18 組曲の始まり

 目の前にあるのは一見して粥だ。木目が落ち着く皿の中でトロトロに溶け合い若干の粘りを示している。ぬらっと光っているのが妙に食欲をそそった。スプーンですくえば、程よい重さが口内へ訪れる瞬間への期待を高めてくれる。


 三口ほどで全て平らげた。

 歯に絡みつきながら広がる甘みを全力で享受する。スナハミバナの上に宿って育つ植物をすり潰したものらしいが、こうして口の中に入るとそんな背景などどうでもよくなってしまう。


「おかわりを」

「お姉さん、大丈夫かい? もう大人の男がぶっ倒れてもいい量だよ?」スペーディの家で料理を作ってくれているこのご婦人は、しかし呆れは薄く楽しそうだった。「まっ、こんな粉物でよければ余るほどあるからいいけどね。捨てるよりは食べてもらった方が飯も嬉しいだろうよ」


 飯の気持ちなど分かったことはないが、食べれるならそれに越したことはない。

 ここまでダメージを受けすぎたし、とにかく食べて休んで回復を早めたかった。

 テーブルの上にそっと置かれている、皿とお揃いのデザインのコップになみなみと注がれている白い液体はお酒だ。匂いは悪くない。私好みだ。そろそろ手をつけてもいい頃……。


「むっ……」


 意外だ。苦い。

 てっきりこちらも甘いかと思ったのだが、舌から喉にかけて震えを誘発するかのような苦さがある。しかし、喉の通りそのものは悪くはないな……。二度、三度、繰り返すとそれだけで上気してきた。途端に苦味はほんわりとしたものとなり、気づけばコップから最後の一滴が心惜しげに吸い取られていた。うまい。同じものを頼むのは少し危険かもしれない。お酒だけでガンガン進みそうだ。


「いけない、いけない……」


 気を取り直し、持ってきてもらったおかわりを再び平らげる。さらにもう一回。まだまだ必要だ。合間に乳臭く分厚い肉を挟みながら、私は酒を飲み、食べ、また飲み、飲んで、瓶が空っぽになったのでそっちもおかわりして、苦味に溺れて――


「大丈夫? 随分赤いよ?」

「おいしい……」


 もうちょっと飲もう。もうちょっと……。「おいしい」……もうちょっと。

「おいひい」なんだか身体がやけにゆっくりと動いている気がする。感覚もだ。酒の成分さえ舌の上で読み取れそう。「おいひい……」


「ちょっと、大丈夫かい?」

「これ、何のお酒?」

「トットの乳から作った酒だよ。トットてのは、乾燥した地域で元気に走り回る四足の動物で――」

「おいひい……」


 ラクダみたいなものか……。

 なんだか、さっきよりずっとゆっくりしてきたな。


 出される食べ物が全部おいしく感じる。一噛みするごとに私も溶けていくような、不思議な感覚だ。だいぶ酔ってきたのかな。ストレートに味が奥底まで通り抜けていく。息を吐くのさえ勿体無く思える。味を逃がしたくない。

 いや、違うな。味じゃないんだ。逃がしたくないのは文化の方だ。酒を造ってきた文化への感謝だ。こんな苦い「おいひい……」――ダメだ戻ってこい――「おいひい」通りが良くてついつい手が伸びてしまう依存性の高いものを――手遅れになるぞ!――「おいひい……」築き上げた酒文化に平身低頭を――


「ノーラ!? 大丈夫ですか!?」



 * * *



「いつか地球という星から人間が宇宙に出てきたら、このトット乳酒は出さないでやってくれ。地球人には効果絶大だ」

「弱い酒なんだがなぁ……」


 スペーディは解せぬといったていで空になった酒瓶を眺めていた。


「随分と飲んでいましたが、大丈夫ですか?」

「大丈夫。おいしかったから回復した」


 おとなしく、かために焼いてもらった例の粥のようなもの(モーツァといった)を油の回る赤いスープに浸して食べる。あまり濃くないから口の中がうるさくならない。


「さて、お姫様。今後について私からの提案が――」

「あの、ノーラ、私の提案からよろしいでしょうか?」

「何かあるの?」

「お爺様に会いに行きたいです」


 手が止まる。ポタリ、とモーツァから汁が垂れた。


「――行けば、こちらは自由に動くことができなくなるね。今は私が自由にお姫様を連れて歩ける。実は、これってけっこう優位に立っているっていうことなんだよ。それを失うのは得策とは言えないね」

「確かに、こちらの動きを王室に知られるということは、どこかから漏れ出る可能性があるということです。侯爵やヴァーナの件でそれは分かりました。ですが、会いに行かなければならないのです」


 少し前傾気味で本気の目だ。

 私はそっと、食べる手を休めた。


「ヴァーナが向こうにいる今、これまでのように動きが全て筒抜け、ということはないでしょう。ここからは互いに動きを予測することになるのでは?」

「そうなるだろうね。負けるつもりはないよ」

「ですから、裏をかくためにも、ここでお爺様に会いに行くべきかと。ノーラが手に入れた情報だけでどこまでいけるかは分かりませんが、戦うことはできるはずです」


 裏をかく。お姫様の考えには賛成だ。というより、私も王様に会いに行くことを考えていた。


 ここでお姫様と王様の再会を演出するのは、はっきり言ってマズイ。狙われているのがまとまって動くことになるし、王室側の動きをかえって制限してしまい、敵にとってはやりやすい状況に変わってしまう。ここはまず外から――そう、ボォン・シナーベ侯爵の家族あたりから接触を図って、情報を仕入れる。そっちのルートからバフィを暴き立てるというのが今できる精一杯だろう。


 しかし、そんなことは向こうも承知のはずだ。ヴァーナが離れた現状で、私が将軍ならここでとっとと王様を始末するなり閉じ込めるなりしてしまうだろう。そうすることで王室側は混乱、軍部は勢いを増し、お姫様も影響を受けて今の動きも無駄になる。病のダンピノアは問題にもならないだろう。そこから仕上げ、お姫様の確保へ全力を注ぐ――

 だから、王様に接触してお姫様を引き渡し、そこで軍部と正面衝突する。お姫様の証言と私が得た情報だけでどこまでできるか、という問題は残るが――それに関しては、ある手段を用いれば逆転は可能だ。


「私もお姫様と同じ考えだよ。王様に会いに行こうか」

「ありがとうございます、ノーラ」


 気が早いお姫様の前に人差し指を立てて静止する。

 まだ。

 これからだ。


「だけど、会いに行って話すことは再会の喜びと積もるものじゃないよ」背筋を伸ばし、強く戦うことを決めているお姫様と向き合う。更に戦ってもらおう――「お姫様、戦うと言ったよね? ただ真正面からぶつかるだけじゃ勝ち目は薄いし、奴らにこれまでの借りを全部返すこともできない。だから、お姫様、これから先は徹底的にバフィ将軍以下軍部首脳を完全に叩きのめす手を打ってもらおうと思うんだ。それはお姫様がやらなきゃならない。奴らを倒す力を手に入れなければならない」

「それは、物理的な手段ということではありませんよね?」

「そう。お姫様が持たなきゃいけないのは、その物理的手段を行使できる立場だよ」


 そこまで言えば、お姫様も私が何を望んでいるのかわかったらしく、グッと表情を引き締めた。尻込みしないのがいい。これはいける!


「つまり、ノーラ・スタンス、こういうことですか? 私が――」


 そこから先を言うのは少し躊躇いもあるが、既に喉まで出かかっているようだった。言うんだ、パニマ・エマ・ラーンズ!


「――王位につくと」


 ピリッと鋭い空気が貫く場の雰囲気に、お姫様は一言をもって一気にかき混ぜた。こればかりは私も興奮を禁じ得ない。


「そうだよ。君のお爺様に――王様に言うんだ。そこをどいて、私を座らせて、と」

「……私には、それが手段の一つであると思うことはできます。そして、それがもっとも強い一手であるということも。ですが、理由がまだ分かりません」

「そんなあなただから、私は嬉しいよ」スッと、姿勢を落とす。彼女が見下せるように。「バフィだって、本当は君を女王にしたいんだ。だけどそれは、全ての外堀を埋めた後だ。君のお爺様を排除し、お父様を無力化し、王家に連なる全てに線を引く。君を完全に孤立させたうえで摂政を立てれば、完成だ。そうなる前に、奴らがジルバ国王に手出しできないほどの一手を打つ必要がある。その一手こそが、パニマ・エマ・ラーンズ女王の誕生なんだよ」


 おかしな話だと思う。これは盛大な椅子取りゲームだ。座るタイミングで星の全てが変わってしまう。


「あれこれ段取りを踏む暇すら惜しい。今すぐにでもやってもらいたいぐらいだ。お姫様、この提案を飲んでみる?」


 すぐに頷いてくれるとは思っていない。案の定、お姫様の視線は泳いでいた。

 いずれそうなる可能性はあったのだ。しかし、事態はあまりにも急で、激しい戦いは避けられない。あまりにも重すぎるものを背負いながら軍部との戦いを勝ち抜けというのは、見方によってはひどすぎる話だ。

 だけど、これをやらなければ、きっとお姫様は後悔するだろう。


 私は今、この国の歴史が動く瞬間に関わっている。それらすべてに責任を持つのは、重荷を背負うのは、無理だ。

 だけど、この少女を後悔させないためなら、私はあらゆることをするだろうし、できるだろうと思う。


 お姫様のために、私は今、選択を迫る。

 究極ともいえる選択を。


「……ノーラ・スタンス」

「なに?」

「……」


 ――すー……はぁぁー――……すぅ……はぁ――


 お姫様は何度か深呼吸し、その緩やかなままの顔をこちらに向けた。

 棺から飛び出してピースをするような、のんびり構えた少女はそのままの顔で、言ったのだ。


「望むところです。よくぞ提案してくれました」


 互いにテーブルから手頃な杯を手に取り、差し出す。

 コツン。


「さぁ、始めよう。これからが本当の戦いだ。この国の行く末を決める曲が流れ出したのだ」


 始まりの音は、既に決めてある。

 私たちはスペーディたちに今後の作戦を話し、砂漠をあとにすることにした。


 ごう、とサラの起動音。出発の鐘の音はフォース・ホールの動く音だ。

 始まりだ。最後の一小節にめでたしめでたしを刻むために、組曲は奏でられた!


「しかし、真っ直ぐに向かうのですか? また追われるのでは?」

「追われてもいいよ。逃げ切るから」


 力強く笑いながら、私は髪を整える。再び一つ結び。金のヘアカフス。よし、可愛い!

 モニターに映る赤毛。ヴァーナのことを思ってしまう。

 彼女にはなんだか謎が残っている。おかしな点がいくつかあった。本当に、ただの敵か?

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