第一章 二節

「……はあ」


 成果の見えない作業に疲労感が募った。

 校長室から来た道を戻り、怪しい部屋をしらみ潰しに回ったが、秘密の部屋と呼ぶにふさわしい何かや、それに準ずるものは一つも見つけられなかった。あるのは軋む床と割れた窓、壊れた机に散らばった紙の山ばかり。いくら念入りに調べても結果は変わらない。無機質で代わり映えのない教室が続き、こちらのやる気は削がれる一方だった。


 ――今回ばかりは、なんともならないかもしれない。

 泥棒まがいな捜索の果てに、そんなことを思う。


 横一列に歩く俺たちは旧校舎のもう一つの最奥を目指していた。


「確か旧校舎の一階ってさ、ここで終わりだよね?」


 校長室と対称に位置する廊下の先は、雫の言うとおり、両開きの巨大な鉄の扉で終わっていた。この扉も昇降口同様太い鎖でがんじがらめに固定され、突破出来そうにない。また突破したとして、向こうは迷いの森に通じているだけだから期待も出来ない。


「仕方ない。他の教室を回ろう」

「そうだね……じゃあ、あれ! あの部屋は?」


 難攻不落の城門がごとくそびえる鉄扉を前に鞍馬は踵を返し、彼に追従して雫が走り出す。


 だが――


「待ってくれ」


 俺は二人を呼び止めた。それはほとんど無意識に発せられた言葉だった。


 胸の奥が熱くなる。

 説明の出来ない感覚だった。それはとても些細なもので、例えば風が吹いたとか、もしかしたらその程度のことだったのかもしれない。


「この扉……開けよう」


 だけど、開けなければならないと思った。理屈ではなく、義務でもなく、ただ純粋な本能として。もしこの扉がS極ならば今の俺はN極で、もしこの扉が月ならば俺はそれに向かって飛んでいく小さな蛾で。


 ――それが何を意味するかなんてどうでもよかった。


「開けるって、この扉?」


 思わぬ提案に、きょとんと眼を丸くする雫。


「なんかうまく表現が出来ないけど、開けなきゃならない気がするんだ」

心許ない返答をしながら俺は扉に近づき、そこに巻かれた鎖に手を伸ばす。

「待って、颯ッ!」


 ところが指が鎖に触れる寸前、鞍馬は声を荒げた。ふと手を止め、俺は鎖に向けていた目を彼に転じる。


「あるのか? その先に」

「わからない。でも……ある気がする」


 そう信じたいだけかもしれない。だけど抑えられない。頼りない衝動だった。

 その衝動は鞍馬にもあまねく通じていた。彼はどこか決心したように頷いた。


「……わかった。開けよう。どのみち引き返すくらいしかないんだ。どんなことになってもキミについて行く。キミの直感を信じよう」


 唐突なことに戸惑ったのは否定しない。信じると言われて気恥しくなったのも否定しない。やけに物わかりのいい、何かを悟ったような態度に困惑したのも否定しない。

 だけど、そう言ってくれた鞍馬の気持ちを大切にしたいと思った。


「安心しろよ。きっとなんとかなる」


 だから俺はいつものように返した。ほかのどんな言葉よりもずっと意味のある言葉で。


「ちょっと! あたしのことも忘れないでよッ!」

「ああ、そうだね。雫も一緒だ」


 鞍馬と雫の痴話喧嘩を背に受けながら、俺は鉄扉を正面に据え直した。


「よしッ! じゃあいっちょやったりますか」


 首の骨を鳴らし、両肩を数度回す。視線を鎖の両端を結ぶ拳大の南京錠に向けた。まずはこの堅そうな鎖を剝がさなければ始まらない。これが出来なければ、別の世界も何もあったもんじゃないだろう。どうやら少し骨が折れそうだ。

 と、南京錠の頑強な見た目にたじろいでいたが――それ嬉しい誤算だった。


「あっつッ!」


 恐る恐る手を伸ばし錠に触れた途端、指先に刺すような電流が走った。同時にジャラジャラと蛇が逃げるがごとく鎖が滑り落ち、床にほこりが舞った。


「何? 今の」


 のっぴきならない現象に雫が俺の手元を覗き込んだ。俺はビックリ眼のまま見返し、おぼろげに返す。


「いや……わから、な……」


 ――あれ?

 その瞬間、不意に足元が揺らいだ。足の力が抜け、重力のままに俺の身体が傾いた。


「わッ! ちょ、大丈夫!?」


 雫が俺の身体を受け止める。大丈夫ありがとう、と礼を言い、手を自らの額に当てる。


「立ち眩み……かな」


 などと言ってみたものの、両手には立ち眩みでは考えられない微かな痺れが残っていた。一瞬走った青白い閃光がチカチカと視界を横切る。身体中に妙な居心地の悪さがまとわり付いて、しかし何故かそれは気持ち悪いという感覚ではなく、どちらかと言えば水浴びの涼しげな感覚に近かった。


 ――なんだこれ……。


「大丈夫? 開けるよ」

「お、おう」


 ふらりとよろめく俺の脇で、鞍馬が両開きの鉄扉に肩を押し当てた。それに気付いた俺は慌てて彼の隣に並び、もう一枚に両手を当てた。

 せーの、と声を合わせ、力を込める。

 扉はゆっくりと、くじらが鳴くような低く重々しい音を立てて口を広げていく。次第に隙間から光が流れ込み、半ばを超えた辺りから扉は徐々に軽くなる。もう少し。


「ねえ、見て!」


 やがて出来た隙間へ滑るように飛び込む雫。鉄扉から手を放した鞍馬は、その向こうに広がった空間へ踏み出すも立ち止まり、驚愕を口にした。


「これは、どういうことだ……」

「……ははっ、何だよこれ……扉の先は迷いの森じゃなかったのかよ……」


 本来、森に繋がるはずの扉の先にあったのは、なおも古びた廊下だった。

 散々歩き回った旧校舎の廊下が当たり前のように俺たちの目の前に広がっていた。増築された? いや、ありえない。増築などという規模の空間じゃない。奥へ奥へ、こちら側の建物に劣らない巨大な建物が何食わぬ顔で俺たちを待ち構えているのだから。大体、この規模の空間なら外観からでも気付くはずだが、そんなこともなかった。


「ここが……秘密の部屋か?」

「わからない……わからないけど、ただごとじゃないだろう」

「ねえねえ二人とも。見てよ、これ……変じゃない?」


 と、俺の問いに鞍馬が首を振る中、向こう側の建物を進んだ雫が、最初に見えた教室の前で立ち止まっていた。彼女の視線の先にあるのは、教室を分けるために付ける札――よく『1‐A』などと書かれているものなんだが、そこにあったものは少しばかし事情が違っていた。


「これ……鏡文字になってるよ」

「はあ?」


 わけのわからないことを言う雫。だが、見てみると彼女の言う通りだった。札に書かれている文字――『資料室』の三文字は鏡で映したかのごとく綺麗に裏返っていた。


「いや……これは――」


 その直後、雫と一緒に札を見上げていた鞍馬が眼鏡を押し上げた。次の瞬間、彼は踵を返して走り出し、俺の横を通り抜けると元の旧校舎へと引き返した。


「見てくれ、これ」


 廊下を数歩ほど走った彼もまた教室の前で立ち止まり、その教室の札を見上げた。札はちょうど鉄扉を境界にして雫と同じ距離にあり、二人の姿はまるで鏡に映しのようだった。


「この部屋も『資料室』だ」

「はあ?」


 境目に立つ俺は、鞍馬と雫の二人を交互に見やった。右にも『資料室』、左にも『資料室』。かたや正立して、かたや反転して。つまり――


「鏡の世界だよ」

「かがみのせかい? おいおい、何言ってんだよ、鞍馬」

「いや、そうとしか考えられない。ほら、この建物全体がそうなってる!」


 鏡の世界。その言葉が何度も頭を駆け巡り、俺の意識を埋め尽くす。鉄の扉の先は外でも、秘密の部屋でもない対称の世界。


「はは、まさか……ありえねえよ……」


 俺は一体何を感じ取ったのだろうか……。俺は何を感じ取って、そしてこの扉を開けてしまった。何かに呼ばれるようにこの世界に遭遇した。

 まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。まさかこんな……。

 不安はやがて圧倒的な恐怖へと変貌する。その募る恐怖に抗いたくて、俺は矢も盾もたまらず鏡の世界へと飛び出した。

 そこにあるドアというドアを無我夢中で開けていく。開けずにはいられなかった。

 だが――それはあまりに軽率な行為だった。


「どうなってんだよ、これ!」


 本来の引き戸が左開きならば右開きの引き戸に。入って右に広がる教室ならば左に広がり。置いてある机も、椅子も、本棚も、黒板消しも、一つ一つ画鋲が刺さる位置も、その他のすべてのものが、まったく疑いようのないほどのシンメトリーを描いていた。


「……くそ、くそ、くそくそくそッ!」


 恐怖は堰を切って増長する。心臓を濡れた手で掴まれたような気分だった。


「どうなってるの?」「どうって……こればかりは」


 小走りで寄ってきた雫が尋ね、追い付いた鞍馬が質問に答えを出した。


「……わけわかんねえよ」


 俺は片手を膝につき、顎を滴った汗を拭った。

 疑問と恐怖に精神が押し潰されそうだった。驚愕に心が挫けそうだった。

 薄暗くなった校舎はしんと静まり返り、決して何も語らない。


「…………」


 やがて、誰もが口を閉ざしたその時――それは仕組まれた運命のように現れた。



 あ は は は



 不敵な笑みがそこにいた。


 三度目も変わらない白いワンピースに艶のある赤茶色の髪。どこか幽霊のように霞むのもこの世界でさえ変わりはしない。俺の動揺なんか意に介さず、型に取ったような笑顔の面を被って、女の子はそこに立っていた。

 跳んだり、跳ねたり。バレリーナのようにつま先で立ってみたり、大きく両手を広げてみたり。薄暗くなった廊下の奥で彼女はパンプスの踵をカツカツと鳴らしながら、妖精が森と戯れるように舞い踊っていた。

 と、不意に彼女は足を止め、こちらに向き直った。手招きする。



鬼 さ ん こ ち ら



「てめえ!」


 藁にもすがるといえば聞こえはいいだろうか。正直、我慢が出来なかった。

 明らかな挑発を受け流す余裕もなく、スキップで逃げ出した女の子目掛け走り出す。


「お、おい! 颯ッ!」「どこ行くの!」


 二人の制止する声は聞こえていたが、それさえも無視して走り続けた。脆く抜け落ちそうな床も構わず、左右に見える教室に目もくれず。綽々と逃げる女の子に手加減をするつもりはまったくない。


 ――もう三度目だ。一回目も二回目も、何も出来ないまま逃がしちまった。


 捕まえる必要はないかもしれない。でも訊く必要はあるだろう。この局面で、まるで助け船を寄越すかのように現れた彼女が、何の意味も持っていないわけがない。確証などなきに等しいが、絶対に何かあると思わずにはいられない。

 少女は突き当たった角を右折し、わずかの間視界から消える。全速力で廊下を走る俺は柱を掴んで制動を掛け、無理矢理に角を曲がり切った。


「はッ……はッ……どこ行きやがった」


 角の先は昇降口だった。ここもまた鏡映しに反転している。

 走るのをやめ、下駄箱や柱、物陰になりそうな場所に目を凝らす。子供のかくれんぼに付き合うつもりは毛頭ない。見つけたら首根っこを掴んででも引きずり出してやる。


「……はあ、はあ……くそ」


 にじむ汗を拭う。着ているワイシャツが汗を吸い、ひどく冷たい。

 身体の調子がおかしい。ちょっと走っただけなのに馬鹿みたいに息が上がる。

思えば体調が悪くなったのは今に始まったことじゃない。鎖を切った時には立ち眩みを起こした。この鏡の世界に入ってからは妙な負荷が身体に掛かっている気さえする。

 空間が空間だ。パニックを起こしていたっておかしな話じゃない。

 


 こ っ ち こ っ ち



「……あ」


 見つけた。女の子はさらに奥、もう一つの角で手招いていた。そのぼんやりとした姿も相まって、いよいよ黄泉の淵にでも立たされた気分になる。彼女の笑顔はじゃれているようでなおさら気味が悪い。

 そう怖気づく俺を前に、少女はまた角の先へと駆けていった。


「なんだってんだよ」


 吐き捨てるように悪態をつきながら、また彼女を追う。

 全速力を出す力はもうなかった。だけど逸る気持ちが俺を走らせた。


「待てっ! 颯ッ!」


 丁度女の子が消えた角に差し掛かった頃、背後から声が掛かった。鞍馬だ。一緒に来た雫が俺の腕を掴む。が、すぐに離した。


「うわッ! すっごい汗。あんたどうしちゃったのよ」

「何か見つけたのかい?」


 鞍馬の質問に、俺は角の先を鋭く指差した。


「あの女の子だ! あいつ、何かある。あいつが何か知ってるッ!」


 自然と語気が強くなる。俺は焦っていた。実体の把握できぬ焦燥感が全身を覆っているのがわかったから。でも、その気持ちは二人には決して伝わらなかった。


「女の子って?」


 雫の疑問に俺は目を剥いた。


「子供だよ! さっきいただろ!」


 掴み掛からんばかりの俺の形相に、彼女は首を引っ込めた。


「いないよ、子供なんて……こんなところにいるわけないじゃん、ねえ」

「……ああ」


 雫に問われた鞍馬はしどろもどろだったが、深く首肯した。


「……え? だって、あれ?」


 じゃあさっきの女の子は何なのか。夢か幻か、はたまた幽霊か。いや、そんなオカルト信じたくもない。あれだけはっきりと呼ばれて、存在しませんでしたなんてありえない。


 ――見えていない? 二人には視えていない。


「その女の子ってどんな感じだった? 服装とか髪型とか」

 

 俺にしか見えないという事実に愕然とする中、鞍馬が容赦なく問いただす。


「服装は……白。白いワンピースに、髪は床すれすれのすごく長いロングだった。色は茶色で……小学生くらいの子供だった」


 言葉は紐を解くようにするすると出てきた。話せば話すほどそれは現実感を増していく。

 続けて鞍馬は問う。実に神妙な面持ちで、半ば俺を睨むようにして。


「その女の子は何か言ったのか?」

「あ、ああ…………こっちこっちって手招きして、そっちの廊下に走っていった……」

「こっち?」


 俺の示した角まで歩き、鞍馬は曲がり角の向こうを眺めた。校長室か、とやや懐疑的に呟く彼は不満げに腕を組んだ。この表情はなんだろう?


「いや、悪い。きっと疲れてたんだ。きっと……俺の勘違いだ」


 そう言って自らを誤魔化す。これ以上主張しても自分の異常さを助長するだけな気がする。しかし、鞍馬はそんな俺を見るにつけ、眉間に寄せていた皺をすっと解いた。


「言っただろ。颯を信じるって。この先に何かある、そう思ったなら行くしかないよ」

 


 いつしか外は夕暮れの紅に染まっていた。

 割れた窓から差し込む光は、元々鬱蒼と茂る木々のせいで心許なかったが、夕闇の色が増すと、なおさら寂しさを強める。まだまだ三月中旬であって、制服姿では肌寒い季節。どこからか吹きすさぶ冷風が足元を掬うたび、身体が縮こまる。

 ぎしぎしと本物の旧校舎と遜色なく歪む廊下を、俺たちは不安を片手に進んでいた。


 疲れのせいか全員の口数は少なく、陰鬱な雰囲気が漂ってくる。ただ一人――雫だけは何か話題を作ろうとヤキモキした表情を始終繰り返していたが、結局冗談の一つも口にすることはなかった。やがて三人の前に扉が立ちはだかった。


「さて……運命の時だね」


 裏校長室の扉を前に勢いよく言い放つ鞍馬。どこか虚勢交じりにも聞こえる。

 開けるよ、と彼はドアノブに手を掛け、ひねる。徐々に、ゆっくりとドアが開く。


「……ああ」

 

――そうして、俺の世界は一変した。


「なんだよ、これ……」


 俺の視界には全方位余すところなく漆黒の世界が広がっていた。まるで深淵を模したかのような闇が、一切の光の存在を許すまいとする黒の空間が俺たちを待ち受けていた。

 ただまったく何もないわけじゃない。その表現は正しくない。

 矛盾した言い方をしてしまうが、この状況を言葉で表現するとしたら――


『ないけど、ある』


 黒の空間には、青く発光する幾千もの細い線が縦横無尽に、まるで蜘蛛の巣のごとく張りめぐらされていた。直進し、時にカーブを描く青い光は別の光とぶつかり、また別の光を目指して伸びていく。繋がった光は正方形や三角形といった単純な図形を造り出し、その図形と図形が結び合い、混ざり合い、組み合わさって新たな立体を造り上げている。


「すごい……すごく綺麗」


 クリスマスネオンを彷彿とさせる輝きの嵐に、目を奪われた雫が足を踏み出した。


「お、おいッ!」


 俺は彼女を掴もうと腕を伸ばした。落ちると思ったんだ。真っ黒の世界には床と呼べるものが確認出来ず、彼女がそのまま闇に沈んでしまうと思ったからだ。だが――


「ほらッ、二人とも! 来てみなよ、すごく綺麗だよ! きっとここが秘密の部屋なんだよ!」


 その俺の心配を余所に、彼女は笑顔でこちらに向き直った。慎重に足を踏み出す鞍馬の顔はどこか引きつっていた。


「どうやら落ちる心配はなさそうだね」

「……そう、みたいだな」


 俺は部屋に視線をめぐらしたまま、そこを動かなかった。

 いっぱいに広がる光の中に、雫よろしく突っ込んでいくことは出来ただろう。鮮やかな青のネオンは充分に興味をそそられるものだ。足を出しそうになる気持ちは申し分ないほどにあった。

 だが、それよりも何よりも、もっと深い部分で俺は別の感情を抱いていた。


 温もりが――故郷に帰ってきた時に感じる温かさが心の奥に火を灯していた。表面的じゃない、ずっと深部から沸き上がる感情が俺を捕えて離さない。こんな思い、いまだかつて味わったことがない。そもそも味わうような故郷自体が俺にはない。

 予期せぬ感情は足枷となる。その不思議な感覚に竦んでいた俺は、ふとあることに気がついた。


「なあ……この部屋、校長室に見えないか? ほら、雫の目の前。それ棚だ。校長室にあった大きな奴」


 俺は彼女の眼前を示した。


「え? あー、言われてみるとそう見えなくもないかも」


 雫は不審そうに、棚と思しき青い直線の集合をつついた。


「ということは……これは机か?」


 その隣にいた鞍馬は四方を直角に囲まれた面に手を添えた。

 はっきりと物が投影されているわけじゃない。その輪郭と骨組みがうっすらと浮かび上がる程度だが、つい数時間前に見たばかりの教室の光景なら十全に記憶している。


「この部屋も校長室ってこと?」

「ワイヤーフレームっぽいね。3Dの映像なんかで造られた奴に似てるよ」

「それパソコンの話でしょ? どうしてこんなところにそんなのがあるわけ?」

「そんなの……僕にわかるわけないよ……」


 行先不明の議論を繰り返す二人。その会話の間、俺は奇妙なものを見つけた。


「……これ」


 たった一つ。現実の校長室にはないものがここにはあった。


 それは執務のために使われていたであろうデスクの中央に置かれていた。

全体およそ五十センチの細いオブジェクト。

 デスクから二本の光が、まるで女性の腰のような滑らかな湾曲を描きながら上へと上昇している。それは半ばで小さな円によって蓋がされ、蓋の中心からさらに一本の細い光が伸びる。蓋を出た一条の光は二股に分かれると、横に伸びた一本は涙滴型を帯びて終わり、もう一本はなおも上に伸長する。その一本も最後には複雑に絡まりあったコブシ大の光線の塊となって収束する。

 一見してそれが何なのかを見極めるのは困難に思える。だが、どういうわけかこの時の俺には、その物体が何を表現しているのかがすぐにわかってしまった。


「……花か」


 デスクから円を描く蓋までが花瓶。蓋から上には茎が伸び、二本に分かれ、一本は葉となり、もう一本は複雑に絡まった無数の光によって、大きな一輪の花を表現している。


「……」


 食い入るように見入る俺は、いつしかその光の集合に魅了されていた。

 コバルトブルーに明滅し、輪郭のみで構成されたのその花に目を奪われ、惹かれ、それが醸し出す誘惑に囚われてしまった。愛すべき前世の想い人と時を超えて巡り会えたような、はたまた親を殺した仇と相対したかのような複雑な感情が唐突に目を覚ました。


 触れたい。心の底から込み上げる衝動を抑えることが出来ない。


 一歩を踏み出す。動くことを知らなかった足を一歩ずつ進めていく。

 走り出したいとさえ思った。だが、走り出せば転んでしまいそうなほどに気持ちが急いて、気持ちばかりが前へ前へ先行する。


「颯……大丈夫?」


 案の定、雫が俺の奇行に気が付いた。だが――


「…………どいてくれ」


 俺はその言葉をにべもなく拒絶した。理由はわからない。彼女の声が、好意が、すべてが今の俺にとっては目障りなものでしかなかった。

 意識もろくに働かず。本能の赴くままに。ひたすらに。


 結果――焦がすような熱を抱えながら、花瓶にたどり着いた。


「……はあ……はあ」


 まるで耳の横にあるかのように心音が耳を打つ。やたら耳触りに鼓動する。

 間髪入れず手を伸ばす。熱によって抜け始めた意識を埋めたのは、花に触れたいという純粋な衝動。膨れ続ける欲求に背を押され、指を立て、あと少し……あと少し……。


「――――ッ!!」


 それはあまりに突然の衝撃だった。

 光の織り成す花に触れた途端、指から背、背から首、首から脳へと電撃が駆け巡った。

 いつか鎖をちぎった時とは、段違いの強烈な力が俺の全身を一瞬で包み込んだ。その力は神経細胞の奥の奥、ニューロンの一つ一つにまであまねく響き渡り、俺はその場に硬直した。

 直後涼やかな鈴の音色を立て、花は粉々に砕け散った。粒状の青いカケラがさらさらと床に滑り、着地を待たずして霧散する。


「……あぁ」


 得体のしれない高揚感が襲う。自然と頬が緩む。

 何が嬉しいのだろう。何が楽しいのだろう。何に興奮しているのだろう。


 ――この達成感はどこから来るのだろう。


 次々に浮かび上がる数多の疑問が一気に俺を呑みこむ。疑問は膨大な情報として脳内を光速で駆け巡り、炸裂し、思考を圧迫する。

 身体中の感覚が奪われ、筋肉に力が入らない。


「颯ッ!」


 雫が叫んだ。

 その声はテレビのスクリーンが流すどこか遠くの出来事のようで、気が付けば世界が逆転していた。気が付けば俺は闇に伏していた。


「颯! 颯!」


 呼ばれる名前。揺さぶられる身体。薄れゆく思考。

 やがて周囲の声は雑音になり、水面に落とした石のように深く消失する。

その最中、どこかで聞いたことのある声が聞こえた。

 女の子の声が聞こえた。


 

 お や す み な さ い 



 ――ああ、おやすみ。

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