第四章 一節
二日後――三月十五日。森の中。晴天。頬には絆創膏。
岬の奥。トンネルの先にあったバックドアで、俺は丸二日の停滞を余儀なくされた。バックドアは許可のない者の侵入を遮断出来るため、態勢の立て直しを目的に、軽い療養を行うこととなった。
白色無地の世界で俺は――ひたすら鞍馬と雫のことを考え続けた。
そうして二日を共に過ごす内、いつしか俺と八神の間には奇妙な信頼関係が築かれていた。つまる所、一宿一飯の恩、といった感じだ。
そして、頬の血も乾いた三月十五日。
久しぶりにバックドアを脱出してみれば、俺たちは日をなおも暗くするほど、鬱蒼と茂る森林に立っていた。もはや、密林と言っても過言じゃない。学校の周りを囲う森とは、段違いの正真正銘の迷いの森がそこに広がっていた。
十分も歩けば二度と生きて帰れそうもない森。なのに、どの神のイタズラか、リーダーのいるとされるログハウスは、もう目と鼻の先に建っていた。なんだか都合がよ過ぎる。
「あの中にいるのか?」
「はい、バックドアに間違いがなければ……」
エンジ色の屋根に太く頑丈な丸太で組まれた二階建ての建物。
視認している今でさえ、まるで自然に溶けてしまいそうな佇まいで、どこか古めかしく、森との調和を決して乱すことはない。
木陰に隠れて様子を窺っている俺は、建物から漂うその独特な空気に息を呑んだ。幸か不幸か、ログハウスの周りにグングニルのような自立式兵器の姿はなく、余計な時間が掛からずにすみそうなのだが、その代わりロボットの不在を補って余りある優秀なガードが付いていた。
「あれが例の……えっと」
バックドア内で八神から説明を受けたのだが、なんと言っただろうか。と、額を小突く俺に、被っていたフードを外しながら八神が継いだ。
「広域遮断フィールドです」
ログハウスの周りを半球状のいびつな膜が覆っていた。丸太の色を変えるほどの目を突く紅色の空間が、建物から数メートルの距離を囲っている。その不均等な半球は、血のような濃い色も相まって、さながらホオズキの実を被せているように見える。非常事態宣言の発令された状況下で、一体も機械が配備されていないところを見ると、それだけホオズキの防衛力に自信があるんだろう。
「……ふーん」
どこか上の空でそれを眺める。赤い膜がいつか街のタワーから見た夕焼けに重なって見えた。
バックドアの中にいた時から今までずっと答えを得られないでいることがある。
鞍馬と雫の行動についてだ。
こと八神の話によれば、俺の破壊の力とやらはあの校長室で、あの花のプログラムに触れたことによって覚醒したらしい。いまだ覚醒したという自覚はないがそういうことにしよう。
じゃあ、なぜ二人は御剣颯という超級犯罪者をあんな場所に連れて行ったのか。
何が目的であの二人は、そんなリスキーな行動に出たのか。
この世界の造り手は鞍馬だ。ならば、あの旧校舎に謎の空間があることは、彼ら自身よく知っていたはずで、同時に覚醒の可能性も少なからず予測出来たはず。そう考えると、彼らの取った行動の意図がまったく掴めない。
――どうして、二人は……。
「大丈夫ですか?」
「え?」
疑問から引きずり起こされた俺は、さぞや奇天烈な顔をしたに違いない。ふわりと髪を揺らし、彼女は伏し目がちに言った。
「いえ、ここ数日、状態が優れてないようですので」
その言葉で八神の言いたいことが理解出来た。どうやら心配されたらしかった。さすがの八神だって人間だし、鉄面皮を外す時もあるんだろう。やわく現れた哀愁は女性らしさに溢れていた。対して俺は微苦笑し答えた。
「少し気になってることがあったんだ……でも……大丈夫、きっとなんとかなるから」
「……そうですか……わかりました。あなたがそう言うのなら、そうなのでしょう」
そう言って視線をログハウスに戻した八神は、やおら木陰から身を乗り出した。
こちらへ、とブーツで土を踏みしめる彼女に促され、俺もまた木陰を後にした。
「見ていてください」
広域遮断フィールドの一メートルほど手前に立ち止まった彼女は、足元に落ちていた小枝を拾うと、おもむろに膜へと放り投げた。
投げられた小枝はくるくると鮮やかな軌道を描き、まもなく赤い膜に接触し――
「うおッ!?」
瞬間、激しい炎を上げて小枝が消失した。一向膜の表面を業火が覆っている。火山のように噴き出した炎に呆然と言葉を失った。
「このようにフィールドに触れたものは、いかなるものでも完全に焼却されます。私たちの肉体ではひとたまりもありません。この壁を解除するには高度なセキュリティ権限が必要で、組織の見解では、これを突破することが本作戦の難関の一つと考えます」
「難関ねえ……」
八神の隣に立ち、俺はログハウスを見上げた。
広域遮断フィールドは、線香花火のようにパチパチと音を立てており、均整のとれた赤一色というよりは、水に浮く油に似たまだら模様が、緩慢に移動している。電気の流れる有刺鉄線を百倍ヤバくしたらこんな感じになるだろう。
『ミストラル』のリーダーが中にいるとして、その人物の助けは今後重要になることは間違いない。だとしたら、この壁を突破することもまた重要なのだが、さしもの八神にもそれは出来ないようだ。すると――
「どう思われますか?」
猫を思わせるつぶらな丸い瞳に上目で見つめられ、俺は面食らってしまった。
「あなたなら、この壁を破壊出来るという意見が組織の大半です。私もそれを支持します」
「俺が?」
「はい」
これはまたずいぶんと買い被られたもんだ。何度も言うようだが、俺はつい数日前まで平々凡々な高校生だったわけで、彼女に期待されるような人間じゃない。
はずなのだが――どうしてか……出来そう気がしてくる。
いや、そんな率直に言えるほどの根拠は毛ほどもない。なのに、出来そう気がしてしまう。
もちろん不安はある。目の前であれだけ鮮やかに燃え尽きる小枝を見せられたら、不安にならないというほうがおかしい。本当の自分を知る前に死ぬとか、親友との再会を願っていながら死ぬとか、あいにくそんな自殺願望はない。
「……ああ、やってみよう」
それでも根拠のない自信が恐怖を凌駕した。どこか確信があった。このホオズキは恐れるものじゃないと本能が知っているようだった。
俺は自らの両手を見つめ数度開閉を繰り返す。それを裏返し、そっと広域遮断フィールドに手を伸ばした。爆発物を扱うように注意深く、かと言って気後れすることなく縁に指を添える。
そして――そして、それは起こった。
「ぐッ!!」
膜に両手を当てた瞬間、全身を強烈な電撃が走った。
今までに経験したどれよりも強い、突き刺すような衝撃が脳天を貫いた。身体中の骨の一つ一つがさえずり、肉と皮がぞっと粟立つ。閉じていたはずの汗腺が一斉に開き、噴き出す汗があごを落ちた。
膜は水風船をつつくがごとく破裂し、オーロラのように幻想的な余韻を残して霧散し、
「――――あ」
破裂時に撒いた微風に身体を揺られ、土下座をするように地面に手を突いていた。
呼吸が辛い。膝がスポンジにでもなってしまったのか、ちっとも力が入らず地面に突いた手も枝のようで頼りない。内臓はそのまま地面に落ちてしまいそうなほどに重く、気付けば目からは大量の涙が流れていた。慌てた八神が、俺の背に手を当てしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか!?」
「ちょっと……さすがに、これは、大丈夫……じゃないな……」
軽く頭を上げ、引きつった顔を作る。それが精一杯だった。
「肩、借りてもいいか?」
無言で頷いた彼女は、俺の肩にもぐり支え上げた。身長差のために微妙に借りづらくなってしまったが、それも愛嬌というものだろう。担ぎ上げながら彼女はそっと呟いた。
「ありがとうございます。おかげで次の段階に進めます」
俺は、そう何度も繰り返す彼女の顔を見つめた。薄らと上気した頬とほころんだ唇が目に付く。成功の喜びに満ちている様子が小さな肩からひしひしと伝わってくる。
どうやら八神の心情の微々たる変化が、俺にも掴めるようになってきたらしい。
――いや、逆か。彼女のほうがそういう微妙な変化を表に出してるんだ。
それは俺のことを味方として信用した結果なのか、この先にいるリーダーに会えるという高ぶった気持ちから来るのか。個人的には前者が望むべくもないところだ。
なんて浮ついたことを考えていた矢先に、それは起こった。
「――え」
担がれた俺と担いだ八神が、ログハウスの手前にあるウッドデッキに足を掛けた瞬間、ログハウスの扉が独りでに開いたのだ。
ゆっくりと開いたその向こうに一人の女性を認める。ノブを握る細い腕は白くか弱げで、緩やかなウェーブの掛かった黒く長い髪が一房まとわりついている。
筋の通った鼻と、まん丸の水晶輝く瞳が人形のような印象を与え、口はバラのつぼみのように小さくすぼめられている。服装はベージュのブラウスに、ふんだんにレースとフリルのあしらわれた緑色のフレアスカート。洋服に包まれた小柄で細身な身体つきと背景のログハウスが相まって、さながら緑の妖精が絵本から飛び出してきたような錯覚を受けた。
「すっごーい。時間どおりの到着ねえ」
ネジの抜けたゆるい声を発する女性に首を傾げそうになったが、それよりも先、俺の脇から弾丸のごとく黒い物体が飛び出したことでよろけ、声が出せなかった。八神が女性に向かって走り出したのだ。
「お姉さまッ!!」
「あらあらあら、まどかちゃんどーしたの? そんなに泣いちゃってえ」
「うわあああぁぁぁん。お姉さまあああああああぁぁぁぁ――――――――ッ!」
八神が叫んだ。強く抱き付き、ぺたぺたとの頭を女性に撫でられながら、人目も、俺の目もはばからない盛大に叫び、泣き喚いた。泣き喚いて、大号泣した。
「……」
そして遠慮なく大号泣する八神の姿に、俺は軽く――否、ドン引きだった。もう別人だろ。
いや、そんなことよりも考えるべきは、どうして八神のお姉さまがログハウスの中から出てきたのか、だ。話じゃこのログハウスにいるのは『ミストラル』のリーダーのはずで、にもかかわらずそのログハウスからは、八神のお姉さまが出てきた。というのは、つまり?
弱って右に身体を傾け、眉に皺を寄せながら物思いにふける。そんな俺を前に女性はくるりと背を向け、泣きじゃくる八神を部屋の中に押し込めると、次にこちらへ振り向き、
「ほらほら、あなたも中へどうぞ。歓迎するわよ、ゼロワン」
俺のことをそんな二つの数字で呼んだ。
要するに――引っ掛かっているのは、ルーインの囚人を解放しようと目論む組織のリーダーならば、指導力があって、武力に長け、かつ筋骨隆々で重機のような巨漢であるべきだろうということだ。偏見交じりで悪いが、あれだけ気丈で武闘派な八神まどかを部下に持つなら、やはり強い男のイメージを持っても仕方ないだろ?
ところが打って変って、ログハウスから現れたのは、まるで絵本の世界で勇者に助言する妖精のような、ほがらかで可愛らしい女性。筋肉っけのない肢体に、説得力皆無のゆったりとした話口調の女性がただ一人で、それ以外誰もいない。
つまり彼女がリーダーで、しかも八神まどかのお姉さま――血の繋がった姉。
「ダージリンティーぐらいしかないのー。ごめんなさいねえ、ゼロワン」
ほのかに湯気の立つガラス製のティーポットに、オレンジがかったお茶が並々と入れられている。彼女はそれを飾り気のないティーカップに三人分注ぎ、一つを俺に寄こした。
リーダー――八神はづきは、柔和な笑みを囚人という身の上で緊迫感なしに浮かべていた。ウッドテーブルに座して待っていた俺は、はづきの慣れた手つきをただ眺めていた。
約二十畳ほどのログハウスの中はいたって簡素だ。やけに大きなウッドテーブルとセットの椅子。牛皮のソファが一つに、その対面には大型の液晶テレビが置かれている。壁にはシックな振り子時計。キッチンはステンレス加工が施され、一人が扱うには充分過ぎるほど大きい。冷蔵庫だって四人家族用の大型で、女性の独り暮らしにはそぐわない。
俺は配られたカップを握りながら尋ねた。
「飲む意味はあるんですか? ここ、仮想世界ですよね?」
この紅茶も所詮はデータの集まりで、飲んでも味や喉の潤いはニセモノに過ぎないはず。
しかしその問いに、ティーポットを持つはづきは柔らかく微笑んだ。
「そんなこともないのよぅ。確かにこの紅茶はここには存在しない。飲んでも飲んだ、味を認識したって錯覚するだけ。でもねえ、それは現実でも変わらないのー。現実でだって、ダージリンティーの味を脳が電気信号に変換して、それを適切なカテゴリーに分類しているだけだから。それは仮想でも現実でも変わらない。大事なのはね――」
人数分の紅茶を配り終え、対面に座った彼女はすべてを魅了する可憐な笑顔で言った。
「飲むのを楽しむこと」
「は、はあ……」
こんなに牧歌的で温厚な彼女が、テロリストのリーダーであるという現実がどうにも受け入れられない。とはいえ、求心力――ただそれだけを見れば馬鹿には出来ない。彼女が人を惹き付ける何かを持っているのは、お腹が満腹になるほど理解出来た。
俺の怪訝な表情も何のそのと微笑む姉の隣で、対称的に仏頂面の妹が俺を睨んでいた。
「せっかくお姉さまが淹れてくださったのですから、四の五の言わず飲みなさい」
「……え、え?」
――なんか、性格変わってね?
はづきにべたべたと絡みつくまどかに、じっと抗議の視線を送る。
シスコンという奴だろうか。今まで男勝りにほぼ一貫して態度を崩さなかった彼女が、こうもあからさまにデレているのは、奇妙というか奇怪というか、妖怪変化の気を感じる。
んー、にしても、やけにこの二人の容姿が被る。姉妹というのはここまで似るのだろうかと首を捻りたくなる。違うと言ったら、その髪型と服装くらいで目鼻立ちはほぼ一緒。八神が鞍馬に化けていたくらいのコピーっぷりだぞ、これは。ちゃんと区別しないとわからなくなる。
姉妹を交互に見比べながら俺は紅茶をすすった。
「さてと、まずはおめでとー。無事、フィールドの破壊が出来たのね、ゼロワン」
「あ、ありがとうございます」
ひまわりのような満面の笑みに、俺は咄嗟に頭を下げた。妹とは対照的に笑顔ばかりだ。
ただ、さっきから気になるその呼び名は指摘せねばならなかった。
「ゼロワンってのは……何なんですか?」
「ゼロワンはあなたの囚人としての識別番号です。『SXH‐01』これがあなたです」
質問にはまどかが間髪を入れずに即答した。有無を言わさぬ早口で捲くし立てるさまに、隣でハッとしたはづきが自らの頬に手を当て、困ったように眉を曲げた。
「あらぁ……ごめんなさい、気に障ったかしら。そうよね……識別番号なんかで呼ばれたら、誰だって嫌よねえ。本当にごめんなさい。次からは呼ばないように気を付けるわ」
どんな時でもそのおっとりとしたスタンスを崩さないはづきの反省に、いえ気にしてませんから、と俺は慌てて両手を振った。実際その呼び名の意味が知りたかった程度で本当に気にしていない。とはいえ、ここで譲歩しないと反省し続けて話が進まない気がする。
ごめんなさい、と再度謝るはづきは悲しそうに目を伏せた。が、やにわに何かを思い出したらしく伏せていた視線を八神に向けた。
「バックドアは順調に作動したぁ?」
「はい、滞りなく。すべてよく作動していました」
「そっ、よかったあ。まあ、二人がここにいるのだからそうなのよねえ」
その良好な返答にほっと胸を撫で下ろすはづきの姿は、それは愛玩的で可愛い。ただ少し立ち直りが早すぎるが。
「これでちゃんと作動しなかったなんてことになったら、リーダーとしてみんなに合わせる顔がないものねえ。この拘束だから、デバッグ処理をするのに苦労したわぁ」
どこかご満悦の彼女の口ぶりに、思わず俺は首を捻った。彼女の態度が――バックドアはさも自分が造った言わんばかりのその態度が、耳に付いた。
「バックドアを造ったのって……もしかして、はづきさんだったり?」
「んー? バックドアの設置は私のものよぉ? 知らなかったぁ?」
さらっと白状するはづき。それにもまどかが補足した。
「そういえば話していませんでした。お姉さまはルーインに収監されて以来、ルーインのシステムを内部から解析してきました。そうすることで、主要箇所を繋ぐ複数のバックドアを作成し、私たちの有利に進むように謀っていたのです」
「あー、それで」
なるほど、バックドアの位置と繋がりが妙にこちら側の都合に合って、合い過ぎていることにこれで合点がいった。味方が中に入って造ったんだから、都合がよくて当たり前だ。
まさか政府もこんなに清楚なお嬢様が、アクティブに反抗してくるとは思わなかったんだろう。捕まってなおこの現状を逆手に取ろうなんて、はづきの反骨精神と技術力は侮れない。
「私があなたの共犯者として嫌疑を掛けられたのは事実だけれどぉ、所詮私は技術者であって人殺しじゃないし、法に抵触しないラインを見極めて行動していたつもり。だから突然ここに連れてこられて驚かされたわぁ。それで私もすこーし抵抗したくなっちゃったの。私を外に放置しておくより捕まえたほうが安全だ、って鞍馬くんの判断は論理的な考えではあるけれど」
でも、彼っていつも詰めが甘いのよねえ、と意味深な笑みを浮かべる彼女の言い回しに、俺は問い掛けた。
「はづきさん……鞍馬と知り合いなんですか?」
はづきさん、と馴れ馴れしく呼ぶ俺が言うのも変な話だが、彼女の『鞍馬くん』などと勝手知ったる口ぶりが引っ掛かった。その引っ掛かりはどうやら的中のようで、
「当然よー。だって私と鞍馬くん、大学の同級生で同じAI工学の研究室にいたんだもの」
と、さも当たり前のように彼女は上機嫌で答えた。
「ど、同級……? だって鞍馬は……」
話だと鞍馬の現実での年齢は三十八歳。要するに、同級生のはづきもまた三十八歳ということになる。いやしかし、その肌の質感とか、艶のあるウェーブがかった髪とか、どれを取っても三十八歳にはそぐわない。妹のまどかの年齢を俺より少し上くらいに見ていたもんだから、せいぜい二十台後半と目を付けていたものだが、まさか四十に近いとは。
「見た目なんて私たちの時代では何の意味もないのよ。若返りは安いから」
「へ、へえ……」
若さは特権じゃないのか。何とも趣きのない時代だ。
「このルーインって、私たちの時代よりも百年近く昔に設定されているのは知っている?」
「は、はい」
「ルーインに収監された人間は記憶を書き変えられてしまうのだけれどぉ、収監された人間が本来生きていた時代のものや文明に触れると、その書き変える前の記憶がよみがえる危険性があるのよぉ。記憶はあらゆる事象と結びついているからねぇ」
そこではづきは一旦、紅茶に口を付ける。
「だから、その危険を徹底的に排除するために取られた策が、ルーインの時代を最も遠くない時代の、けれど文明が繋がっていない最低ラインに設定することだったのー。その最低ラインがこのおよそ百年前。機械やファッション、食文化、生活様式は私たちの知る現代からまるっきり隔世しているわ」
何度も頷いて聞いているが、つまり、元々の記憶に結びつかない文明がはびこる時代を選んだということだろう。手の込んだ設計だ。
「でも、それは鞍馬くんが設計の段階で技術者に言った建前でねぇ。彼がこの時代に設定した本当の理由は、私と彼の最も好きな時代が、ちょうどこの百年前だったからなのー」
はづきは角砂糖の詰めた瓶から一つをカップに落とした。
「彼って融通が利かないところがあるでしょ? 眼鏡なんて私たちの時代ではファッションでしかないのに、それを機能として使っている。こだわり過ぎて銃器類まで旧世代の遺物で統一しているし、かく言う私もこの部屋は古いもので揃えているのだけれど」
古きを知ることも大事よねぇ、っと苦笑し、どこか彼女は遠い目をする。
「懐かしいわ……鞍馬くんとは仲良くってねえ、研究室でも一番議論を交わしたのは彼だったんじゃないかしら。私たちの時代では、判断処理が正確でかつ迅速な行動を取る、ほとんど人間に近い思考を持つAIがすでに存在していた。それらは概して産業や経済面で力を発揮していて、まあ、一定の成果は得ていたわねえ」
それは、どこかダメなものへの侮蔑の込めた表情に見えた。
「だけど、鞍馬くんや私が求めていたのはもっと高度なもの。自我と精神を持った本物の人間を模倣出来るAIだった。困難に悩み、当惑し、挫折し、けれど次の場には有効なアイデアを生み出す。統計じゃなくて、もっと曖昧な、妥当性をも尊重する存在。笑うことも、泣くことも、怒ることだって出来る。あたかも人間じゃない、本物の人間を求めたの」
「本物の人間……」
俺は喉元で呟いた。どうにも気持ちが悪くて、慌ててカップに口を付けた。
「一緒に研究していてわかったことは、鞍馬くんは大学のどの教授を集めても敵わないくらいに優秀だということ。研究室のほとんどの人間が、過去に開発されたシステムの追試をメインにしている中で、彼だけは従来支持されていた手法を根底から覆すような手法を次から次へと取り入れてねぇ。周囲は失敗するだろうと考えていたけれど、それでも着実に成果を上げていたのー」
「結局、鞍馬の研究はどうなったんですか?」
「それがねえ、完成させちゃったのよー。完全な自我と精神を持つAIを、大学六年目の冬に。そのおかげで彼は政府に就職が決まって、結果的に今の地位にいるんだもの」
さすが鞍馬、と内心での称賛を禁じ得ない。ただ同時に、ゆくゆくこうして俺を拘束することになるとは、皮肉な運命だとも思えた。
「ってこんな話、つまらなかったわよね。なんだか懐かしくなっちゃって余計なことをぺらぺら喋っちゃった。ごめんなさい」
ほんわかとした温かさが伝わる。その温かさが眩しくて俺は思わず、その隣のまどかに視線を逃がした。が、まどかは姉の昔話に聞き入っているらしく視線はなかなか合わない。
仕方なく戻し、俺は言った。
「いえ、興味深い話でした。考えたら俺、鞍馬のことよく知らないんだなって……」
自分で言って少し悲しくなった。俺の知っている鞍馬と、はづきが知っている鞍馬はまったく別のもので、俺は本物の鞍馬をまだ知らない。まだ見たことすらない。
ふう、と深いため息が聞こえた。はづきだ。
「本当、彼は優秀だったわ。優秀で、秀逸で、非凡で。一緒にいればいるほど、いかに自分が愚かな人間なのか、痛いくらいに味わった……勉強になったのも否定しないけれど、教わることばかりで彼に勝てたことなんてなかったんじゃないかしら。本当、彼には――」
――嫉妬しちゃう。
「――――ッ!?」
その一言に空気が変わった。
冷たい水を浴びせ掛けられたかのような、はたまた蠢く虫の群れの中に足を入れたかのような、どちらにしたって鳥肌が立たずにはいられないおぞましさが俺を襲った。
はづきの顔に影が差した。魔が差した。
「……お姉さま?」
その不穏な空気をまどかも嗅ぎ取る。彼女は訝しげに姉を覗き込んだ。
すっと瞼を閉ざしたはづきは数刻の後、ぽつりと紡ぎ始めた。
「私も科学者として何か名を残したいと考えたの。だから彼の傍にいた。そうすれば私も彼と同じになれると思ったから。でもそんなことはないのよねえ。私がいくら彼に近づいたって、彼はまったく別の個体。別の意志を持ち、別の精神を有している。むしろ近づけば近づくほど、私と彼とのレベルの違いが浮き彫りになっちゃうのに……」
「……」
――なんだ、こいつ。
気持ちが悪い。ただ自分の思いの丈を話しているに過ぎないのに、まるで遺書を読んでいるみたいに気味の悪い、醜い雰囲気を醸し出す。彼女は……なんだ!?
「追い付こうと、追い付こうと、何度も試みた。大学を卒業した後だって、私は決して研究をやめなかった。なのに、彼はもっと高いところに行っちゃった」
彼はルーインを造っちゃった、と言い、そして――
そして――歯をギシリと鳴らした。
「どうやっても追い付けない。どうやっても勝てない。彼はルーインという新しい世界を創造した世紀の科学者になった。それは……もうどうしようもなくなっちゃって、考えて、考えて、だから私は『ミストラル』を組織したの」
「は?」「え?」
俺とまどかが同時に声を上げた。猫っけのある大きな目を愕然と開くまどかは、その後一切の言葉を失った。
「『ミストラル』で彼に反抗して、彼の造ったものを壊す。私は彼の研究成果をそうすることで否定しようとしたわ。そうする以外に、私は私の嫉妬を鎮める方法がなかったから」
「じゃ、じゃああんたは、自分の自己満足ために……ただそれだけのために周りの人間を巻き込んで、人殺しをさせようとしたのかッ!?」
全身が総毛立った。思わず立ち上がりそうになる衝動を必死で堪えた。
「別に利用したわけじゃないのよぅ。みんなの気持ちはしっかりと尊重してるわぁ。だからこうして、内部からルーインの破壊に手を貸しているんじゃない」
「そんなの……そんなのあんたのエゴだろ。結局利用してるだけじゃないかッ!」
そして俺は、目の前にいるまどかを指差した。
「こいつの気持ちはどうなる! 何度も危険な目に会ってここまで来たんだぞ。あんたの嫉妬に、妹巻き込んでんじゃねえよッ!!」
「あ、ちょ、あなた」
咄嗟にまどかが立ち上がり、俺の腕を掴んだ。それでもはづきはペースを崩さなかった。
「んー、相互の利益は守ってるんだけどなぁ」
と、彼女は下唇に人差し指を添え、小首を傾げた。
「誰だッ!」
直後――まどかが建物に一つあるドアを睨み付けた。
何者かが外にいた。ドアに張られたスモークガラスに人影が浮かんでいた。
「お邪魔しまーす」
ほっそりと小柄で背が低い、まるで小学生みたいな影が軽快な声を発してドアを開けた。
小さな女の子だった。色素の薄いブラウンの髪に同系色の大きな瞳。白衣のような真っ白のワンピースから細い腕と脚が申し訳なさそうに伸びている。歳はせいぜい十二、三歳がいいところで、饅頭みたいな丸い頬は桜色に染まっている。
煙のように今にも霧散しそうで、ちゃんと見ていないと見失いそうだ。儚げで、亡霊のごときその立ち姿に目を奪われた。この子、どこかで――
しかし、その女の子の正体を考える間もなく、驚愕に打ち震えたまどかの声が響き渡った。
「ノ、ノアッ!」
それも束の間、まどかは猛獣並みの速さで少女に跳び掛かった。その手に蓮華の刀を携えて。
横なぎに払われた刃が少女の胴を通過する。だが、
「斬ってもダーメ。それはただのコピーだもん」
動揺一つ見せず、紅茶を淹れ直しながらはづきは言い、次に女の子に目を向けた。
「いらっしゃい。時間どおりね」
「うん。それがシナリオだから」
女の子は胴を斬られても動ずることなく返答した。不思議にも切断面は失せていた。
その間、俺は情けないながら三人の女性の行動を、言動を必死に目で追い、耳で聞くしか出来なかった。この少女がノア、俺の標的、とただ阿呆のごとく思うことしか出来なかった。
「お、お姉さま! どうして……どうしてここにノアがッ!?」
切っ先を少女に向け、まどかが食って掛かる。その怒りに、むしろ少女が噛みついた。
「ノアって呼ぶのはやめて。あたし、その名前大嫌いなの。ノアって男の、しかもすっごいおじいちゃんの名前なのよ。あたしみたいな可憐な少女には全っ然似合わないわ」
可憐であることは認めなくもないが、自分で言うと何とも安っぽい。恥ずかしくないのか?
「あなたはこれからここを出るまでにあと七回そうやって呼ぶみたいけど、あたしには
自分の未発達な胸に手を当て、大言壮語言い放つ。どうやらその愛らしい容貌に反して、我がままにひねて育ってしまったらしい。まあ、長い間このルーインに繋がれていたことを考えたなら、これくらいはまだ可愛いほうかもしれない。いや、そんなことよりも、
「じゃあ、どうしてその海馬沙耶がここにいるんだ」
てててと歩き、空いていた椅子――俺の隣にちょこんと座った海馬を指差した。どうやらはづきの問題をとやかく言っている場合ではないようだ。
俺の質問に、当のはづきが答えた。
「えー、だって沙耶ちゃんは私のお友達だもの。ほら、さっき私があなたやまどかちゃんを時間ぴったりに出迎えることが出来たのも、沙耶ちゃんが予言してくれたからなのよ」
すごいわよねえ、と彼女は称賛を交えた。
「彼女は私たちの標的ではなかったのですかッ!?」
「それはそうだけど、お互い長い間お話しする相手がいなかったんだもん。しょうがないわー」
仇敵が姉と友達になっていることに動揺を隠せないまどかに、はづきは悪びれもせずに拗ねた。拗ねて頬まで膨らました。つくづく対称的で、見た目以外ちっとも姉妹らしくない。
「そ、そんな……」
と飄々とした姉の態度を前にして、まどかは弱々しくドア脇の壁にもたれ掛かった。
「柔軟性が足りないんじゃないの? あなた。そんなの気にしてたら、この世界じゃ生きていけないわよ」
椅子の上で腕を組み、不遜に自由に振る舞う海馬は、そう言った直後いきなり俺に顔を向けた。そこには一秒前とは一転して破顔が貼り付いていた。
「キミが御剣颯? うーん、なかなかいい男ね。無理して会いに来た甲斐があったわ」
「お、おい」
べたべたと触りにくる彼女に、咄嗟に身を引いた。その俺に、海馬はすこぶるへそを曲げる。
「もお、そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。でもまあいいわ。今日は挨拶したかっただけだし、お話は次の機会にするから」
――次の機会? 次があるのか?
そう言って椅子に座り直した彼女は、偏ってしまったスカートをいそいそと整えた。時を同じくして、はづきがティーカップを海馬の前に置き、紅茶を注ぎ始めた。
「それで今日は、どんな御用かしら? 何か大事な話があるって言っていたけれど」
「ああ、そうそう。その話ね」
ぱん、と手を叩き、海馬は緩んでいた顔を引き締めた。
「本当は大した用事はなかったんだよね。だけど、御剣くんが動き出しちゃったからさ」
その細い指で俺を示し、話を続ける。
「当面はグングニルでどうにかなるって、上のおじさん連中は考えていたらしいけど、ほら、ここの広域遮断フィールドを壊しちゃったでしょ? さすがにそれは想定外だったらしいのよ。途端に緊急招集。旧時代の遺物さんたちの危機管理の甘さは、昔から変わらないのよね」
辛辣な言葉を添えて幼い少女は肩をすくめた。それに対して反応したのは、壁際で不機嫌そうに仁王立ちしていたまどかだった。
「つまり何が言いたい」
「わからないの? つまり……もうすぐ殲滅作戦が始まるってことよ」
「え?」
それは出し抜けに、何の前触れもなく引き起こされた。俺の背後――ログハウスを構成していた壁一面が細かに剥がれ、砂のように散り散りに森の中へと飲み込まれた。
まるでステージの幕が開かれるように消えた壁の向こうから、無数の発光体が姿を現す。
魚眼めいたアーモンド型の瞳が俺たち四人を、壁の取り払われ広がった森林から見つめていた。大量のグングニルの群れが、碁盤の目のように列を成し、行を成して立ちはだかっていた。
「決行時刻は午後三時ちょうどよ。よかったわね、まだ執行猶予があって」
海馬の言葉に、俺は慌てて部屋に一つある振り子時計の針を睨んだ。だが――
「三時ってもう一分もないじゃないかッ!」
長針と短針がまもなく綺麗なL字型を描くため、秒針は刻一刻と頂点を目指していた。
「二人ともこっち来て」
その最中、ゆるりと立ったはづきが冷蔵庫へと歩き出す。彼女は牛乳でも探すかのように何気ない動作でドアを開けた。
「これは……バックドア?」
まどかが冷蔵庫を覗き込んだ。冷蔵庫の中身は食材や棚の一つもない真っ白な空間だった。
こちら側と異質に切り取られた虚無の空間。無機質で他と隔絶された空間が、突如大きく口を開けた。
「緊急用にねー。いつか使うんじゃないかと思って用意しておいたのよ」
華のように満面に笑うはづき。この用意の周到さは舌を巻く。見透かした嫌なリーダーだ。
「では、まずはお姉さまから」
刀を立て、頻りにグングニルを警戒するまどかが、エスコートするように片腕をドアの中に差し入れた。姉のためにこの世界に来たのだから優先させるのは当然の行動だろう。だが、はづきは冷蔵庫を開けて以降動こうとしなかった。
「ああ、いいのよ。私ここに残るからー」
「えッ? ど、どうしてですかッ! お姉さま」
姉の素っ頓狂な発言に、妹は拡声器ばりに声を張り上げた。
「もう少しだけ、彼女とお話ししたいことがあるのよねえ」
そう言ってはづきは海馬を見つめた。海馬はわざとらしくにこりと微笑んだ。
「で、ですが、この機会を逃したら、もう二度とルーインから脱出出来なくなります」
「でも、脱出って言ったって、私の身体は奪われたままでしょう?」
「大丈夫です! お姉さまのために精神定着用の生体アンドロイドを準備しました」
強引に姉の手を取るまどか。彼女の焦りが俺にもひしひしと伝わってくる。
しかし、姉妹が言い争う中、業を煮やした振り子時計が重々しく豪壮な音を立てた。
同時に、背後で臨戦態勢を取っていたロボットたちが耳障りな駆動音を発する。最前列で待機していたロボットの数体が長い爪を掻き鳴らし、一斉に一歩を踏み出した。
「おいッ! 言い争ってる暇ねえって」
「お姉さまッ!」
俺の言葉にまどかが叫んだ。だが、そのまどかを無視し、はづきは俺を見つめた。
「御剣くん、お願いがあるわ」
「お願いッ!? 何言ってやがるッ、今さらてめえの言うこ……」
「まどかちゃんを連れて行って」
被せるように発せられた言葉に思考が止まった。
「私に向ける怒りはわかるけれど、それをまどかちゃんに向けるのは違うでしょう」
そうはづきが言うのが早いか、グングニルたちが我先にと走り出し、ウッドデッキを跳び越えて、部屋の中へと洪水のように殺到した。
「くそッ!」
――考えている時間はなかった。
テーブルを掻き散らし、椅子を蹴飛ばし、カップが甲高い音を立てて粉々に砕け散る。目前まで迫ったロボットの群れに人心を理解し、容赦する感情はない。
はづきの嫉妬心に反発を覚えるが、そんな私情でその妹を見殺しには出来ない。
「くそッ!」
再度口汚く吐き捨てまどかの腰に腕を回し、力ずくでバックドアに引き込んだ。
「離してッ! お姉さまッ、お姉さまッ!!」
手足を振りもがくまどかがバックドアを抜け出そうとする。寸前――
「危ないッ!」
グングニルの一閃がまどかのコートをかすめた。爪が生地を引き裂き、床に張り付ける。
間一髪力付くで引き込み、難を逃れるも――
「いやああああぁぁ―――――――――――――――ッ!!」
バックドアの扉は堅く閉ざされた。
閉まり切る直前、ばいばーい、と手を振る海馬沙耶の歪んだ笑みが俺の脳裏に焼き付いた。
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