第三章 三節
数刻後。夕闇。国道。
ガシャン、とガラクタが散った。
果たして今ので何体目になったのか。性懲りもなく襲撃を繰り返すグングニルたちを、その度八神は見事に斬り伏せていった。彼女の目にも止まらぬ殺陣はその容貌と相まって黒猫が戯れているようにしか見えず、斬った時の爽快感と感嘆の息は絶えない。
「そろそろ向こうも次の手に出るはずです。急ぎましょう」
短く切り揃えた髪を払い、八神はコートを翻した。
街を抜けた俺たちは、果てしなく広がる海が望める湾岸線を走っていた。
潮の香りが鼻をつく。普段なら青々と波打つ海は、あたかもこの非常事態を斟酌したのか、一面どんよりとした灰色に濁っていた。雲色が濃いせいもあるんだろう。世界を包む全体がコンクリートで塗り固められ、冷たく重く見えた。
「……」
前を先行する八神の後ろで、俺は額の汗を拭った。
別段疲労しているわけじゃない。彼女のプログラム理論を教授されて以来、完全にとはいかないまでも、多少ながら疲労感に襲われることはなくなった。コツとして教えられたのは、
『常識を捨てろ』
身体、意識を解き放つのに常識という鎖がもっとも障害となるらしい。つまり『人は走れば疲労する』という考えを捨てろと言うことだ。ここ十八年間そういう考えで生きてきた手前、そう簡単には出来ないと考えていたが、浮世離れした思考が利いたのかもな。
て言っても、皮膚のプログラムが発汗を促しちまうんだから困ったもんだ。
「目的地はまだか?」
「まもなくです。あの岬を越えた先のトンネルにバックドアがあります」
尋ねた俺に、遠く海岸線を指差しながら彼女は返した。
大きく弧を描く海岸線の先に一際険しく連なった岩場があり、さらに向こうには真っ赤な灯台が建っていた。俺の拙い記憶じゃあ、灯台を越えても変わらず砂浜が続いているはずで、トンネルがあるというのは初耳だ。地元のことではあるが、灯台の向こうは危険だから近寄っちゃいけません、と中学校で教わっていたせいで越えたことがなかった。あの中学校での教えも更生プログラムだったんだよな。もう教えを守る謂われはないわけだ。
舗装道路を下り、砂浜を走り始めて数分後、塗装の剥げた灯台を見上げる岬に到着した。
灯台の下で足を止めると、それまで全身に感じていた風がピタリと止んだ。波の音に耳を傾ける余裕が生まれると、同時に寒々しい潮風が汗に当たり、体温の変化に鳥肌が立つ。それに我慢出来ず、俺は開いたコートの前を閉めた。
「こっちです」
頻りに周囲を見回す八神は、慎重な船頭ぶりで道を開いていった。俺たちの着ているコートが相手の索敵を回避するとはいえ、過信は出来ないらしい。待ち伏せされる可能性も決してゼロじゃないんだ。
砂浜を横断する二人の足跡が軌跡を成し延びていく。足跡は二人分、それ以外はない。
追手もさすがに諦めただろう、と俺はどこか間が抜けて遠く水平線を眺めた。
「……あっ」
――そう油断したのも束の間の出来事だった。
「動かないで」
背後から声がした。同時に俺の頭に何か固いものが押し当てられた。
「あなたもよ」
声の主は再度忠告する。気付けば、目前を先導してた八神の手には、再三の刀が握られていた。声の矛先が八神に向けられていることは明白だった。
柔らかくてどこか聞いたことのある声だと思った。いや、すぐに答えは見つかっていたのだが否定したい気持ちだったんだ。不意のことに動転したんだ、ってその答えを素直に受け入れることが出来なかった。とはいえ、続けざまに発せられた言葉で確信を得てしまったのだが。
「大人しくしててね――颯」
「雫か……」
「……うん」
問い返す俺の言葉に雨宮雫はすんなり答えた。そして現れたのは彼女だけじゃなかった。
「僕もいるよ」
岩場の向こう。俺と八神の向かっていた方角から眼鏡を掛けた一人の青年が姿を現した。
「鞍馬、お前」
アルミフレームの眼鏡に、灰色の野戦服。どこまでも自信のなさそうな表情には、いつか放課後に語り合った時の哀愁が滲んでいた。
「待っていたよ、八神まどかさん」
鞍馬は持っていた黒い銃を八神に定めた。
「見事な
出し抜かれたにも関わらず八神の声には、笑みが載っていた。背中を見るしかないここからでは、彼女がどんな顔つきをしているのかわからないが、余裕の笑みを浮かべてるのが簡単に想像出来る。動揺とか油断には縁遠そうな女だからな、こいつ。
「何も難しいことはしていないよ。砂地と音のプログラムを少しいじってやればこんなことは誰にだって出来る。それに彼女の考えを読めないわけじゃないからね。バックドアの位置は大体掴める」
鞍馬は苦笑し、拳銃の撃鉄をカチリと起こした。照準は八神の胸元一点を狙い続けているものの、やはりその凶器に不慣れなのかわずかに震えている。ふっ、と八神は鼻で笑った。
「あなたはやはり戦いには向いていない。情けないお人です」
「そうだね……こういう野蛮なものは、なるべくなら持ちたくない」
彼女の挑発に、鞍馬は顎で右手の銃を示した。そこへすかさず雫がフォローする。
「ソウちゃんはそれでいいのよ。あんたには、あたしがいれば充分なんだから」
俺のすぐ後ろにいるであろう親友の幼馴染は、今もなお俺の頭に何かを――恐らくこれも拳銃だろう――を押し当てたまま。
見えない攻防が飛び交う。その最中、俺は沸き上がる感情を抑えられなかった。バックドアで八神から聞いてことすべての真実が知りたくて、俺はそれを口にせずにはいられなかった。
「……お前ら何してんだよ……」
しかし、口から突いて出た言葉に我ながら驚きを隠せなかった。
「お前らッ!! まず俺に言うことがあるんじゃねえのかよッ!!」
なんだ、これ。感情の、心の衝動を抑えることが出来ない。
気持ちが、想いが――怒りが溢れ出てくる。
「ど、どうしたんだ……颯」
突然向けられた怒りに鞍馬は問い掛ける。白々しく、図々しく問い掛ける。
それは――今の俺にとって逆効果となった。
「どうしたもこうしたもあるかよッ! もう全部知ってんだよッ! 全部、何もかもッ」
この世界の真実も、ノアの予言も、俺の境遇も、
――二人が何者なのかも。
「あんた、颯に何を言ったのッ!」
雫が声を荒げた。その瞬間、俺の頭に押し当てられていた感触はなくなり、代わりに右目の端から黒い鉄の先端が顔を覗かせた。背筋に寒気が走る。今までこんなものが頭に向けられていたかと思うと、ゾッとしない。
「何を、ですか?」
「お、おいッ」
二人から銃口を向けられてもなお態度を崩さない八神が、二人の制止も無視しゆっくりとこちらに振り返ったのだ。その思わぬ行動に鞍馬が反応する。見ると、八神の表情には笑みが――他人を蔑み得意気になった嘲笑が臆面もなく貼り付いていた。
「大事なことはすべて話しましたよ。ノアのことも、ルーインのことも、あなた方のことも事細かに」
「な、舐めたことしてくれるじゃない」
カタッ、と銃口が揺れる。雫の声に深い動揺が浮かび、どんどんと色を増していくのが、手に取るようにわかる。
これも長い付き合いのおかげかな。皮肉なもんだ。
「二人は特別?」
ことは数時間前に遡る。
バックドアでの長ったらしい会話を終え、黒いコートに着替えている時のこと。
街中を歩いていた人間が実体のないAIであると知り、また親父や母さんがエキストラで任務として俺と接していたと教えられた直後のこと。
その驚きもままならないうちに俺は再度、今度こそ驚愕させられることになった。
「鞍馬総一郎と雨宮雫の両名はそれぞれ政府の上層の人間です。鞍馬総一郎は、政府直属の研究施設、首都第三研究所における管理及び研究主任を勤めています。主な研究領域は人工知能の作成と仮想空間での人体に対する影響。ここ、ルーインも彼の研究成果の一つです」
「ここが……あいつの?」
口が乾いて声もろくに出やしない。もう大概のことには耐性が付いている頃だと思っていたが、存外人というのは想定外に対する学習が苦手らしい。
なるほど、家のリビングで話していた親父と母さんが『鞍馬博士』と呼称したのにはそういう理由があったのか。
馬鹿げた話だ。だが、馬鹿げた話はそれに留まらなかった。
「そして……雨宮雫は未来犯罪予防局の捜査官です」
「捜査官? あいつが?」
「はい。彼女はSSSランク重犯罪者であるあなたの動向を調査するために派遣されています」
その話にはさすがに疑問を感じずにはいられなかった。だって、
「……柄じゃないだろ」
勝気で居丈高。先頭に立って行動することもままあって、剣道部での求心力も人一倍の雫ではあるが、政府派遣の特殊捜査員なんて出来るタマとは思えない。超が付くほど単純だし、涙脆いし、変なところで臆病だし。根っから科学好きな鞍馬が研究員なら数歩譲歩してわかるものの、雫にはとてもじゃないが似合わない。
「それもすべて政府が用意したシナリオに沿っていたからでしょう。彼女たちは偽っているのです。シナリオに合ったキャラクターを演じているに過ぎないのです」
――演じているに過ぎない。
そのワードは鋭く俺の心に突き刺さった。
それは両親がエキストラであるというよりも、深刻に、重大に俺の心へ染み込んだ。そりゃあ、両親が一世一代の大ウソをついていたことはそれ相応のショックがあった。だが、概してこの時期の高校生というのは、両親に心の重きを置くということがあまりない。いわば親離れ、もしくは反抗期だ。無論、落ち込んだのは否定しない。が――
その代わり重きを置かれるのが――友達だ。
家にいる時間よりも学校にいる時間が多くなったりとか、親といるよりも友達といる時間のほうが長かったりとか、そんなことは日常茶飯事で、両親に学校の話題を話すことはあっても、友達に家の話題を話すことはほとんどない。家出をした時に頼るのは、友達だって相場は決まっている。そうだろ?
中でも友達の少ない俺にとって、鞍馬や雫が占めていた割合は空より広く、海よりも深い。あの両親でさえ足元にも及ばないと断言しても過言じゃないだろう。
毎日顔を突き合わせ、他の誰にも言えない秘密を共有し、語らい、笑い、驚き、泣き――
そして信じていた。
なのに――だ。それは演技だった。
どこから……どこまでが?
これまでの高校生活は? 鞍馬と雫の恋心は? 俺たちの信頼関係は?
まさか……全部がシナリオの一部なのか?
――すべて偽りなのか?
「つまり、ここに留まる彼らのこの笑顔も、すべて偽りだったということです」
八神は掌を俺に伸ばした。
「……お前、それどっから……」
そこには、卒業式前夜に撮ったあのプリクラが載っていた。
俺たちの小さな小さな友情の証。俺と鞍馬が肩を組んで、雫がその間で笑ってる高校生最後の一枚。俺も、鞍馬も、雫も。満面の笑みで笑っているのに、二人のこれがウソなのか?
信じられない。信じたくない。でも、彼女の言葉は筋が通り過ぎている。
「返してくれ」
俺は咄嗟に八神の手からそれを奪い取ろうとした。彼女はすんなりと返した。
「あなたは真実を受け入れるべきです」
大事に紙片を握る俺に対し、八神は胸を大きく膨らまし、大きく吐き出した。
「彼らの恋路も、それが高校生らしいから。高校生なら当然あってしかるべきだろうと考えられたからに過ぎません。彼らはずっとあなたにウソをついていたのです」
「もういい……それ以上は言わないでくれ」
顔を俯け、耳を塞ごうとした俺に、八神はさらに追い打ちを掛けた。
「考えてもみてください。いつの時代にしろ、何十年も研究していた科学者を差し置いて、若い世代が先に解答を見つけ出すなんてことは往々にありえること。私たちの時代でもそれは変わりません。ですが、政府直属の研究所に齢十八の高校生が、ましてや主任研究員として配属されることがあるでしょうか? 十八歳の一女子高生がSSSランクの大罪者の監視調査を任されるでしょうか?」
「どういう……どういう意味だ」
つい反射的に訊き返してしまったが、彼女の言いたいことは何となく予想が出来た。それらの事実が示す意味は帰納法的に求められた。つまり――
「あの二人の実年齢はあなたと同じ十八歳ではありません。こちらの調べでは雨宮雫の実年齢は二十七歳。鞍馬総一郎に関して言えば――」
その後、驚くべき数字が鼓膜を通過した。
「――三十八歳」
――出来ることなら再会したくなかった。
このまま二人と相対することがなければ、こんな感情を味わうことだってなかっただろうに。
「な、舐めたことしてくれるじゃない」
俺の背後に立つ雫がギリリと歯を鳴らした。視界の端に映る銃口がますます突き出された。
「……舐めてんのは……お前らだろ……」
もはや俺の声は呻き声でしかなかった。握った拳が震えてどうしようもなかった。
もどかしい。どうしてこんなに簡単なことも言えないのか。
苛立たしい。言ってしまえと思う自分と、言ってはいけないと思う自分がどうしているのか。
妬ましい。ウソをついてそれでも平然としてる二人が。
何より――
「舐めてんのはお前らだろッ!」
悲しい。鞍馬も雫も任務で、仕事で俺と会っていた。笑っていた。
仮想の現実の中でわざわざ十八の虚像を造り上げてまでして、そうまでして俺と会っていた。会わなければならなかった。調査のために、命令のために。
俺だけだ。俺だけが友達として会っていたのに。会いたかったのに。
ああ――悲しい。
――悲しい ――――悲しい ――――――悲しい
「ふざけんなよッ! お前ら、今さらどのツラ提げて出てきやがった!」
思いの丈は噴き出して、気付けば言葉は堰を切って溢れ出ていた。
辛くて、苦しくて、言わずにはいられなかった。
「は、颯……落ち着いて」
突然のことに困惑したのか、雫が俺の肩に手を載せた。だが今の俺には、それすらも憂慮する余裕がなかった。
「触んなよッ!」
「きゃ!」
悲鳴。右側に伸びていた雫の銃を握る手ごと鷲掴みにし、勢いに任せ彼女を表舞台へと引きずり込んだ。まるで毬のように跳んだ雫はそのポニーテールに結ばれた髪を、その細い体躯を砂に弾ませ浜を転がった。
転がった彼女の直線上には、ちょうど八神が立っており、八神は上げた足で転がった雫の脇腹を踏み締めた。すかさず下げていた刀を雫の首に添える。
「やめろ、八神ッ! お前は何もすんな。これは俺たちの問題だッ!」
怒りに叫ぶ俺に、八神は冷ややかな一瞥を寄こす。が、呆れたように肩をすくめ刀を引くと、雫のくびれた脇腹に掛けていた足を外し、ゆったりとした歩調で俺の隣に移動した。
「雫ッ!」
それと入れ替わるように鞍馬が走り出す。
銃を腰のホルスターに収め、急いで抱き上げに掛かる鞍馬に、雫は彼の肩を借りて座り直した。鞍馬と同色の野戦服を着た彼女は、その薄紅色の小さな唇を苦しげに歪めた。
「――――ッ!」
そのあり様に背筋が凍った。
込み上げる。憤懣が喉を駆け抜けた。
その二人の姿がいつかの親父と母さんに重なった。守り、守られる。その構図が狂おしいほどはっきりと重なった。
俺の居場所はそこにはない。俺が入り込む余地がない。
「やめろ……やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめろッ!」
懐へ手を突っ込み、その手に触れた物体をすばやく引き抜いた。
抜いたそれを迷いなく鞍馬に向ける。真っ直ぐ、鞍馬に狙いを定める。
――その銃を真っ直ぐと。
「はあ……はあ……ふざけんな、ふざけんなッ!」
立ち込める黒いもやが思考を埋め尽くす。
自分が何をしているのかわからなかった。考えるよりも先に身体が動いていた。
右手に構えた拳銃は受け取った時にも増して何倍も重く、どうしてか照準が震え、定まらない。
俺の強硬に、鞍馬はびくりと身体を震わせるも、本能的にか雫を背後に隠した。
その行動は、かえって俺の神経を逆撫でした。
「やめろって言ってんだッ!」
心臓が耳の横にある。その背後で打ち寄せる波の音が際立って――うるさい。
怒りは――感覚としては、嫉妬に近かったように思う。
俺だけが排除され、されど二人は手を取り合う。その構図は二人の恋愛が成就したようにも見え、しかして相談を受けていた俺の想いなど一切関係がない。二人は元々結託していて、すべてはシナリオで、意味のないシーソーゲームで。俺はその中のただ駒、否役割すら教えられていないのだから駒よりも存在価値がない。
俺はこの二人にとって何なんだ? この二人にとって必要な存在なのか?
「……否定してくれよ! 全部、こいつの出任せだって言ってくれよ」
片手で隣の八神を指差しながら、俺は銃を握るもう一方に力を込めた。
一縷の望みに賭けたかった。
ここで否定してくれれば、何かが変わるかもしれない。ここで否定してくれれば、もしかしたら俺たちは元に戻れるかもしれない。まだ間に合うと思ったから。なのに――
「……否定は……しない」
鞍馬は俺をまっすぐに見つめた。芯が通った瞳で俺を見た。
「謝る。すまない。キミを騙していた」
「違う! そんなのが聞きたいんじゃない! 俺は……そんなのが……」
指に力がこもる。衝動が抑えられない。悲しみが溢れて止まらない。
「撃っちゃダメだ!」
鞍馬が叫んだ。彼の叫びを俺は、その時初めて聞いた。
「僕たちが撃たれることは構わない、それは仕方のないことだ。僕たちはキミにそれほどのことをした。だけど……キミは撃っちゃいけない。撃ったところでキミの心は晴れない。むしろキミのことだ、後悔するに違いない。そんなのダメだ。その一発で僕たち三人の運命が決まる。後戻りが出来なくなってしまう!」
そのストレート過ぎる感情をぶつけられ、俺は叫ばずにはいられなかった。
「今さら何言ってやがる。いい歳こいて、高校生のフリなんかしやがって! 騙したのはお前らだろッ! 棚上げしてんじゃねえよ、もう後戻りなんか出来るわけねえんだッ!」
一度昇った血を下げるには相応の力がいる。感情的な俺に、理論で攻める鞍馬じゃ冷めるものも冷めない。冷静な判断を求める鞍馬の声を聴けるほどに俺の頭は冷めてはいない。
「もうお前らのこと信じられねえんだよ。もう――」
パン――、と乾いた音が遠く水平線に響く。どこまでも反響し、鳴り止まない。
だが、俺の銃は重たく冷え切ったままだった。
「――ッ!?」
頬に激痛が走った。不意に訪れたそれに頬を押さえると、生温い液体が指を這うのがわかった。案の定押さえた手は、真っ赤に染まって――
「落ち着きなさいよ、あんたッ!」
「シズクッ、てめえッ」
雫の持つ銃からほのかに硝煙が立ち昇っていた。俺はすぐさま銃口の矛先を彼女に変えた。しかし――
「撃ちたきゃ、撃ちなさいッ!」
その怒号は銃声なんかよりも、何倍も高らかにこだました。
「それで気が済むならそうしなさいよ。あんたの言う通り、あたし達はあんたを騙した。そこを言い訳するつもりはないわ。後戻りなんて綺麗事で解決するなんて思ってない。あんたには権利がある。だから、撃ちたいなら撃ちなさいよッ!」
「や、やめろ雫……」
身を乗り出した雫を制止させようと鞍馬は手を伸ばすが、彼女はそれを振り払った。
「でもね、言わせてもらうけど。あんたの銃じゃ、たとえ頭をぶち抜かれたってあたし達は殺せないのよッ!」
「はあ!? ハッタリかますならもっとマシなこと言いやがれッ」
俺はなおも彼女を狙い続けた。ウソつきの言葉なんて聞く義理もない。
「考えてもみなさい! この世界は仮想現実よ。それも政府お抱えの研究主任であるソウちゃんが造ったね。あんたッ、ソウちゃんの造るものに安全装置が付いてないとでも思う? あるに決まってんでしょ! ここで撃ってもあたしたちは死なない。現実で目が覚めるだけよッ!」
「な、何言って……!?」
彼女の言葉に頭の血が下がるのがわかった。感情に感情でぶつけられて跳ね返された。
雫の言葉は一理ある。いかにリアルに造られた世界とは言っても、仮想世界での死を現実にリンクさせる設計者はまずいない。そんなものを政府が許可するなんてことになったら、さしもの未来犯罪予防法も可決されるわけがない。
「ウソだと思うなら撃ちなさいよ。またすぐにあんたの目の前に出てきて、恨み事並べてやるんだからッ!」
火の宿る鋭い瞳。そう叫ぶ雫に俺は怯んだ。彼女の気迫は今も昔も変わらなかった。
「本当……なのか?」
ことの真偽を確認せんと八神に耳打つ。黙って静観していた八神はそっけなく返した。
「確かに彼女の言っていることはウソではありません。政府のメインサーバーから正規の手順でアクセスしている彼らは、たとえこの世界で死んだとしても安全にログアウトという処理で現実世界に復帰します。その逆、私のような不正アクセスで侵入している場合は、殺されればそのまま死に直結しますが」
「じゃ、じゃあ、さっき雫の首を斬ろうとしたのはなんでだ」
「強制ログアウトが実行された場合、次回のログインまでに十数分のタイムラグが発生します。それだけの時間があれば、この場から逃げることは雑作もありませんから」
目を細める八神は、結託した二人を睨め付ける。
「……お願いよ」
雫の声が震える。見れば彼女の両頬を大粒の涙が流れていた。
「お願いだから、馬鹿なことやめてよ……騙したことは本当に悪いと思ってるの。でも……仕事で、そうしなくちゃならなかった……本当は辛かった。何度も、何度も、真実を話そうと思ったんだよ」
彼女は膝を突いた。なおもあふれる涙を止めようともせず、彼女は必死に俺を見つめた。
「やり直そ、また三人で。また一緒に遊ぼうよ……夜遅くまで。今度は現実でさ」
いつも強気なくせにふとしたことでそれは脆く壊れる。自分のためよりも誰かのためで、それはいつも俺か鞍馬のためで。それが俺の知っている雫で、目の前にいるのはいつもの雫で。
揺らぐ。心が揺らぐ。
「でも俺は……俺はここから出られない。現実で向き合えないッ!」
「僕たちが何とかするッ! 僕たちがキミを助ける。だから彼女に付いていくな」
彼女はテロリストだぞ、と八神を指差しつつ鞍馬は立ち上がった。
いざって時に頼りになる実直な男は自信に満ちていて、その姿に俺は懐かしさを思い出す。
今まで俺たちが築いてきたものがどこまでがウソで、どこまでが本当なのかはわからない。
だけど、今目の前にいる二人は俺の知っている二人で、確かにウソじゃないと確信している。
だったら――俺は二人にとって必要な存在なんじゃないか?
だからここまでして俺を止めようとしてくれるんじゃないか?
なのに―― なのに俺は――
「くそ、くそくそッ! くそおおおおおおぉぉぉぉ――――――――――――――――ッ!」
俺は二人に銃を向けてしまった、殺意を抱いてしまった。今さら彼らの手を取ることが出来ない。二人ならきっと些細なことだ、と笑って許してくれるだろう。
けれど、それじゃあ俺の気が済まない。そんな都合のいい話あっちゃいけない。
腕の力を抜き、構えていた銃を降ろした。視線を砂浜に這わせた。血が溜まっていた。
「……颯」
それを見た雫が涙を拭い、一歩を踏み出そうとする。
「待て、やめろ……やめてくれ」
だが、俺はすぐさま拒絶した。銃を掲げ、再度雫に向けた。彼女はその場で立ち止まった。
「二人の気持ちは……ありがたい。だけど……ダメだ。俺は……このまま八神に付いていく。答えを見つけたいんだ。今までのこと、これからのこと。俺が何者なのか、どんな人間だったのか……知りたいんだ」
このまま二人の手を取るのは簡単だ。それは俺にとっても、二人にとっても望ましく正しい結末なのだろう。
だが、ノアに閉じ込められ、記憶を消され、この世界の真実を知った。儚さを知った。
ただ……俺はまだ知らない。まだ俺自身が何者なのかを知らない。現実ではどんな人間で、どんな生活をしていたのか。どんなことに笑って、どんなことに泣いていたのか。
更生される前の俺を、俺はまだ知らない。
だから、ノアに会いに行かなきゃならない。
俺の運命を変えた存在、ノアに会って――知りたい。本当の俺を。本当の俺の運命を。
――レールを変えるなら今しかないんだ。
「きっとなんとかするから、頼む!」
精一杯頭を下げた。そんな俺に、鞍馬は深く苦悶を浮かべたが、
「……わかった」
「ソ、ソウちゃんッ!?」
鞍馬の決断に、雫は驚きを隠せないようだった。それもそのはずだ。頼み込んでいる俺だってこうもあっさり受け入れられるとは思わなかった。彼は語る。
「颯の選ぶ道を尊重したい。僕たちがキミにしてきたことのせめてもの償いだ。キミの納得する答えを見つけるまで探してほしい」
ノアを殺すことが答えなら全力で止めるけどね、と鞍馬は冗談めかして付け加えた。
まるで父親みたいな親友の態度に、何故か気恥しくなって目を背けてしまった。
「行こう、八神」
「……はい」
八神は別段口を挟むこともなく、文句さえもなく、静かに後ろを歩き出した。
打ち寄せた波しぶきを肌にまとわりつかせ、硬い砂浜をしかと踏みしめ、
やがて――太陽は沈んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます