆転の勝利に歓喜しているわけじゃない。彼女は悲哀を込めて――泣いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
あなたまで失いたくない、と八神まどかは咽び泣いていた。
どうして彼女が泣いてるのか、失うとは何のことか。それはとても重大で重要な疑問だったのかもしれない。だが、俺の口を突いたのはそのどちらの疑問でもなかった。
「東藤は何を言った……ウィルスってどういうことだ?」
「…………」
彼女の身体が素直に微動した。その問いにまどかは沈黙した。
何かを知っている。だけど話すことが出来ない。それを読み取るに充分だった。そこへ――
「言わないのは言えないやましさがあるからだよね?」
暗がりからの声に、俺はぞぞっと身体中の毛を逆立てた。
「そうよね、言いたくないよね。まさか、この御剣颯がただのデータの集合体、コンピュータウィルスだなんて」
夜の闇に埋め尽くされたビルの影から、白いワンピースを着た小さな女の子が亡霊のように浮かび上がった。亡霊は抑揚のある動きでこちらに歩み寄ってきた。
「ごきげんよう、御剣くん」
ノア――海馬沙耶の無邪気な笑顔がそこにいた。俺は問う。
「コンピュータウィルスって……どういうことだ」
「そのままの意味よ。あなたはね、鞍馬博士とはづきが共同で開発した人工知能搭載型のコンピュータウィルスなんだよ」
「止めなさいッ!」
くすくすといたずらっぽく笑う海馬に、真っ先にまどかが噛み付いた。
かつてこれほどに彼女が激怒したことがあっただろうか。彼女は顔面を真っ赤に染め上げ、届かない距離の海馬に握る刀を振るった。
「利用するだけの存在だったのにね。所詮はあなたも女の子だったってことかな」
嫌みな笑いがまどかに向けられた。
「このウィルスに情が移っちゃったんでしょ? かなり美形の設計だから、憧れの対象ぐらいにはなるのかもね。あっ、それとも……自分の境遇と彼の境遇に似たものでも感じちゃったのかしら? まあどっちにしても、仮想世界でしか生きられない彼に何かの情愛を抱いちゃったのなら、言わせてもらうわ……、」
――気持ち悪い。
その言葉に、肩に載ったまどかの拳が堅く締まった。その間、こちらに歩み寄ってきていた海馬は中空に視線を這わせた。きらめく鱗粉の漂う中空を見ていた。
「御剣くんも少しは疑問に思わなかった? 例えば、キミが彼女からたった一度教授されただけで会得出来た疲労感の消失とか。他には……そう、海岸で死んでもログアウトすると告げておきながら、鞍馬博士がキミの銃弾を恐れていたのは何故かとか」
彼女は粘着質のある笑みを浮かべる。
「前者は、キミがもともとプログラムの住人だったから。水の中に棲む生き物に水の中での生活の仕方がわからないはずがないの。そして後者は、キミの使用する銃で発射された弾がどのような結論を導き出すのか、鞍馬博士にも予測が出来なかったから」
「いや、それは……」
「信じられない? じゃあ……そう、決定的なの証拠があるわっ! さっきログハウスから逃げ出す時、そのバカな女が何て言ったのか。よく思い出してみてっ」
「ログハウスから逃げ出す時?」
額を冷や汗が滴る。その質問は確かに的を射ていた。
俺は気になっていた。まどかの言葉を。
「はづき用の身体、はづきの精神定着用の生体アンドロイドはちゃんと準備されている。だけど、はたして御剣颯を載せるための身体はちゃんと用意されているのか、って」
からかうように告げる海馬に、まどかの身体が大きく揺れた。手にこもる力はますます増していき、背中に当たる彼女の頭が熱くなる。
「あるわけないよねー。だって、御剣颯は任務を遂行したら、あたしと一緒に消滅するはずだったんだから」
「消滅……?」
「そうよ。だから、載せる身体は必要ない。キミはここを脱出することが出来ない」
「……冗談、だろ」
夜闇の中、世界が急速に沈んでいくのを感じた。
牢獄に閉じ込められるような行く先のない閉塞感が俺の心臓を包んでいく。
――いや、ここは牢獄だったか。
「ほ、本当なのか……俺は……ウィルスなのか?」
俺は背後に問い掛ける。
にわかに信じ難い。だが、海馬の言うとおり俺は、その脱出後の身体の疑問には気が付いていたし、今その疑問に対する筋の通った答えを無情にも突き付けられている。
思えば、まどかはもう一つおかしなことを言っていた。
それは学校の屋上から侵入したバックドアでのこと。
ノア暗殺未遂を説明されたあの時、まどかは、俺が『ターミナル上層にいるノアを暗殺する、と予知されたことで捕まった』と説明した。だがその直後、『ノアの精神はルーイン内部のターミナルに安置され、肉体の場所は特定出来ていない』と説明した。
つまり俺は、始めから海馬沙耶の肉体ではなく、ルーインの内部にある精神を暗殺しようとしたということだ。最初から、政府に捕まるその前から、俺はルーインの内部にいた。
最初から俺はルーインで生きていた。
「……」
俺の質問にまどかは無言を貫いた。否定も肯定もしない。否定も肯定も出来ない。
「なあ、なんとか言えよ! 俺は……俺は人間じゃねえのかよ! 俺は……俺は……!!」
背中に寄り掛かる彼女を正面に捉え、強引に肩を揺さ振った。何度も、何度も。身に降りかかる恐怖を払い落とそうとするかのように何度も、何度も。しかし――
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
ごめんなさい、と彼女は繰り返し謝るだけだった。
「ウソだって……言ってくれよ……」
俺は膝から崩れ落ちた。愕然として、立っていることも出来なかった。俺に引きずられ、まどかもまた膝を突いた。小さな血だまりに二人は落ちた。
海馬は塞ぎ込む俺たちには目もくれず、塵の舞うコンクリートの上をまるでダンスを踊るようにくるくると回っていた。その白いワンピースと相まって、さながら雪上の天使のように見えた。
「東藤もとばっちりね。あなたたちの遊びに付き合わされて、死んじゃったんだから」
彼女のその言葉に反射的に首が動く。
「死んだ? ま、待てよ! この世界の人間は死んだらログアウトして、現実で目が覚めるんだろ!?」
そうだ、鞍馬だって雫だってそう言っていた。なのに、東藤が死んだ? 死んだって?
「あははははッ! 何言っているの? 御剣くん。それはこちらが想定した死の
「破壊の力……俺が……東藤に?」
手に残る感触が生々しくよみがえる。弾力のある皮膚を貫通し、ゼリーのような粘着質の体内をこねくり回したあの感触。
俺が握ったもの、あれは東藤の存在そのものだったのだろうか。わからない。
だが、俺は東藤を殺した。元父親の彼を、俺はこの手で破壊した。
ぐるぐると胸が渦を巻く。思考は澱のように底へ溜まり、沈澱して動こうとしない。
もはや、動く理由ももうないのかもしれない。この牢獄を脱出するという目的を奪われて、人でさえないと告げられて、いったい俺に何が出来るのだろうか。
――出来るはずがない。もう救いがない。
「……ウソだ……だって、俺は……」
糸で引かれた人形のように立ち上がると、呆然とコンクリートの床を歩き出した。
「……い、行かないでください」
まどかが俺を呼び止める。涙に腫れたで彼女は俺のコートを握った。
「……ご、ごめん……無理だ。もう無理だ」
されど、俺は彼女を払いのけた。どうすればいいのかまったくわからなかった。
とにかく――俺は逃げたかった。
どこまでも遠く、誰にも見つからないどこかに逃げたかった。
鞍馬は? 雫は? それを知っていて、それでも俺を親友と呼んだのか?
わからない。彼らの真意も、それさえもわからない。
足音が聞こえる。俺へと忍び寄る何かの足音が、静かに近づいてくる。
――大丈夫なんてもう言えない。
きっとなんともならない……どうにもならない……。
俺の物語は……もうすぐ終わる。
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