スイートバレンタイン
数十項目にも及ぶ停留手続きを終えると、ユニはようやくブリッジと向かった。外套を整え、習慣のままにウェアラブルコンピュータの配線を確認すると手袋を着ける。最後に手袋の上からミスト状の消毒薬を噴霧した。
低重力の足場を蹴ってブリッジの反対側へと進んでいく。昨日ライフエンドを出たばかりの往路には気を回さなければならない客も居らず、その足は心なしか軽かった。
気密が確認されるとロックが解除される。人々の行き交う雑多な音と、鉄と油の入り交じった匂いが早速ユニの元へと届いた。
一歩踏み出す。ブリッジの不確かな足場とは違う、硬く重い床を蹴る。慣れた足取りで壁の手すりまでたどり着く。振り返り、貨物室へと向かう荷役へと会釈すると、ユニは停留所の出口――コロニーへの入り口へと足を向けた。
「ユニ、おつかれ!」
管理室の窓から見慣れた顔が覗いていた。ユニと同年代の最も若い入場管理員は、ひらひらと手を招くように振ってみせた。
「お疲れ様。何?」
首を傾げるユニへ管理員は良いから来いと更に手を振る。床を蹴って方向転換したユニへ、小さな箱を投げて寄越した。
「小包。留め置きでな」
「小包?」
郵便も宅配もライフエンドには来たがらない。定期的に訪れるコロニーでライフエンド行きの荷を受け取ることもあった。
「貨物に入れてくれれば良いのに」
「貨物になんか入れられるか。よく見てみろ」
管理員の顔にはニヤニヤ笑いが浮かんでいた。見てみろの言葉のままに、漂う小箱を掴み取る。
「僕宛?」
見慣れた耐重力・耐気圧箱ではなかった。掴めば壊れてしまいそうなほど華奢で小さい。綺麗な包装紙が巻かれていて。『to UNI』包装紙に書き込まれたカードには、見覚えの無い筆跡で確かにそう、書かれていた。
「今回、遅れただろ」
ニヤニヤと管理官は言葉を続ける。うん、と曖昧にユニは頷いた。バスが遅れることなど、良くあることだった。
「バレンタインのチョコだよ。しかも、地上からだ」
この果報者! ぽん、と入場口が空けられた。小包を抱えたまま、ユニは停留所の無骨な床を蹴る。広く取られゆっくりと回るバッファーゾーンの手すりを掴み、少しばかり大きくなった重力に一息つくと、改めて小箱を見下ろした。
「地上から?」
ユニにも見覚えのある企業名の入ったカードを引き抜く。カードの下方には、『From Bell』と小さくあった。
「楽しそうだったから」
妖精は光をまき散らしてユニの周囲を飛び回る。声は妖精の位置とは全く異なるところから、囁くように聞こえてきた。
「何が」
「バレンタインデーって習慣が」
「まぁ、楽しそうではあるけど」
ユニの知るバレンタインデーとは古い映画の中に出てくる習慣だった。地上の習慣を知る人から、チョコレートを送るのだと聞いたことがないわけでもない。
しかし、チョコレートは宇宙では嗜好品だった。カカオの栽培は難しく、収穫できたとして、チョコレートへ加工するにはまた手間がかかる。手間もコストも見合わない。
かといって、地上から上げるにもコストがかかった。必需品の荷の隙間にかろうじて乗る分だけが少数流通するのみだ。
包装紙に手を当てる。カッターでテープを丁寧に切りながら、大事に大事に開けていく。
「原料のカカオは熱帯で栽培されているの。豆はほとんどが輸出されて、現地の人の口に入ることはほとんどないわ」
チョコレート色の小箱が顔を覗かせる。休憩室のLED照明をうけ、穏やかな光沢を見せた。
「極端な輸出作物。搾取と言われるほどの、ね」
妖精が独り言のような囁きと共に箱の側へと舞い降りる。光の粒が、後を追う。
うん、とも、そうだね、とも、ユニは言葉を挟めない。……妖精も言葉を期待してるわけではないと、知っている。
「綺麗な箱ねぇ」
妖精が伸ばした手は箱の表面で折れて曲がった。3D映像は映像でしかない。
「初めて見た?」
「写真くらいは見たわ」
カメラの位置は変わらないのに、妖精はしげしげと眺めるように箱の周囲を飛び回る。
ユニは小さく息をついた。思わず笑みが浮かぶ。
「変わらないんじゃないの?」
「変わらないわね」
手袋を外す。テーブルへ触れないように気をつけながら、箱を開ける。摘まむくらいの珠が三つ、潰れもせずに並んでいた。白い小さな板状の衣を着けた珠。茶色い粉を纏った珠。表面をでこぼこで飾った珠。
白い衣の珠を摘まむ。指が触れたところからじわりじわりと溶け始めて、慌てて口へと放り混んだ。
「ねぇ、甘い?」
囁く声が聞こえてくる。光を振りまき、妖精が舞い踊る。
舌の上では甘さが柔らかく広がった。洋酒の香りが咽を通って抜けていく。
「甘いよ」
「おいしい?」
妖精が覗き込んでくる。人形の目が背後を透かしながら興味津々のアイパーツに変わっている。
「こんなお菓子初めてだよ」
二つ目はアーモンドだろうか。香ばしさが口いっぱいに広がって。やはり解けるように溶けきえた。
「ありがとう、ベル」
――ホワイトデー(お返し)は出来ないけれど。
妖精はふわりと舞った。少し離れて、ユニへと振り向く。
「どういたしまして」
妖精はにこりと笑む。
「といっても、ユニの口座を使わせてもらったのだけど」
精一杯の笑顔のパーツを貼り付けて。
「……え?」
ユニは三つ目のチョコレートを手に取った。
手に取るだけでじわりと溶ける。これもまた、高級そうなチョコレートだ。
そしてココは宇宙。価格は。輸送費は。
目をつぶり、ユニは最後の一粒を口の中へと放り込んだ。
「いつか」
妖精は囁く。スピーカーはユニの耳の直ぐ横にあった。
――まるで吐息を感じるほどの。
「直接キャンディーを返しに来てね」
ほろ苦いスイート味が口の中へと広がった。
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