序章
「大丈夫、きっとなんとかなるさ」
たかだか十八年の人生経験しか持たない俺が言うのも馬鹿げているかもしれないが、この人生について気付いてしまったことが一つある。
それは――この人生はひどくつまらない、ということ。
いつの頃からだったか。何がきっかけだったか。
俺の人生は、起伏を失った真っ白な板になっていた。
例えばサイコロを振って出る目のことや道を曲がった先にあるもののこと。例えばテストに出る問題のことや大好きなあの子が笑ってくれる話題のこと。
それらやそれ以外のことのすべてが俺には――わかるようになっていた。
それは、まるでレールの上を歩かされているような、はたまた身体を糸で吊られているような、そんな感覚に近かった。
考え、行動し、結果を得る。
いつからかその一連のプロセスが何者かに操作されていると感じるようになった。
いや、確かに見えない何かに人生を操作されているなんて、馬鹿げた考えだとは思う。
だけど、そう思えて仕方がないんだ。
それを裏付けるように、ちょっとの困難はあったけれど、苦悩も挫折も、失望も絶望も味わったことがなかった。順風満帆な、これまでさしたる驚きもなく生きてきた。
誰かが俺の人生をイージーモードに作り変えているような気がした。
退屈だった。ひどく退屈だった。
張り合いのない人生。やりがいのない人生。モノトーンの人生。
まるで飼い慣らされるみたいな人生を経験し、やがて俺はこの人生に決して期待せず、すべてを諦めるようになっていた。
物心ついた頃には、まるで世を知ったように自虐的な口癖を使うようになった。それはいつしか呪いのように俺に付きまとい始めた。憑きまとって離れなくなった。
――きっとなんとかなるさ。
頑張ろうが頑張るまいが、行きつく先が同じなら努力する理由はない。不安を抱いたって、失敗したって、どこかの誰かが軌道修正してくれる。なんだってどうにでもなる。
だけど、そんな後ろ向きな人生なんてダメだよなって、最近は考えるようにしている。
こんなくだらない世界だけど、こんな取るに足りない世界だけど、それでも何かを変えてみたい。笑えなくなるくらい痛い目を見ることになったって、醜く這いずりまわる結果になったっていい。簡単に諦めるくらいなら、俺はとことんもがきたい。
そういう生き方がしたかった。
だからこの言葉は、何かに絶望した誰かのための希望になる言葉にしたいんだ。
――大丈夫、きっとなんとかなるさ。
「
退屈な人生の退屈な放課後。代わり映えのない世界。
平凡な日常。静かな小川のごとく流れる時間。
いつものように語り合う俺たち。
校舎を囲う木々は風になびき、初春の日差しはまだ肌寒かった。下校する学生の声は静かに、遠くの野球部の声は高らかに響いていた。卒業式を明日に控え、見える景色が郷愁に染まる。もうすぐ終わるんだよな、俺たちの高校生活……。
校舎に沈みゆく太陽を背に、俺たちは正門先の階段に座っていた。風に揺れる髪を掻き毟りながら、俺は首を竦めた。
「いくら考えたってなるようにしかならねえだろ。だったらもっとポジティブに考えろよ」
「でも……高校を卒業したら、みんなバラバラになるのは事実だ。こうして颯やシズクと会う時間がなくなるのをポジティブには考えられないよ」
そう言って眼鏡のブリッジを押し上げた彼は眉を八の次に曲げた。俺は短く答えた。
「そりゃあ……まあ、そうかもしれねえけど……」
この眼鏡の青年――
家庭の事情で家を引っ越し、この学校へとやってきた俺は、初めての転校に戸惑っていた。元々口下手だったこともあり、新しく放り込まれたクラスに馴染めずにいた。
孤立無援。おそらくこれが俺の経験した困難の最上位だっただろう。
だが、やはりというか何というか――そんな困難もあっという間に覆った。
転校から数日が経ったある日、俺は不注意にも数学の教科書を家に忘れてしまった。
これは致命的だった。孤立無援を代名詞としている俺に、教科書を貸してくれる友達はおらず、俺は途方に暮れてしまっていた。
その時、こいつが教科書を差し出してきた。
休み時間には分厚い本を読んでいるような暗い男。黒ぶちの眼鏡を標準装備し、いつもうつむいているようなそんな男が、ぶっきら棒で愛想のよくない俺に教科書を差し出してきたのだ。
それは息を呑むほどの驚きに満ちていた。
この男がかなり無理した行動に出たのは、初対面でさえもはっきりとわかった。
教科書を持つ手は堅く、ろくに目も合わず、意志の疎通もまた皆無だったからだ。
ただ、何故だろうか。その時は、取らなきゃいけないような気がした。自分でも自分の行動の意味がわからなくなる時があるだろ? つまり、そういうこと。
だから――俺はその教科書を受け取った。
若干クラスから浮いていた俺と鞍馬だったが、お互い社交性の低さなんて時間を掛ければどうにでもなると思った。というか、そもそも俺は低いわけじゃなくて、ただ戸惑っていただけなんだから。
「シズクの大学はこの街から少し遠いからさ。授業が終わって、帰ってくる頃にはきっと夜も遅くなって……そうなったら僕たちと会う時間はないに等しい」
「受験期間中だって馬鹿みたいに会ってたくせに、それくらいで会わなくなるなんて考えられるかよ。幼馴染で家は隣なんだろ? いくらだってやりようはあるじゃねえか」
座り直しつつ俺は嘆息した。鞍馬はバツが悪そうに返した。
「それはそうだけど……大学じゃあ何があるかわからない」
「何が?」
「いや、サークルとか合コンとか、大学にはいろいろな誘惑があるって聞くし……なんて言うか……気持ちが離れる」
「……はあ」
鞍馬の心配性にはほとほと呆れる。こんな奴、普通なら面倒になって見離すところだが、どうにも放っておけない俺がいるから、なおさら情けない。世話好きなのかも。
「わかったわかった。休みには俺が何か企画してやるよ。それでいいだろ?」
「あ、いや、違うんだ。そういうことじゃなくて……いや、それもあるにはあるけど……」
言葉はだんだん尻すぼみになり、やがて消える。と直後、背後から黒い影が伸びた。
「おっまたせえ。二人とも何の話してんの?」
不意に現れたブレザーの少女は、俺と鞍馬の間に割って入り、交互に俺たちの顔を覗き込んだ。その目は丸い水晶のようで、まるで心を盗み見ようとしているかのようだった。
「ん? あー、強いて言うなら進路相談かな。そっちはどうだ? 終わったのか?」
俺はなるべく平静を装った。嘘もない。
彼女は俺たちの間をぴょんと跳躍。一歩二歩と軽快に階段を駆け下りた。
「先生が戻ってきたからね。ちょっと一年生の指導してただけだし。引退したんだからあんまり口出すのも悪いっしょ」
少女――
高校生活三年間を剣道に費やし、腕は県でも一、二を争う実力者。鬱陶しいという理由から黒く長い髪を頭の高いところに結い、俗に言うポニーテールにまとめているのが特徴的で、またすらりと背が高く、ウソみたいに手足が長い。流麗な眉に大きな瞳、化粧っけはないくせに雪のような白い肌を持ち、一見してモデルでも出来そうな容姿をしている。現に街中で声を掛けられることもままあって、それが鞍馬の疎遠不安をあおっている一因でもある。
「お、おつかれ、雫」
鞍馬の表情は硬い。大方、今の話を聞かれたかと動揺しているんだろう。
「ソウちゃんも待たせてごめんね」
「いや、僕は大丈夫。それ持とうか?」
鞍馬が雫の提げる道着袋に手を延ばす。
「ううん大丈夫、重くないから。ほらほら、早く行こうよ」
横に頭を振った彼女は浮足立った様子で歩き出した。俺と鞍馬も彼女を追って歩き出す。
校門を抜けると、そこからは傾斜のある下り坂が続く。心臓破りなんて揶揄される骨の折れる坂道だが、下校する時はそれほどでもない。無論、登校は地獄だが。
「今日はどうする?」
満開の桜が並ぶ急勾配の上で、先導する雫がこちらに振り返った。家路を急ぐ何人かの学生が俺たちの横を過ぎた。
俺が彼女に出会ったのは、鞍馬に教科書を借りた一週間後のこと。
鞍馬の家に初めて遊びに行った日、リビングのソファでスナック菓子を食べていた彼女に対面したのが、最初だった。いや、我が物顔で当然のように寝そべっていたもんだから、最初は鞍馬の妹か何かと勘違いしちまった。女らしさの微塵もない。
「今日は……俺はボウリングの気分だな」
「え……僕は久しぶりにカラオケ行きたいんだけど」
ややと思った。俺と鞍馬の意見が割れることは滅多にない。長いこと一緒にいるもんだから考えが似てきた節がある。友達ってのはそういうもんだ。
「んー、なるほどなるほど。ボウリングにカラオケね。確かに二人の意見は捨てがたいんだけど……あたしさ、実はちょっと行きたいところがあるんだよね」
夕陽をバックに言う雫の表情はその光のせいで見えにくかった。目を細めながら問う。
「行きたいところ? どこだよ」
「ヒ・ミ・ツ。行ってからのお楽しみってことで……ダメかな?」
両手を合わせてお願いする雫に、俺も鞍馬もままよと同意した。
「まあ、いいぜ俺は」「僕もそれでいいよ」
俺たち三人がまた遊ぶようになったのは、実はごく最近のことになる。
中学で出会って以来、鞍馬か雫の家で毎日のように遊び呆けるのが日課だった。
しかし、中学を卒業し、高校に入学した頃から俺たちの交流は日を追うごとに減っていった。高校は同じでもクラスはバラバラ。勉強だったり、部活だったり、バイトだったり。それぞれがそれぞれの理由から忙しくなって、三人が揃う時間がなくなっていった。
みんな何かしら思うところはあったと思うけれど、誰かがそれを言い出すようなこともなく、結局俺たちは――会わなくなった。
だが、きっかけは唐突に訪れる。
高校二年生。息も凍る季節にそれは起こった。
突如、鞍馬が俺の背筋まで凍らせるとんでもないことを口にした。
『僕は……雫のことが好きなのかもしれない』
正直言う――アホかと。
いや、鞍馬が雫を好きだということに文句が言いたいわけじゃない。そんなものは見ていればわかる。実際クラスの噂好きな連中が俺に訊きにくるほどだ。
そういうことじゃなく俺が言いたいのは、鞍馬自身がその気持ちに気付いていなかったことだった。頭を抱える事態だった。頭が固いのもここまで来ると痛くなる。
とはいえ、そんなきっかけで、その相談以降、俺たちの交流は息を吹き返した。
俺が雫に声を掛け、雫がそれに乗り、俺たちは昔みたいに遊ぶようになった。高校生だから鞍馬の家でということはなく、街に繰り出してどこへともなく遊びに行った。大学受験が間近に迫り、おのおの忙しくなる中でそれでも俺たちは会い続けた。
そのせいで剣道の推薦入学を決めた雫を除く、俺と鞍馬が苦労したのはいい思い出だ。
「よーし、しゅっぱーつ!」
とはいえ、そんな苦労は何ともない。
三人が一緒にいられる。それでよかった。
そう――それだけでよかったんだ。
「たっかーい! ねえ、二人ともこっち来てよ! 学校あんな小さく見えるよ!」
雫が手すりに飛び付き、窓ガラスに額を押し付けた。
下校した俺たちは、この街にたった一つのシンボルである超高層建築物――《エアライン》の中層展望室に来ていた。凄まじくバカ高いこのタワーは、足の先からその天辺まで――天辺は見えないほど上にあるのだが――銀色に輝くガラスで敷き詰められ、さながら巨大な氷柱を思わせる外観をしている。
この建物の最大のウリは、展望室から一望出来る絶景にあるだろう。三六〇度全方位の大パノラマは、世界の果ての果てまで見渡せそうな景色を有し、まるでこの世を支配したかのような気分にさせてくれる。
鞍馬と雫の二人は、過去に何度か訪れたことがあるようだが、恥ずかしながら俺はこれが初めての観覧だった。いつでも行けるだろうと先延ばしにした結果、チャンスを逃していた。
「こわッ……でもすげえ!」
雫にならって外を、世界を見下ろす。洒落にならない高さだったが、その代わりに望める景色は恐怖をはるかに凌駕する。
普段冴えない我が街は、その沈み掛けた真っ赤な夕日に照らされて、まるで深紅の絨毯を敷いたように美しかった。所々に生まれる濃淡が模様のようにグラデーションし、遠く地平線まで隙間なく広がっていた。
「来てよかったでしょ?」
「ああ! おい、鞍馬もこっち来いよ」
喜色満面の雫に笑んで返した俺は、ふと気がついて後ろを振り返った。
「え、あ、ああうん」
どこか歯切れ悪く頷いた鞍馬は、そそとタワーの手すりに並び、大空に目を凝らす。
「あー、あたしたち明日卒業だよー。なんか高校生あっという間に終わっちゃったね」
「後半は特に早かったよな」
「受験もあったし。毎日息つく暇もなかったよ」
「ソウちゃんと颯はそうよね。特に颯は馬鹿だし」
「ぬぐっ」
否定したいところだが、雫の言うとおり受験勉強は苦労した。鞍馬も苦労しているが、それは志望校のレベルが高すぎるせいで、俺の場合はそういう話ではない。
「僕もっと色んな所に見たいよ。みんな行きたいところ、まだまだたくさんあるだろ?」
「あるある! あたし数えたらキリないよ。大学生って夏休み長いらしいし、いっぱい旅行しようよ!」
「これからも連絡、徹底しないとな」
鞍馬の言葉に雫が同意し、そこへすかさず俺が付け足す。
「うん、いっぱい連絡する」
他愛もない会話だった。言いたいことを言いたいだけ言う。途切れないように継ぎ足していく。まるで会話が途切れたらすべてが終わってしまうんじゃないかって、俺はそう思っていた。きっと二人も同じ気持ちなんじゃないか、って思った。
「あ、そうそう! さっきの奴、忘れないうちに渡しとくね」
「さっきの?」
やにわに鞄を漁り始める雫。彼女は花柄の手帳を取り出すと、数回をめくりそこに挟んでいた紙片を取り出した。
「はい、卒業式イヴ高校生最後の思い出」
手の平には一枚の紙片が乗っていた。ここに昇る前、一階のゲーセンで撮ったプリクラだった。
受け取ったそれに俺は目を落として、そして二人を見やった。
どこか胸が痛かった。強がったって内心は俺も鞍馬と一緒なのかもしれない。明日の卒業式で俺たちは別々の進路に進む。きっと会う機会も減る。親友と親友の幼馴染と、共有する時間がなくなる。
それはきっと必然だろう。もちろん鞍馬に話した通り、卒業したからって俺たちが一生会えなくなるわけじゃないとは思っている。ちゃんとお互いに連絡を取り合って、上手く時間を作っていけば、寂しくなることもないはずだ。
そう思う反面、しかしそれは言うまでもなく確証がなかった。やはりそれは大学生になってみなければわからないことで、漠然とした不安は拭えない。
でも、そう、それだって――きっとなんとかなるはずなんだ。
「じゃあ、俺こっちだから」
エアラインを降り、商店街を抜けて差し掛かった丁字路で、俺は片手を上げた。
幼馴染の鞍馬や雫と違って、俺はここで別れることになる。信号はちょうど我が家の方角に青く光っていた。
「じゃあまた明日」
じゃあねえ、と二人は手を振り、俺を見送る。
薄く微笑んで返し、点滅を始めた信号を小走りで渡った。とはいえ、今日ばっかりはその足も重たい。
行き交う車たちを横目に、肩に掛けていた学生鞄を脇で締め、左折してきた車を避ける。だが、まもなく信号を渡り切った先で、俺は不意に足を止めた。
「……ああ、なんだかなぁ!」
どうやらおまじないの言葉も今日ばかりは効果が薄いらしい。
片手で頭をひとしきり掻き毟り、俺は宮廷歌人もかくやと言わんばかりの後ろ髪を引かれる思いで、ゆっくりと後ろを向いた。いや、本当に何の脈絡もない行動だったんだよ、これ。
だけど――
――それは前触れもなく訪れた。
「え……?」
空気が止まった。音が止まった。
いつの間にか――
街が死んだように静止していた。
走っていた車は一つ残らずいなくなり、人の足さえついと途絶えた。
たちまち静寂が辺りを呑み込む。どこか周りの景色が色褪せて見える。それはセピア調というよりもモノクロ調で、一面に広がる灰色の空に我が目を疑った。無尽蔵に林立するビルはより鉛色に姿を強め、重く圧し掛からんばかりの威圧感を漂わせる。
無人の世界。無音の世界。俺だけの世界。
何も出来ず、そこに呆然と立ち尽くしてしまった。周囲を見回し、阿呆のように口を開けて景色を眺めることしか出来なかった。
やがて俺はあることに気が付いた。
横断歩道の向こう。さっきまで手を振っていたはずの親友とその幼馴染までもが神隠しのように消え失せていた。
「おい……勘弁しろよ……」
二人が消えたという事実を認識したことで、ようやくこの異常事態に恐怖が芽生え始めた。誰もいない世界が嫌でも終末を思い起こさせ、急な閉塞感が胸を打つ。そのひどい息苦しさに、俺はシャツのボタンを外した。
「誰か! 誰かいませんかッ!!」
声を張り上げる。だが、どこからも返答はない。どこにも音はない。
走り出したい気分だった。走って、走り回って誰かを見つけたかった。誰でもいいから見つけ出したかった。
とその瞬間、視界の隅で何かが動いた。咄嗟に俺は首を向けた。
「……あ」
女の子だ。商店街の入り口に女の子が立っている。
歳の頃は小学生くらいだろうか。無垢な白いワンピースに、霞むようなブロンドの髪が地面を撫でそうなほど長く伸びている。今にも折れてしまいそうな細い腕と脚。低いヒールの付いたこれまた白のパンプスを履いて、じっとこちらを見つめている。少女のすぼめられた小さな口は、両サイドに大きく吊り、不気味な笑みを形作っている。
この空間がモノクロ調なせいか、少女の全体像がどこかぼやけて見え、まるで霧の向こうを覗いている気分になる。
なのに――その長い髪に隠れた瞳は、隠れてもなおしっかりと俺を見据えているのがわかる。
「な、なあ」
今の俺にとって、少女に声を掛けることは必然だっただろう。すると――
ハ ヤ テ
「……え!?」
衝撃が走る。全身の毛が波を打って逆立つ。疑問がウィルスのように脳内を侵食する。
――なんで俺の名前を……。
見ず知らずの子供。話したこともなければ、ましてや出会ったこともない子供が、何故俺の名前を知っているのか。
俺が忘れているだけ? 違う、そんなはずはない。絶対に知らない。
疑問に呑まれ、わけもわからず俺はその場に立ち尽くした。たくさんの可能性を考えて、だけど一つもまともな答えは出て来ず……、
「さっきからなにをぼーっとしてるの? 颯」
「どわッ!」
突然肩に手を掛けられ、びくりと跳ね上がってしまった。見れば、不思議そうな顔をした雫が俺を見つめており、その隣には怪訝な顔の鞍馬が立っていた。
「様子おかしかったから信号渡って来ちゃったよ。大丈夫?」
珍獣でも見るかのように目をすがめる雫に、俺は説明せんと女の子を指差した。
「あ、いや、ほらあの子。あの子が俺の名前を呼んだから……あ、あれ?」
そこに女の子はいなかった。
いつの間にか、止まっていた音も、空気も、世界も息を吹き返していた。いなくなっていた車も人の足も褪せていた色も、すべてが元の知っている景色に戻っていた。
「誰もいないけど……」
鞍馬が雫と顔を合わせ、示し合わせたかのように首を捻った。
「……あ、ああ悪い。ちょっと今日はハメを外し過ぎたみたいだ」
そんな生返事をしながら、俺は再度少女のいた方向を眺めた。
――なんだったんだ? 今の……。
帰宅後。皿を片手に母さんはにんまりと笑っていた。
「相変わらず仲がいいのね、あなたたち」
いつもの夜の変わらない食卓。四十インチのテレビからは中身のないドラマが流れている。
テーブルに着いた俺は、母さんの作ったカレーにスプーンを通した。向かい側で母さんが肘を突いて乗り出し、興味深げに俺の食べるさまを眺めている。カレーは少し辛めで具が大きく、隠し味にブラックチョコレートが入れられた母さん特製だ。
「颯ももう大学生になるのね。まったく、お母さんも感慨深いわ」
明日の式を前にわざとらしく目頭を押さえる母さん。
「わかんねえよ。もしかしたら明日世界が滅ぶかもしれない」
「また馬鹿なこと言って……まあ大丈夫よ、そんなことにはならないから」
「なんで?」
俺の問いに母さんはすこし考えて答えた。
「だって……明日は大安だもの」
「……さいで」
呆れ声で返したけれど、こういうことを平然と言ってのける母さんが俺は好きだった。
「ん? なにか言いたげね?」
「いや……別に。ところで――」
その後も俺と母さんは、ドラマの批評をしたり、互いの高校時代の面白エピソードなんかを話したり、他愛もないことで時間を潰した。
それがこの家の日常の風景だった。
そして、夜も更けた頃、
「ただいま」
玄関の開く音とともに親父が帰ってきた。母さんが慌てて席を立ち、リビングを去る。
「おかえりなさい。遅かったわね」
「ああ、悪い。部下が発注ミスをして、その回収に時間が掛かった」
二人の会話が響き、廊下を歩く音が次第に大きくなる。
「おかえり」
俺の言葉に、やや髭の伸びた岩っぽい顔が向いた。
「ただいま。颯、お前まだ起きてたのか? 明日は卒業式だろ? 早く寝ろ」
ずいぶんとお堅いことを言う人だ。
「まだ十時半だし。それに卒業式だからって早く寝る必要はねえよ」
「ん? ああ、まあそれもそうか」
親父は、四十歳を過ぎても妙にエネルギッシュな人だった。しかも、かなりアクティブな人間で、暇な日はジムでのトレーニングに余念がなく、見る限り少しもサラリーマンらしくない。軍人と言ったほうがそのガタイのいい見た目にも合っている。
「今晩はカレーでぇす」
黒革のカバンをしまいリビングに戻ってきた親父の前に、きらりと輝く銀のスプーンが置かれた。よそわれたカレーを目の前で眺めていると、俺ももう一杯食べたくなる。
「え、カレー?」
ところが、親父は宝石のようなごはん粒を前に、気まずそうに顔をしかめた。
「カレーか……カレー」
そして、ボソボソと申し訳なさそうに母さんに告げた。
「……昼に……食べた」
もし観客がいたら、あー、と落胆の声が上がっただろう。少なくとも俺は言いたかった。
「ふーん。あなた……私、今朝言いましたよね? 今晩はカレーだって……ねえ、颯」
「そ、そうですね……聞いてましたよ、俺は」
無機質だが、間違いなく腹に何かをこさえた母さんの笑顔に、俺は一瞬椅子を引き、たまらず口を割った。敬語になってしまったのは本能だろう。
そんな俺を、恨めしそうに見やる親父は鼻から大きく息を吸った。
「人は時に失敗を犯す。失敗を学ぶことで成功を得られるんだ。わかるか?」
真面目くさって言うそれは言い訳のつもりなのだろうか? して、そんなあからさまに聞き苦しい言い訳は、当然ながら母さんから有効打を取るに足らなかった。
「はいはい、それで? 他に言うことはないの?」
「申し訳ない」
「謝ってもメニューは変わりませんからあしからず」
「うむ……甘んじて受けよう」
とまあ、くだらないかもしれないが、こんなやりとりがウチでは日常茶飯事だった。
二人を見ていると、これほど仲のいい夫婦はいないだろうとさえ思うし、どれだけ家族に恵まれているのかを心底考えさせられてしまう。親父も母さんも時に厳しく、時に優しく俺の間違いを正してくれる。困った時は互いを助け合い、言うべき時ははっきりと意見する。かと言って紋切り型な家庭ではなく、おふざけだってお手の物。経済力だってあるし、近所の評判も上々。
なによりこの家には――笑いが絶えなかった。笑う門には福来たるとはよく言ったもので、我が家にはウソみたいに苦労も不安も見当たらなかった。まったく非の打ちどころがなかった。
――俺はこの家での生活に満足している。
食卓を離れ、ソファの上に横たわりながら俺はそんなことを考えていた。背もたれの向こうでは相変わらず二人の温かな談笑が聞こえていた。
波風もなく、穏やかで、退屈だけど――大切な時間。
俺がこの平坦な日常に絶望しない理由の一つ。
「……んぁ?」
そうして、どこからか歩み寄る睡魔が微笑んだ頃、ポケットが振動した。
携帯だ。
「誰だよ……」
まどろみかけた頭を起こし、ポケットから電話を取り出す。振動の長さからしてメールじゃないな。はたして、日付の変わるような時間に電話してくる無神経な奴は誰だろう、とせっつきやかましく鳴る電話にとある剣道女子を重ねていると、
「はあ」
ため息を一つ。案の定、ディスプレイには『雨宮雫』の文字が躍っていた。
「もしもーし」
『あ、あたし…………寝てた?』
雫はそのしつこい着信とは打って変わって大人しかった。
「んや、寝ようと思ってたところ」
正確には眠りに落ちかけていたところ、だが。
『ごめん』
「別に気にしてねえよ」
『……』
沈黙。妙にしおらしい雫の態度に背中が痒くなる。とはいえ、この状態になった彼女の考えていることなんて、片手で数えるくらいしかなかった。
「何が訊きたいんだ?」
だから俺は、彼女の打ちやすい球を放った。すると、沈黙はぴたりと止んだ。
『別に大したことじゃないのよ。ちょっと気になっただけだから』
「だから何が?」
『あ、あのね……あの、校門であたしを待ってくれてた時さ……何話してたのかなって』
――なんだ、そんなことか。
そそくさとリビングを抜け出した俺は、二階への階段を上がり、そのまま目前に迫った自室のドアを開ける。部屋に入り、キャスター付きの椅子を引く。
「別に……大学に入ったら会えなくなるな、とか。その程度だよ」
『本当に? それだけ?』
「他にも話した気がするけど……忘れた。くだらねえ話だよ」
もちろん鞍馬の想いは口にしない。当然だろう。あの話を雫にする権利は俺にはないのだから。それに――その必要も最初からない。
『あたしの話とかしなかったの?』
「雫の? なんで俺たちがお前の話するんだよ」
『……あんた、協力する気ないでしょ』
「俺に協力を求める時点で間違ってんだよ。俺がどうこうしなくても、お前らはなんとかなるって思ってる。それに話に盛り上がり過ぎて、うっかり口を滑らすかもしれないだろ? 雫が鞍馬を好きだって、さ」
つまり……そういうことだった。
鞍馬総一郎と雨宮雫は鈍感で、鈍ちんで――両想いな幼馴染だった。
『な、なッ! あんた! マジで言ってないわよねッ!』
「言わないために、雫の話は避けてんだよ」
『……何よ、それえー』
もー、と彼女がぶうたれる。それは携帯を通しノイズ混じりに俺の耳に届けられた。
『よーくわかった。颯が使えない男だってのはよくわかった』
「なんとかなる。そう思ってるから何もしないだけだ」
両想いの二人なのだから、余計なことをしてこじれても面倒だろう。自分たちの力で頑張ってほしいのが本音なんだ。
椅子の背もたれに大きく身体を預ける俺は、部屋のカーテンが開いたままなのに気付き、キャスターを転がした。
『あたしたちさ……』
丁度カーテンに手を掛けた時、雫がおもむろに話し始めた。
『ずっと一緒だよね。大学に行ったらそっちで手一杯とか、ならないよね。万が一、あたしとソウちゃんが付き合って、颯が居づらくなったりとか……ならないよね?』
それは普段の彼女にして不似合いな言葉だった。鞍馬も似たようなことを言っていたが、どうやらこの二人は息もぴったりらしい。
「心配いらねえよ。何があったって変わらない。俺たちはいつも一緒。離れた時のことなんて考えられねえよ」
『そう……だよね。そうだよね……』
噛みしめるように、心に刻むように、彼女は何度も呟いた。
『じゃ、じゃあさっ! あんたも彼女作りなさいよ! あんた顔は割といいんだからさ』
「へえへえ、そりゃどおも。彼女に関してはノーコメントで……というか、人の心配してる場合じゃないだろ。まずは自分の心配をしろ」
大きなお世話、とは言わないが、何が大事かを見失っちゃいけない。
『うん……ありがとう』
「ああ、お前はうるさいくらいがちょうどいいよ」
『はいはい、ありがとっ! んー、じゃあ何かあったらまた連絡するわ』
「次に電話寄越す時は、告った報告が聞きたいけどな」
『バーカ』
含み笑いのこもった声を残し、彼女は電話を切った。耳元でプープーと虚しくなる電子音が少し寂しかった。しばらく接続の絶たれた携帯を眺め、雫の言葉を反芻した。
――ずっと一緒だよね。
今日はこればっかりだ。
俺たちが離れ離れになるなんて考えたこともない。そりゃあ、大学に進学すれば多少疎遠になるかもしれないが、心配するほどのことじゃないだろ。ただ二人から、こうもタイムリーに同じことを訊かれてしまっては、そう思う気持ちも脆くなる。
――きっとなんとかなるよな? ありえないよな?
そう自問するけど、当然まともな答えなんて見つけようがなかった。
携帯を閉じ、ゆっくりと立ち上がった俺は、机の上に置いておいた紙片に気が付いた。
三人で撮ったプリクラがぽつんと一枚。思い出を繰り抜き、閉じ込めた一枚がそこにあった。
俺と鞍馬が肩を組んで、雫がその真ん中にいる。みんなピースサインで、満面の笑顔で。
これで何枚目になっただろう。
学校帰りにはたくさんのプリクラを撮った。高三で取ったプリクラの枚数は、体育祭だとか、文化祭だとか、行事のたびに撮っていたせいで、もはや数えることも億劫になるほどだ。
そして、三月十日卒業式イヴの今日も変わらず、いつものように笑顔を撮った。
寸分狂わぬ日常。歪みなく、ただ漫然と過ごしてきた世界。
俺の人生があまりに順風満帆に進むことに――進み過ぎることに疑問をもつことが何度もあった。世界がつまらないと嘆くことが何度もあった。
だけど、それでも不満はなかった。このプリクラに写る俺の笑顔に偽りはなかった。
だって、俺には――鞍馬と雫がいるんだから。
いくら金を積まれても、一生を棒に振ることになっても手放したくない存在が二人だ。
唯一無二、かけがえのない、胸を張って自慢できる存在が二人だった。
二人がいてくれれば、何も変わらなくたって、この運命を受け入れることが出来る。
二人がいてくれたから、諦めの言葉だって冗談を込めて口にする気概が出来た。
だから、俺は退屈だって受け入れることが出来た。
――だから。
まさかこの時撮影したプリクラが、俺たち三人を写した最後のプリクラになるなんて思いもしなかった。
それは翌日、高校生活最後を彩る卒業式に起こった。
この日が俺の――俺たちの運命を変えてしまった。
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