第二話 物語の終わり

 正しい意味はともかくももう会えないと言うことは理解したのだろう。就学年齢に達していた孫は盛大に泣いてくれたし、その親である息子も目を腫らしていた。息子のパートナーが泣くことはなかったが少なくとも表面上は残念そうだったから、これ以上は贅沢と言える。

「さようなら」

 分厚いマスクをしたままでミリアン・ペネバーは一語一語を区切るように言い、愛しい家族に背を向けた。

 コロニー間バスの乗客以外、そこから先に踏み出すことは許されていない。いや、たとえ許されていたとしても、ミリアン自身が許さない。

 この道は一方通行の道だった。戻ってはいけない道だった。

 この道を行き来できるのは、物体ではない情報と生き物でないもの――死神くらいだ。

 ステップを蹴る。トランクと一緒にふわりと浮く。コロニーの軸線付近、回転を押さえたターミナルの低重力に飛ぶようにして進んでいく。

 目の前のエアロックにもなるはずの扉が音を立てて開いていく。おばあちゃん。孫の声に思わず目を伏せ、黒い影に瞬きしながら顔を上げる。

「ミリアン・ペネバーさん?」

 黒い作業着。黒いつなぎ。黒いマスクに黒手袋。顔を縁取る黒髪は切り忘れたように少し長く、目だけが、地球で見た空のように蒼い。

「ずいぶん若い死神さんですこと」

 そうですよ。ミリアンは淡く笑んで会釈する。笑みはマスクで見えなかっただろうけれど。

「若輩者で申し訳ありません」

「あら。かわいらしくて歓迎するわ」

『死神』が体をずらした隙間からミリアンはバスへと入り込む。ミリアンがすっかり入ってしまうと、背後から扉が閉まる音が聞こえた。

 さようなら。孫たちの声が聞こえなくなる。ターミナルに満ちていた雑音が消える。

 取って代わってどこかから空調の音が聞こえ出す。機械のノイズが辺りに満ちる。ミリアンの、押し殺しても漏れる嗚咽が。

 肩がそっと押された。長期旅行に愛用していた大きなトランクが引かれていく。

「ペネバーさんのコンパートメントは1号室です。通路の突き当たりです。トランクを入れておきますね」

『死神』はマスクを外していた。思っていたよりも可愛らしい未だ若い青年の顔が、ほんのり笑んで、何も気づかなかったと目を逸らした。

「ドアにバス内の案内図があります。落ち着いたらダイニングへどうぞ。僕は所用がありますので」

 黒い背中が飛ぶように去って行く。

「ありがとう」

 ミリアンはつぶやくとドアを、ドアの先にいるだろう家族を最後に一度振り返る。

 がくんと通路全体が揺れた。ミリアンは思わずドアに触れる。ドアに触れ。

 目を伏せ、深呼吸を繰り返し。今度こそ。

 しばらくやっかいになる部屋に向けて、床を蹴った。


 コロニーの管制とオートパイロットに任せた『死神』は二人きりのダイニングでユニと名乗った。

「マスクは外してしまって大丈夫ですよ」

 苦しいでしょう?

 青年はマスクを外し、手袋を外し、だいぶ身軽な格好になっていた。

 ミリアンはマスクに手を当てる。確かにマスクは苦しかった。飛散防止でも風邪予防でもないもっと分厚いものだった。けれど。

「私の事情は聞いていて?」

 病気が発覚して以来、人前で外すことはできなくなった。外すことができなくなってしまったから、ミリアンはこのバスに乗ることを選んだのだ。

 たとえ今は大丈夫だと言われていても、いつかは。いつかは明日かもしれないから、今日。準備をして、根回しをして、すべてを片付ける算段をつけてきた。

「もちろんです」

「なら」

「このバスの籍はライフ・エンドです」

 ミリアンは意味を図りかねて青年を見上げる。青年は微笑を浮かべたまま、給仕ロボットから湯気の上がるポットを受け取る。

「病を抱え、怪我に苦しみ、終わりを見てしまった人たちが、最期まで穏やかに過ごすための場所です」

 ポットから鮮やかな紅が注がれる。

「細菌もバクテリアも。時には、根絶宣言がされたはずのウィルスすら」

 青年はミリアンの反応を待つこともなく、独り言のように先を続ける。

「地球に降りた際に、感染してしまったと聞いています。ご家族や近親の人たち、コロニーに胞子を散らしてしまうことを警戒していらっしゃるのでしょう?」

 カップが置かれる。軟水で入れられたきれいな紅が、カップの中で揺れている。

「わかっているのなら」

「すでにその『真菌』はライフ・エンドにあるのですよ」

 青年は一層の笑みを深める。ミリアンの見開いた目をその笑みで受け止める。

「あなたよりもっと重篤な真菌肺炎の方が居たこともありました。そうでなくとも、皆残りを自分らしく過ごそうと選んでライフエンドに来るのです。あなたと同じように」

 だから。

「我慢など、要らないのですよ」

 手が伸びてくる。ミリアンの重く分厚いマスクをそっと取り去った。

 優しい風が頬に当たる。

 紅茶の香りが鼻をくすぐる。

「ここは、自分らしい、自分という物語の終わりを探す場所ですよ」

「物語の終わり」

 ミリアンはカップを手に取る。

 家族を諦められても諦めきれず、けれど、もぎ取られるようにして終ってきたそれを。そもそもの原因ともなったそれを、ミリアンは、思う。


 *


 ミリアンはコロニー生まれのコロニー育ちだった。地球にある空というものも海という水たまりも映像でしか知ることはなかった。

 それでも想像することはできた。

 空を旅する冒険を。海中を行く不思議の旅を。重力と無重力と、1Gの気圧と真空を、ものともせずに活躍するあの頃の自分が夢見たような少年少女の、物語を。

 描くことはできたから。

 描くことはできたけれど。

 物語を進めるために必要なその『いつか』は、ミリオンにとって必要な『あのとき』だった。

 出版社の、家族の反対を押し切って地球に降りた。

 抜けるほどの蒼い空を。深く黒く波打つ海を。どこまでも続く緑の大地を。生き物の気配あふれる地球という母なる星を。

 感動とともにコロニーへ戻ったミリオンは、不要な土産を胸の深くに抱えていた。

 その土地にしかいない、カビ。すなわち、真菌症を。


 そして、描き続けた物語は。

 出版社と編集者に説得されてAIライターへと譲渡した。

 人気のまま終わることなく、いつまでも続くのだろう。


 *


 ミリアンは地球へ降りたことについては後悔していなかった。

 症状が悪化したなら感染の危険が増し。清浄化が進んだコロニーでそれはパンデミックにもなりかねない。それでも。わがままの対価と諦めることができた。そう思い、自分を納得させてきた。

 ただ一つのことを除いては。

「図書室は、ありますか」

 青年は笑みのまま立ち上がった。

 ミリアンは紅茶のカップを抱えたままで青年を目で追った。

「あります。デジタルアーカイブはもちろん、本も」

 青年の笑みが、ほんの少しだけ。はにかみに変わった。

「あなたの本も」

「私の」

 ミリアンの描いた夢は本という形になった。絵本に児童書に、子供向けとされながら、大人にも人気があったと、編集からは聞いていた。

 ミリアンは子供に向けて書き続けた。あの頃の自分に宛てた手紙のように。

 本。

 もう一度、口の中で転がした。

「通信設備もそろっています。バスはもちろん、ライフ・エンドでも。生身でなければバーチャルミーティングなんかもできるんです。先方に設備があればですけど。打ち合わせとかそういうのももちろん。実際に顔を合わせるのと変わらない感じで。データのやりとりでしたら病気とかそういうのも関係ないです。実際僕は通信で高等教育まで終えました。だから」

 ミリアンは勢いに押されたように青年を見上げ。気づいた青年は動きを止め、そして。

 青年の頬は見る間に、赤く。

 ミリアンはつい、吹き出した。

「あ、いや、あの……!」

 ひとしきり笑った後で、ミリアンは立ち上がる。困ったように見返す青年へ、ミリアンは吹っ切れた笑みを返した。

「ありがとう」

「こっちです」

 青年についてミリアンは図書室へ向かう。

 終わることを、始めようと。


 *


 ライフ・エンドは終わりのためのコロニーだった。

 小さなコロニーにはターミナルケアの設備はなく、また、『余剰』な人員を養うことができるほど余裕のないコロニーもまた少なくなかった。

 病を得、老いを抱え、動けなくなり、長きの生を諦めた人々は、死に近しい場所で『安穏とした』生を選んだ。

 終わるための、生を選んだ。


 *


 物語の終わりを、描けなかったことだけがただ一つの心残りで。

 だから、ミリアンは心に決めた。

 発表するあてはなかったとしても、物語の終わりを。


 ありがとう。ミリアンは言葉を転がす。

 よろしくね。青年の背を追いながら、通路の手すりを、そっとなでた。

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