第一章 一節
三月十一日。卒業式。教室。
開け放たれた窓から、鮮やかに染まる桜の花弁と暖かな春の日差しが流れ込む。
慌ただしく走り回る在校生。
子供の晴れを祝いに集う保護者一同。
クラス中の人間がその先にある未来に思いを馳せ、ほのかな笑みとほのかな悲しみを顔に浮かべている。誰かはアルバムに言葉を書き残し、誰かはまた誰かと写真を撮る。
もう時間は多くないんだ。
開場を前に教室で待機していた俺たちは、おのおの友達と会話をした後、誰が言うでもなく当然のように机を囲んだ。
「今日は最後だ。だからとっておきの話をしよう」
アルミフレームの眼鏡を意味ありげに光らせる鞍馬が、どこか自信に満ちた表情をする。
「とっておき?」
胸に付けた赤いコサージュのずれを直しながら雫が問い返す。
「旧校舎の謎ってのがあるんだけどね。その話が実に興味深い」
「謎ってなんだよ?」
突然の話に思わず眉を顰める。論理的な鞍馬にしては、また随分と突拍子もない。
「この学校の敷地の東に旧校舎があるだろ? あのぼろぼろの奴。使われなくなってからもう二十年近く経つけど、あそこにはね……あるんだよ」
「何が?」
「ずばり、秘密の部屋だ」
「…………」「…………」
俺と雫はまさかのセリフに顔を見合せた。その俺たちをわざと無視したのか、本当に気付いていないのか、眼鏡をくいと直した鞍馬は話を続けた。
「旧校舎には誰も足を踏み入れたことのない謎の部屋があって、その部屋にはこの世界とは別の世界が広がっているらしい」
「別の世界って……ソウちゃん、どうしたの? 熱でもあるの?」
雫は呆れたように頭を抱えた。まあ、雫の気持ちはわからないでもない。離れ離れになることに頭を悩ませ過ぎて、おかしくなったのだろうか。大体、『誰も足を踏み入れたことのない』のに、どうして秘密の部屋があるとわかるんだ。矛盾してるだろ。
「ネタ自体はかなり前から仕入れていて、ずーっと行ってみたいと思ってたんだけどね」
「旧校舎に侵入して秘密の部屋を探すってか。まあ今日は高校生活最後だし、俺は行ってもいいぜ、旧校舎」
だいぶ内心胡散臭いとは思ったが、鞍馬の提案に俺は乗ることにした。
さらば青春。さらば高校生活。晴れの日なのだから多少羽目を外しても構わないだろう。何より鞍馬と雫が顔を突き合わせるイベントは多いほうがいい。
そして鞍馬の反対側、あからさまに乗り気でない雫に目を移した。
「雫はどうするんだ?」
俺が問い掛けると、彼女の視線が泳いだ。
「あたしは……」
目がきょろきょろと右往左往する。俺を見ては鞍馬を見て、鞍馬を見ては俺を見る。
「だってあたし、推薦入学なのよ? 変なことして入学取り消しなんて笑えないでしょ」
「確かにそうではあるけど……」
雲行きが怪しい。だが、俺はすかさず助け船を渡す。
「おいおい、まさかビビってんのかよ、雫」
「なッ」
雫は元々武闘派な性格ゆえに、どんな挑発にも簡単に乗ってしまうところがある。これでも中二から数えて五年は付き合いがあるからな。雫の運命は俺の手の平の上だ。
「ビビってなんかないわよッ! だってあそこ立ち入り禁止でしょ? 違反するのが嫌なの!」
「はいはい、わかったわかった。そういえば雫ってホラー苦手だもんな。覚えてるか? 昔、鞍馬の家で見たホラー映画」
その言葉に彼女の身体がぶるっと震えた。しめしめ。
「きゃーきゃー叫んで、俺と鞍馬を両脇に抱えたまま離さねえんだもんな。剣道部の元主将が泣き叫ぶ姿、後輩が見たらなんて言うか」
「ちょっとやめてよ! ていうか、泣いてないし!」
ポニーテールをぶんぶんと振り、彼女は喚き立てる。で、結局――
「わ、わかったわよ。行けばいいんでしょ、旧校舎。行ってやるわよッ!」
「だよなあ。さっすが雫」
本当に扱いやすいな、こいつ。面白すぎて、腹の痙攣が治まらねえ。
「ふ、二人とももう少し静かにしてくれないか。さっきから周りの視線が……」
鞍馬がそわそわと周囲を見回す。そういえば、声が大きくなり過ぎた。
「じゃあ……とりあえず式が終わったあとに旧校舎前に集合ってことで?」
「ああ」「……い、いいわよ」
鞍馬の最終確認に、満面の俺と拗ねた雫が頷いた。
「じゃあ、誰にも見つからないように、よろしく」
そうして俺たちは解散し、ささやかな日常を作っていた。
総評――式は死ぬほどつまらなかった。
だらだらと単調にリピートされる式辞と催眠術のように呼ばれる卒業生の名前。立ったり座ったり、立ったり座ったり。生徒数が増えて参列者も多い高校の卒業式では、時間も長くだらしなくなってしまうようだ。現に俺は延び切った式の半分近くを睡眠によって怠惰に過ごしてたわけで……。
「よっ、と」
旧校舎に一番乗りした俺は、近くにあった石庭の岩の上に腰を落とした。ほあ、とあくびをし、眠気の覚めやらぬ目を擦る。
鞍馬も雫もまだまだ別れを惜しむ友達がいるようで、さして友達の多くない俺は単身旧校舎に向かうこととなった。社交性がないと思っていた鞍馬であるが、こうなってみると俺のほうが社交性は低いのかもしれない。
「魔物でも出そうだな」
旧校舎は規格外の敷地面積を誇る高校の隅、昼間であるにも関わらず光も届かないほど高い木々の乱立する辺鄙なところにあった。人の滅多に踏み入らない、さながらRPGなんかにある『迷いの森』とでも言った森の中にそれは建てられていた。
岩の上からぼんやりと上を見上げると、わずかに差し込む陽光が新緑を貫き、その強い日差しに自然と手をかざす。絶好の卒業式日和だ。
「あ……」
鬱蒼と茂る木々を縫って突風が俺の頬を撫でた。日和とはいえまだ冬を脱したばかりの風は冷たく、身体をさすらずにはいられない。
森を抜けてきた風はまるで獣の雄叫びのようにごうごうと音を成して、旧校舎へと吹き込み、古びた窓ガラスを強く叩いた。
だが――唐突に風は止み、同時に音が奪われた。流れる雲が光を遮り、辺り一面が夜のように暗くなる。
まるで、昨日の丁字路を再現するかのように。
森はしんと静まり返り、それと呼応して俺の恐怖心が音を立てて増大する。ひたひたと何かの近づく気配がする。そして――
そして――彼女は現れた。
白いワンピースの小学生くらいの女の子が、深い木々の群れを背に佇んでいた。
前回よりもずっと近い。手を伸ばせば届いてしまいそうな距離に女の子はいた。薄い笑みを浮かべる彼女は、やはりじっと俺を見つめていた。
「お前……何なんだよ」
風に揺れるブロンドに俺は訪ねた。
「……」
しかし返事はなく、その代わり彼女は別の方法で応答した。
透かしてしまいそうな白い腕をまっすぐに伸ばし、ある一点を指差したのだ。
それは旧校舎の入口。ぼろぼろに壊れ、その役目をかろうじて残す昇降口を指していた。
「……何か、あるのか? ……まさか」
――秘密の部屋。
その言葉が俺の頭に去来した。彼女は何かを知っているのか。
俺は座っていた岩を降り、亡霊のように霞む少女に手を伸ばす。
だが、俺の手は何も掴むことは出来なかった。その小さな肩に触れようとした直前、彼女は突如身を翻し、駆け足で森の中へ逃げ去ってしまった。
「お、おい!」
急いで追い掛けようとしたが、少女と入れ替わるように一つの声が届いた。
「ごめんごめん。待ったー?」
小走りでやってきた雫が大きく手を振った。ほんのりと息を乱す雫は、よれたスカートをせっせとはたき、丁寧にポニーテールを結い直した。
一通り正し終えた彼女は、不意に俺の頬を摘まみ上げた。
「結構間抜けな顔してるけど、何かあった?」
「なんでもねえよっ」
未だ頬から離れない彼女の指を強引に振り払う。
ホラー嫌いの雫に幽霊少女のことを訊いても無駄だろう。タイミングからしてすれ違っていてもおかしくないのだが、雫の様子から見てそれもなさそうだし、すでに少女を追い掛けるのが不可能な以上、今は脇に追いやる他ない。
「ふーん、まあいいわ……ソウちゃんは? まだ来てないの?」
「ああ、まだ来てないみたいだな」
「ふーん……ふーん、そっかそっか」
どこか生返事な彼女は、一通り周りを見回すと、つと俺ににじり寄り、悩ましげな顔を突き付けた。
「あたし、どうすればいいのよ」
あまりに脈絡がなさすぎて困る。まあ、言いたいことはわかっているのだが。
「女ってのは頭の中そればっかりなのか? 自分の力でなんとかしろよ。卒業式なんて最高のシチュエーションじゃねえか」
「何にとっての最高よ?」
「そんなもん、告白……おふッ!」
合いの手を打つように答えた瞬間、予想外の衝撃が俺を襲った。その衝撃の意味を知ったのは約三秒後の未来だった。
「こく、こ、く、は、くッ!!」
握り拳をわなわなと震わし、顔面を真っ赤に染めた雫が叫んだ。
「無理に決まってんでしょうが、告白なんてッ!」
「なんでだよ。今日ほどのチャンス、他にねえだろ。今日やらないでいつやるんだよ」
へこんだお腹を摩りつつ負けじと一歩踏み込む。彼女はそれに怯んだのか一歩下がった。
「それはさぁ……それは……無理だよお……」
空気が抜けるように肩を縮める雫。
「必要ならいなくなるぞ?」
「ん……ん……」
そして無言。彼女は後頭部に結った長い髪を指に巻きつけ、いじいじしながら俯いた。
そりゃあ、俺だってこの話が即断すべきじゃないのは理解している。幼馴染が長いと、その関係を崩してさらにその先へってのは、中々考えにくいしな。今の雫を襲うジレンマは相当なものだろう。と言っても二人の気持ちを知る俺にとっては、すべて茶番でしかないのだが。
とっとと告白でも何でもすればいいんだ。こいつらのなよなよとした相談を延々聞かされているこっちの身にもなってほしい。
「あー、うー」
余程迷っているのか、彼女は両手で自らの頭を鷲掴みにし、くしゃくしゃと髪を掻き乱した。そうして散々悩んだ挙げ句、
「やあ、颯、雫。待たせて悪いね」
鞍馬の到着を許す羽目になった。間の悪い男だな、こいつも。
「ずいぶん遅かったじゃないか。そんなに挨拶する相手がいたのか?」
「うん、先生方全員に頭を下げていたら時間が掛かってしまった」
「そりゃまたご苦労さん。んじゃあ行こうぜ。おい、聞いてんのかよ、雫」
「え、あ、うん……行く行く」
そうして二人が旧校舎に向かう中、何となく俺は森の奥を見返した。
カタカナの『コ』の字を描く木造三階建ての旧校舎は老朽化が激しく、全体を青々としたツタが血管のようにびっしりと覆っていた。腐った木材には魔窟の入り口さながらの大穴が、至るところに開いている。
『コ』の東側中央にある昇降口は、何重にも巻かれた鎖によって堅く施錠されている。だが、その脇にでかでかと開いた大穴のおかげで入り込むことは雑作もなかった。
「それでその秘密の部屋ってのがどこにあるのか、目星は付いてんのか?」
入ってすぐの廊下を舐めるように眺め回し俺は尋ねた。
廃墟は雑然としていた。その当時あったであろう空気はなく、むしろ時代を早送りにしてしまったぐらいの腐食っぷりで無常感は拭えない。建物の規模はそう大きくないと記憶しているが、三階建ての廃墟を当てもなく歩くなんて途方もない作業は出来れば避けたいところだ。
「噂だと一階のどこかにあるらしいけど、詳しくはちょっと……」
「じゃ、じゃあ一階を片っ端から行くしかないってこと?」
俺たちの腕をがっちりホールドして離さない雫がおっかなビックリで言った。
「仕方ねえか」
途方もない作業は出来れば避けたいんだけどなあ、と俺たちは歩き出した。
今にも抜け落ちそうな床板をぎしりと踏み鳴らし、保健室、事務室、職員室と一階にある教室を目に付いた順に回っていく。隅々まで念入りに回る覚悟が鞍馬にはあったのか、熱心に調べて回っていたが、すでに使われていない校舎に残されているものは少なく、せいぜい使えなくなった机や椅子が散乱するだけだった。
結果的に――特に目を引く何かを見つけるには至らなかった。
「確か……あの奥は校長室だね。いかにも怪しいじゃないか」
『コ』の字型の旧校舎に二つある最奥のうち、北側の突き当たりにそれはあった。奥に見えた一際大きな扉を指差した鞍馬は、その歩調をだんだんと速め離れていく。
「ねえねえ」
それを見計らったのか、隣にいた雫が袖を引いた。
「なんだよ」
「さっきの話」
「さっき?」
小声で話す彼女に、はてさっきとはいつだろうか、とだらしなく口を開ける。
「もしもね、もしもの話よ。もしもソウちゃんの言うとおり、この旧校舎に秘密の部屋があるとして、それを見つけることが出来たら」
その話かと得心し、俺は無言のまま頷く。それを確認して雫は結論を述べる。
「あたし……告白するよ」
おっ、と小さな驚きを隠せなかった。彼女の両目がたたえた光に俺は眩み掛けてしまった。なるほど、そういえば剣道をやっている時もこいつはよくこういう顔をする。
俺はちょっとばかし安堵しながら、再度頷いた。
「……そうか。いいんじゃないか」
まともな人間なら、秘密の部屋なんて根も葉もない噂に告白を懸けるなど馬鹿げていると思うだろう。ああ、その考えは間違っちゃいない。
だけど、そうじゃない。雫の目を見ればその言葉の真意はすぐに理解出来る。
――信じているんだ。
鞍馬が手に入れた噂が真実であると。彼なら見つけ出してくれると。そう信じているからこそ、絶対的な自信を持つことが出来る。告白一つと天秤に掛けることが出来る。
俺たちはそういう仲間だ。そうやって繋がってるんだ。
「はは、いよいよ雫も腹くくったか」
「それ以上笑ったら殺すわよ」
「悪い悪い。じゃあ行こうぜ。鞍馬が待ってる」
「う、うん!」
だったら俺も全力で秘密の部屋を探さなくちゃならない。途方もないことかもしれないが、雫の気持ちを汲んでやるのが今の俺の役目だろう。
「さて、どこから探すよ?」
鞍馬によって開かれた校長室は想像以上に広かった。椅子や机はわずかに残されるばかりで、余計に広く見えるのかもしれない。床一面余すところなく分厚いほこりが積り、踏み込めばすかさず足跡が残る状態だ。
「えっと……どうしようか」
俺の質問に鞍馬は苦笑する。
他の教室の例に漏れず、ここも軽く見回すだけで充分わかるほど何もない。件の部屋を隠せそうな場所もない。出鼻挫くにしても、もうちょっと何かあるだろ。
「まあ、まだ始まったばっかりだし、探す部屋はまだ残ってるじゃん。次行こうよ、次」
気を削がれた鞍馬を気遣ってか、雫がポンと彼の背を叩いた。
「そうだね。こんなに簡単に見つかったら面白くない」
「念のために少し調べとこうぜ」
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