第三話 階段の向こう側

 バケツに水を汲み腰を上げる。川面に弾かれる光に目を留め顔を上げる。両岸に聳える土手の壁から猛烈な朝日が顔を覗かせ始めていて、ンバルは目を細め視線を落とす。

 バケツの中身は茶色く濁り、零れた光を反射している。乾季も終わろうとする頃ともなれば川は水量を減らし水も濁りが強くなる。水面までは遠くなり、自然に出来た階段をンバルの背丈を遥かに超えた岸辺まで登って行かなくてはならない。そして岸辺まで引いてきたタンクがいっぱいになるまで汲んで上がってを繰り返すのだ。

 日が出る遥か前に村を出て、日が昇りきった後に戻る。楽な作業ではなかったし、学校へ行くことすらもできなくなる。それでもやめられる作業ではもちろんなかった。今年も村の井戸は雨季まで持たずに枯れてしまった。母は末の弟を抱えて動けない、父は出稼ぎに出たまま帰らない。祖母は昨年悪くした足で動けずにいる。祖父は病を得てしまい三日ほど前から床にいる。村には病が流行っていて、村長も占いババも隣も向かいも誰かしらが熱を出し斑点を出して寝込んでいた。ンバルは最初の方で熱を出し、ようやく回復したばかりだった。雨季まではあと半月ほど。その半月を井戸水無しで暮らしていかなければならず。だからンバル以外に動けるものなど誰もなく頼れる大人もいなかった、ただそれだけのことだった。

 ンバルはバケツを下げて階段を登ってゆく。すっかり乾いた階段に、水濡れた足跡が残り、わずかに零れたしずくが染みを作ってゆく。ンバルは一歩一歩登ってゆく。階段の向こう側にあるいつも通りの今日を目指して足を出す。ンバルにはそれしか選択肢がない。

 たとえ階段の向こう側に待っているのが『いつも通り』でなかったとしても。


 *


 ちいさい男だとンバルは思う。のっぺりとした黄色い顔を真っ直ぐな黒髪が邪魔そうに縁取っている。形作られた笑みの形は胡散臭い。まるで父に仕事を持ってきた、もしくは今ンバルの後ろで大仰な手袋をしてマスクをしてンバルを汚いもののようにすら扱う白い人のようだと思う。

 小さい男は自らを指して『ユニ』と言ったようだった。名前か。思ったからンバルは手錠で繋がれた手を上げて自らを指し『ンバル』と答えた。

 男――ユニは『ンバル』と二三度繰り返す。ンバルを真正面から覗き込む。あぁ、乾季の風のない日の空の色だ、ンバルは思う。と。

 男は徐に着けていた真っ黒な手袋を外し始めた。片方だけすっかり外してしまうとその手でンバルの頭を癖の強い髪越しにそっと撫でて来た。

 ンバルは上目遣いに男を見上げた。撫でられる理由が解らなかった。ユニはもう一度笑みの形を作って見せた。そして静かに背を伸ばした。

 ユニの手は手袋を外したままでンバルの肩へ降りてくる。ンバルの肩を抱くようにして、少し大きめの声を上げた。

 ンバルの頭上でユニと背後といくつか言葉が往復する。ンバルには何を言っているのかすら解らなかったけれど。

 背後の声を虚勢を張った犬だと思った。ユニの声を猿の群れのボスだと思った。犬は力を持っているかもしれないが、猿は樹上で全く気にせずそれを見ている。そんなふうにさえ、思った。

 やがて声の往復は途絶え。ユニに肩を抱かれたまま、その両手に手錠をされたまま。ンバルは大きな乗り物に乗せられて、狭い部屋へと連れてこられた。

 窓はない。備え付けのベッドがある。小さな机に小さな棚がその脇に。ベッドは縛り付けるには心もとない細いベルトが落ちている。机は使い込まれているようだったが、白い照明を更に白く反射するばかりで暖かみなど感じられそうには思えなかった。

 ユニは何事かをどこかへ向けて話している。手は肩に置かれたままだ。

 どうなるんだろう。ンバルは手首に視線を落とす。手錠が手首で主張する。

 階段を登り続けてここまで来た。ここからこれから、どうすればいいのだろう……?

『聞こえていますか?』

 知っている言葉だった。ユニではない。ユニはニコニコ笑むだけだ。では、誰が、どこから。

『聞こえていますね。言葉が分かりますか?』

 ユニが何かを話したあとで、どこからともなくそう響いた。

「わかる。あなたは誰?」

『僕はユニです。勝手の変化をセットしました』

 勝手の変化。ンバルはあれかと思いつく。父親に仕事を持ってきた白い人の言葉を伝えてくた隣の村の若者のような。

「ねぇユニ、私はどうなるの」

『首に紐を着けます。手首の戒めは取れます』

 そう声が告げるとユニは幅が広めの紐を見せてきた。

 首。ンバルは喉元に手を当てる。首。

『私もつけたくないです。しかし、手首の戒めと交換です。あなたはエレベーターに黙って乗った。全員の約束です』

 ンバルは言葉に詰まる。階段を登り続けるために、こっそりトラックの荷台に乗った。荷台の荷物に紛れたまま、運良くここまで来てしまった。

 見つかったときはようやくと思った。階段の向こう側に行かれないのなら仕方がないと諦めた。だから暴れようとは思わなかった。

 ンバルは首から手を離す。差し出すように顎を上げて目を閉じる。

 少しだけ冷たい感触が首元を一周する。そして手首が自由になった。

『このバスの中ではあなたは自由です。しかし、外へは出られません』

 どこからか声が響く。ユニはンバルの目を見て、頷いた。

『あなたは空の村には入れない。病気を持っている。地面行きのエレベーターは乗る事を拒否した。しかし、ライフエンドは受け入れる』

 ライフエンドという言葉が何をさすのかンバルには解らなかった。解らなかったが。

 受け入れる、と、確かに聞こえた。

「私、いていいの?」

 あの日、階段の向こう側で、タンクを押して戻った村が燃やされているのを見た時から。形ばかりの笑顔を見せる頭の先から足の先やら手の先まで、すべてが白い人たちに、テントの村へ連れて行かれたあの時からずっと。まるで雨季が始まる頃だというのに川底でバケツをかかえているような。

 居心地の悪さと不安と、嫌な感じを抱えていた。

『あなたを歓迎します』

 ユニは左手の手袋も取り去った。右手の平を出してくるのはなぜだろうと一瞬だけ思ったけれど。

 ンバルの右手が優しく軽く握られる。ユニは青い目をなくすほどに微笑んだ。


 *


「生き残りなんて、報告になかった」

 ユニは自室で端末を繰る。ユニの周りをここぞとばかりに光の妖精が飛び回る。

 どこからともなく響く声は、先程のンバルという少女と会話したときのーものではなかった。甲高い幼い少女のような声だ。

 ユニは声へと曖昧に頷くと、手元の顛末に一つのニュースを表示させる。

『中央アフリカで未知の伝染病発生か』

「これだね」

 公的機関で把握しただけで死者は一〇〇人を超えた。発症後の死亡率は五〇パーセントを超えるという。快癒後の再発すらも報告があった。

 最初に確認された地域を消毒したとニュースは続く。消毒とは、すなわち。

「封じ込める必要があった」

 光の妖精は僅かに中空にとどまると言い訳がましく下を向く。

 ユニは静かに妖精を見る。笑顔はなく。静かに、静かに。

「お疲れ様、だったね」

 そして静かなままで微笑んで見せた。

「必要なことだったの」

 ユニはしっかりと頷いてみせる。

 迷うように僅かに光を彷徨わせた妖精は、光を強くし姿を消した。

「お疲れ様、ベル」

 ユニはが少女と握手を交わした手を広げて掲げ、寂しげに嗤うかのように目を閉じた。

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