お迎えの出来る距離
――お迎え?
『宇宙は初めて? じゃあ、水のお迎えには気をつけてね』
黒髪に黒マスク。黒いつなぎ、黒いジャケット。確か手袋も黒だった。宙港で出会った黒づくめの青年はそこだけ素を見せているような綺麗な目を細め、人懐こい笑顔を見せた。
気をつけるようなもの? ヨセフは思う。
目の前に水が迫る。いや、迫るのは水ではない。水に向かっているのはヨセフの方だ。
おおよそ球形の綺麗な水だ。日頃から気にしている垂れ目に白人種の肌色を通り越して健康的とは言いがたい青白くさえ見える肌、ブロンドの落ち着かない癖っ毛が歪んだ球面に歪んで映る。水は表面張力で揺れながら中空に浮いている。
その水が迫り、いや、その水に迫り。
≪≪お迎え≫≫の意味を察する前に、ヨセフは顔を突っ込んだ。
『本当に? そう。さよならね』
別れは覚悟していた。もとより、巻き込めるようなものではなかった。就職も果たして借金もない愛した女ならなおさらだ。彼女のためにも連絡すら取るべきではない。
別れ際の彼女は涙を見せることもなく、そして振り返りもしなかった。
それが一月前。
スクロールする文字を追い、定型作業のようにコマンドを打ち込む。慣れすぎて少しを欲をかいて、少しばかりコマンドを変えた。
応答が『変わった』事に気付いたのは、彼女と分かれるもう一月前。
『立派な技術者になれ』
自動車整備工の父親を思い出すとき、父親はいつも力強く笑っている。
『お前は家族の誇りだよ』
働き者の母の笑顔は頬の機械油とセットだった。
『いってらっしゃい!』
悪戯盛りの妹は母親に首根っこを掴まれながら一時もじっとしていない。
ヨセフの中で、家族の記憶はそれ以上更新されることはない。きっと永久に。
僕の葬式は済んだだろうか。ヨセフは思う。
祖父がケーブルをいじると画面が明るくなり絵が動き出した。従兄弟たちは画面に釘付けになった。ヨセフは無骨なケーブルを辿ってみては興奮した。ソフトウェアよりハードウェアに心引かれた。あの頃も、今も。
祖父が笑っている。笑って手を伸ばしてくる。大きな手だ。大きく、温かい――。
顔をわしづかみにされた。ぐいぐいと顔全体が引っ張られる。
――祖父ちゃん!?
声に出そうとして出来なかった。
声の代わりに喉の奥から何かが出ていく。声とも言えない音が出た。
浮かんだ涙が離れていく。
祖父の代わりに目の前には、深淵が口を開けていた。
宇宙だ。ヨセフは思う。
愛した人、愛した家族、愛した祖父の姿の走馬灯の先は、原初の宙――。
そして、待望の空気が喉を通って肺の中へと雪崩れ込んだ。
「今のが、水のお迎えに失敗して、窒息しかけた間抜けへの対処だ」
昏い内側を覗かせながらノズルの蛇腹が漂っている。ぼんやりと『深淵』を見送ったヨセフの前をトイレットマークが通過していく。
女性声は辛辣で、一遍の温かみすら感じられない。腹を蹴られて、為す術もなくヨセフの身体は流されていく。
「お迎えってのはこうやるんだぜ、叔父さん」
袋から搾り出されたオレンジ色の液体は不安定な球へとまとまり宙を漂う。
ストローを咥えたレンという名の三日前からのヨセフの甥は、あくびが出るほどの速度で近づきストローを液体の球へと突っ込んだ。
涙目のヨセフへレンは挑戦的な顔を向ける。オレンジ色の液体はあっという間に吸われて消えた。お迎えとは、側に近寄り吸い上げること。地上の一地域の言葉だという。
「いいセンスだ」
褒めたはずの声すら氷のようだ。ヨセフは思う。壁のクッションに行き当たり、背中を丸めて何度も何度も空気を吸う。何度も何度も空気を吐く。呼吸する。
「無重力というのは、慣性が支配する世界だということだ」
顔を上げれば、怜悧な目をした教官を名乗るその女性は、ヨセフを蹴っただろう残滓も見せず、中空に見事に静止してる。
教官の目はレンを見、ヨセフを見、そしてもう一人、アリと名乗った中東系のまだ若い男を見る。三人を交互に言い聞かせるように見回していく。
「地球上では重力と慣性のバランスとなるものが、宇宙では慣性だけになる。慣れろ。そして、考えて動け」
教官は休憩を告げると無重力訓練室を出て行った。レンは流れるままに壁に取りつき少しばかり手足をばたつかせたりしたものの、ヨセフを面白そうに見下ろしている。アリもまた、おっかなびっくりと言った体ではあったが、ヨセフの元へと近づいて来た。
「お疲れ」
手を上げて、互いにタッチを交わすだろう口調だった。地球上でなら。うっかりタッチして反対側の壁にまで飛ばされたのは、つい小一時間ほど前の事だ。
アリは壁に手をつき、ようやく姿勢を保っている。
「ヨセフはスポーツは何かやってないのか?」
「eスポーツならやってたよ」
そうか、とアリは肩を竦める。ヨセフはそうさ、と大きく大きく息を吐く。
片側に大きく取られた窓の外でゆっくり地球が回っている。
足下のふわふわ感は頼りないことしきりだが、まがりなりにも上下があった。ヨセフは何度目かの大きな安堵の溜息を吐く。
ホテルと言うより、ユースホステルに近いだろうか。部屋には二段ベッドとロングソファが一台置かれ、申し訳程度のテーブルが一台備え付けられている。バス・トイレは共用で、冷蔵庫の類いはない。床が窓というのは少しばかり落ち着かないが、観光用としてはこんなものだろうという気もしないでも無い。
地球-月間ラグランジュポイントコロニー群を旅して回るバックパッカー向けの宿なのだろう。ヨセフはアタリをつける。つまり、そういう立場として振る舞えと、そういうことだ。
「ボク、ベッドの上の段ー!」
レンは低重力を生かして小さな荷物を投げ上げると、靴も脱がずに飛び乗った。アリがこちらを見るから、ヨセフは軽く頷いて息を吐いた。アリは下段、ヨセフはソファだ。
抱える程度の荷物を投げ置く。自分の場所に腰を落ち着け、思わず口から呻きが漏れた。
腕にはいくつも小さな火傷が生まれていた。脇腹や胸や背中には青あざが大きく浮かんでいるだろう。
火傷はスタンガン、青あざはコイルガンやら、もっと直接蹴られたり投げられたりの結果である。
「撃った感覚がないというのは不思議だな」
綺麗な共通語だと思う。見やった先でアリは掌を開いて閉じてを繰り返している。『研修』で使われたコイルガンの事だろう。
――無重力空間では、火薬式より電磁式を多く使う。反動がないからだ。
怜悧な教官の声と放電の音が嫌な記憶として蘇る。
「ガンシューティングの経験が?」
「地上で少しな」
アリはぼんやりと床を、つまり窓を眺めている。アリの顔に影が差し込み、光があたり、そしてまた影が過った。
窓の外には地球が見え、あっという間に宇宙を挟んで月面に至った。見ている間にまた昼と夜に二分されている地球の姿が見えてくる。
「地球ー!」
レンのはしゃいだ声が響く。
「叔父さん、凄いねー!」
「ヨセフでいい。もう血縁のフリは要らないだろ」
叔父と甥、そして知り合いの青年。肌の色と年齢だけで振り分けられた役割が出入国管理官に自然に映ったのかどうかは判らないが、訝しがられることはなかった。地上から宇宙エレベータで軌道駅へ二日かけて辿り着き、|ラグランジュポイント1(L1)コロニーにまでやってこられた。少なくとも偽造パスポートのできは悪くない。
ヨセフは荷物をあさる。偽造パスポートを底に沈め、愛用の汎用端末を引っ張り出した。
「じゃあヨセフ。ヨセフの国はどこ?」
見上げたレンはベッドから覗き込むように食い入るように窓を見ている。チラリと見やったヨセフは、見えないな、と小さく呟く。
「今見えているのはユーラシア大陸だ。僕はアメリカ。この真裏だ」
「ゆーらしあ」
「北を占めるロシア。三角形のインド、東の中国、西の地中海、南はインド洋」
ヨセフは思い出すまでも無く謳うように言う。手はリズムに合わせてキーを叩く。
「ボクがいたところ、どこだろ?」
「国は?」
「んと、サマルカンドの近く」
ヨセフは一瞬、手を止めた。チラリとレンを見上げる。コーカソイドの顔立ち、短い薄い色味の髪、細い首、シャツから覗く鎖骨のあたり、子供らしい胸元。そして再び何事も無かったかのようにキーを叩いていく。
「三角形の左上のあたりだな」
「え、どこ?」
「三角形がインド。海岸線に沿って西にパキスタン。その北がアフガニスタン。トルクメニスタン、そのさらに北だ」
アリの綺麗な共通語が後を引き継ぐ。窓を指し、教えてやっている気配がする。
感情を一度押し殺し、やり過ごした後のような抑揚だとヨセフは思う。
「ちっちゃいんだねぇ」
「小さくは無いが、大きい方では無いな」
「ちっちゃいんだ」
レンは呟くように言う。その声があまりにも寂しげで、ヨセフは最後のキーを景気よく叩いた。
「ちっちゃくてでっかい地球は30万キロの彼方さ。50cmの距離の美味いものでも食いに行こう。奢るよ」
異論反論は聞こえてこない。歓声が上がった。
新鮮なワインを手の中で揺らす。少々値は張るものの堪能できるとは露も思わず、ヨセフは舌鼓を打つ。レンはオレンジジュースではしゃいでいる。反応を見るに、甘いだけの濃縮還元ではないらしい。アリは良いのかと何度も念を押した茶で、一人で何やら頷いている。優雅に茶器を傾ける姿勢が、発音と同じく妙に綺麗だ。
「ヨセフはなんで……いや」
これだけの金を持ちながら? ヨセフは頭の中で言葉を継いだ。
「僕はeスポーツが得意なんだ。特にパルクールみたいなヤツがね。そこでちょっと小金を稼いだ。で、ご親睦をと思ったのさ」
アリは訝しげで、レンはサラダに夢中になっている。
街中を縦横無尽に駆け抜けるスポーツと一緒にされても判るまい。ヨセフは唇を片方だけ引き上げた。
「宇宙に出たのは……そうだなぁ。飛び降りた先にマフィアの車が有ったようなものかな」
カチャリと音がして、レンがステーキにフォークを突き立てている。ヨセフはナイフを取る。こうやるんだと見せてみる。レンはじっとヨセフの手元を見ている。そして恐る恐ると言った様子で真似し始めた。
アリは綺麗にフィッシュステーキを切り分けている。
「聞いても良いかな」
アリと目が合う。アリは瞬く。一度目を伏せ、ナイフを置いた。
「俺は世界を変えたいと思っている。この手で」
ヨセフはグラスを取り上げる。香を楽しみ、一口含む。
アリは続ける。
「大人たちは自分たちのことしか考えていない。逃げだした先の安全な土地で、子供に学業ばかりを与える。俺は同胞が虐げられ続けているのが許せなかった」
アリの視線はレンを捉える。レンは浅皿のスープを懸命にスプーンで掬っている。
ヨセフはまじまじとアリを見る。まだ幼さの残る目元、男になりきらない頬から首筋。若いなと、素直に思う。おそらく三十路を数えるヨセフが子供だと感じるほどには。
「アリ、君はニュースをいくつ見ている?」
「ニュース?」
きょとんとした目が向けられている。ヨセフは目を合わせず、格闘するレンを見守る。
「テレビだけかい? それとも大手のニュースサイト? 東側のプログラムは見ているかい?」
「え、いや」
「あーっ」
レンの悲鳴だった。滑った肉がソースをべったりつけたまま、シャツの上を転がり落ちた。
店員が慌てて寄ってくる。ヨセフはタオルを借りて、水気を拭きつつ、どんなのが良い、レンに問う。
「男の子のシャツか、動きやすいスポーツ用か。それとも、女の子向けにする? 替えなんか幾枚も持ってないだろ? 叔父さんが愛しい姪っ子に新しいシャツを買ってあげよう」
アリは目を丸くする。レンはまっすぐ見返した後、迷うように視線を泳がせ、泣き笑いのような
*
休憩を言い渡し、女性教官は訓練室を出て行った。
ヨセフは壁を蹴って物資の箱から水のパックをつかみ出す。パックを絞って水の球を浮かべると唇をすぼめてお迎えする。
アリは壁際に落ち着くとヨセフのサブ端末を引っ張り出した。濃い色の肌でも判るほど、目の下の隈は濃くなっている。
レンは元気よく壁を蹴りながら、地球を見て表情をなくした。壁へと到達したレンにオレンジジュースのパックを放れば、取り繕うような笑顔を見せた。
今日で三日。明日は短期旅行ビザの期限であり、つまり移動の日というわけだ。事前の地上での説明では、最低限の無重力訓練をした後でキャンプに向かうことになっていた。正式に組織に加わるのも、地球での名を捨てるのも、宣誓するのも、そのときだ。
「ヨセフは、どう思う?」
「何が?」
「コレは正しいのか? それとも、間違っているのか?」
アリの声には力が無い。さて、とヨセフは地球から視線を外す。
「判らない。僕は正しさを求めてここにいるわけじゃないからね」
火傷も、あちこちに出来た青痣も痛い。ヨセフには信条があるわけでも無い。逃げた先に宇宙があった。それだけだ。
「ただ」
言葉にして一時迷う。アリを見てため息と共に口を開いた。
「裕福な家の子供を引き入れて、資金源にする奴らがいるって話くらいは知ってるかな」
アリの表情が固まった。睨むように地球を見下ろす。拳に力が入っても、振り下ろす先を見つけられない。
「ヨセフが本当の叔父さんなら良かったなぁ」
ついと腕が引かれた。レンがその腕に抱きついている。動きやすい、少しばかり明るい色のシャツを挟んで、まだ硬い胸があたった。
「コップの水で溺れるような頼りない叔父さんでも?」
子供を誘拐し戦う術を教え込む連中がいることも、ヨセフは知っている。誘拐された子供を取り返すことの出来ない貧しい地域も珍しいものでは無い。そしてそういう地域では、女であることそのものがハンデとなることも、また。
レンの手をほどく。頭をそっと撫でてやる。
「頼りない叔父さんで良いよ」
くしゃりと顔をゆがめて、レンは笑った。
空気が動いたのは、そのときだった。
声が聞こえた。甲高い女の怒声。教官の声。ヨセフは思う。
三人、顔を見合わせた。腰を浮かせて壁を蹴ろうとしたところで、訓練室のドアが開いた。
壁を蹴るはずが、両手両足縫い付けられたように動かなかった。何が起きたのかを把握したのは、たっぷり十秒は後のことだ。
身体の上に荒網があった。身体の下には壁があった。低い呻きはアリのもの。甲高い毒突きはレンの声だ。
三人の方へミリタリー風の恰好が近付いてくる。四人だ。すっかり見慣れたコイルガンを抱え、真空にも耐えそうなマスクを被り、無重力中でも圧縮空気で自在に動き回っている。
プロだ、とヨセフは思う。もっとも、素人目に玄人とプロの見分けなどとても付かないが。
「登録名、ヨセフ・バーナード」
高圧的な声だった。とはいえ、ヨセフは身体を動かすことが得意ではない。
「あ、僕、です」
声を発したミリタリーは頷くでもなく顔の向きを僅かに変えた。
「登録名、アリ・ジャンマール」
「俺だ」
そしておそらくレンの方を向く。
「登録名、レンブラント・バーナード」
「ボク、です」
警察か、出入国管理局の関係か。登録名はもちろん偽名だ。軌道エレベータに乗り込むとき、軌道駅からL1コロニーへ移動するとき、そして入国するときに使用した『組織』に用意された名だ。書類偽造がバレたのか、それとも。
登録名を読み上げた一人は、小声で何かを通信している。一人は何やら頷くと、三人の方へと近寄ってきた。
「わたしたちは、あるテロ組織を監視している者です。乱暴をして申し訳ありません」
回りくどい言い方だとヨセフは思う。私設警備隊の類いだろうか。だとしたら、何故?
今のところ、ヨセフ達三人が侵しているのは、書類偽造だけのはずだ。ヨセフ個人であれば、『小金稼ぎ』の可能性も無いわけでは無かったが。公的機関以外が出てくる理由が思い当たらない。
近づいて来た一人が壁へと着く。荒網をゆっくり外していく。
隙をついて飛び出したレンをいとも簡単に押さえ込み、アリはそれを見て緩く緩く首を振った。ヨセフは元から逆らうなどとは考えていない。縄を外され、新たに出来た打ち身を摩り、ふと気付いた。
黒髪に黒マスク。黒いつなぎ、黒いジャケット。手袋も黒。ミリタリーの中にいると小柄に見える細身の青年。
入り口を潜り、振り返って何事か声を張る。声を張られて面倒くさそうに顔を出したのは、ヨセフよりも年上と思しき風采の上がらない
「なんでぇ、ガキ込み三人かよ」
「ワガママ言わないでよ!」
ミリタリー達が引いていく。レンを押さえ込む最後の一人も、黒い青年の合図一つで手を離した。
「手荒なまねしちゃってゴメンね。君たちに確認したいことがあって」
黒ずくめの青年は明るい声で話し始める。男は面倒くさそうに青年から少し離れた場所に止まった。
「君たちには三つ選択肢があるんだ」
青年は人差し指を立てる。
「このまま組織に合流する」
続けて中指を。
「一般人としてコロニーで暮らす」
そして、薬指を。
「保留する」
黒い青年は笑んでいる。子供を巻き込むのは好きじゃないし、無理矢理なのも僕はあんまり好きじゃないんだ。などと誰へともなく呟いている。
「残念だが、偽造パスポートで地球に帰してやる事はできねぇ。非合法組織に頼ったあんたらも無傷で帰れるとも思ってないだろうがね。でもまぁ、残っても悪いようにはしねぇよ。ホワイトカラーってワケには行かんが」
男の方が実に面倒くさそうに呟く。
ヨセフとアリとレンは、互いに顔を見合わせる。
ヨセフは逃げてきた身だ。アリは狭い視野での正義を信じてここまで来て、揺らいでいる。レンは帰れる場所もなく、行き先が良いものであるとも思えない。
「オレはジン、軌道上の掃除屋だ。万年人手不足でな。来てくれると助かる」
「僕はユニ。まだ若輩だけど、仕事柄あちこちに顔が利くんだ。僕の仕事も人手不足でね。地球の人に来てもらえると凄く助かる」
男は言い、青年は笑む。
「レンちゃん? 勉強したいなら、ジンの家に行くと良いよ。L2だから少し遠いけど」
「ぼーっとしたガキがいる。3歳だ。草いじりして、ついでに、遊び相手になってくれると助かるな」
三人は再び顔を見合わせる。
「ボ……あたし、」
最初に口を開いたのは、レンだった。
*
旅行にしては簡素な荷物を抱えて、アリはジンという男にどつかれるようにして去って行った。餞別に渡したサブ端末をやたらと大事に抱えていた。レンはしばらくヨセフとともにコロニー周回バスで過ごす。乗り込むときの人々の厭うような視線をヨセフは気付かなかったことにする。そのうち、ユニから説明されるだろう。
レンはバスの窓に張り付いている。L2からは地球は見えないのだと聞くと、母国が見えようが見えまいがお構いなしに焼き付けるように青い地球を見続けている。
「見えない方がいいかもって。でも、見えなくなっちゃうから」
ヨセフは頷くでもなくレンと並んで地球を見下ろす。アメリカ大陸は、夜のただ中を通過中だ。
「弟が産まれたんだ。本物の男の子。でも、うちにはお金が無いから」
そう、とヨセフは相づちを打つ。男の子であれば幸せだったか、裕福であれば幸せだったか。何が幸せかなど、ヨセフには判断出来ない。この先で辛いと思うことが少なければ良い。ただ、そう思う。
バスは月の軌道の進行方向に位置するL4を目指している。L4を経て月の裏側にあるL2へ向かい、L4とは反対方向に位置するL5へ戻る。L5が発着地なのだという。
保留ね。ヨセフは呟く。ソレは一体、何を意味するのか。
「ヨセフさん、レンちゃん、食事の支度、手伝ってくれる?」
マスクを取り手袋を外した青年・ユニは、人懐こいばかりの笑顔で二人を手招く。
「手伝う!」
「何すれば良い?」
なるようになるだろうし、なるようにしかならないものだ。お迎え出来る程度の運命しかどのみち手に入れることなど出来ないだろう。
ヨセフは一つ伸びをすると、地球に背を向け壁を蹴った。
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