草場に吹く風の行方:2
端末を手に入れてから、少しだけユニの生活は変わった。
導入光管が輝き始めるといつもの通りに目を覚ます。枕元に置いたままの端末へと目をやればベルは大抵既に起きていて、おはようとユニに笑いかける。
医者先生のあとをついて回るときは、端末を首から提げた。知らない人が驚くから動画は消してはいたが、マイクとカメラはそのままにした。鎮痛剤、消炎剤、鎮静剤、熱冷ましに催眠剤。モルヒネ、アスピリン、アセトアミノフェンに時には無水カフェイン。先生の使う薬品の名前と使い方はすべてベルが教えてくれた。
『さすが緩和ケア』
呆れたような感心したような諦めたようなため息のようなベルの呟きを、ユニは無感動に聞き流した。
ベルは農地の作業にも大いに興味を示した。巨大な虫を見つけるたび、きゃーきゃーと騒ぎ、つやつやトマトやとげとげキュウリをカメラの前へもって行けば、目を輝かせて見入っていた。カメラを落とし拾い上げようとしたときは、ともうちょっとだけと嘆願された。目の前にアリの行列があったのだと後で気付いた。
時間と共に濃淡を変える導入光管も、遥か頭上に見えるA、B地区にも。地区間窓から覗く、あっという間に流れていく地球も。
『初めて見たわ!』
ベルは画面の中で白い頬の紅色を濃くし、目を輝かせ、そしてユニへと微笑んだ。
二つ季分が回ったころ、ついにアランはベッドから動くことが出来なくなった。食が細くなり、もともと細かった手指は骨と皮だけになっていた。力も弱くなり、あんなに愛したトマトをその手に乗せることさえおぼつかない。
時折顔をしかめるから、ユニは習い覚えた痛み止めを差し出した。けれどやんわりと拒否された。
出来ることは、何もなかった。
「治らないのかしら」
部屋で二人きりになったとき、ポツリとベルは言った。
「治さないんだって」
ずっと以前、医者先生に聴いた言葉をユニは返した。
その翌日。アランは土の下へと埋められた。
アランは人一人分のサイズに掘られた穴に静かに横たえられて土をかけられ、B地区五十六区画三番と書かれたプレートで飾られた。アランの隣には昨日息を引き取った老婆が眠っており、逆側の隣にももう人が入れられている。
遠く、四十区画の辺りには、腐食を促すための散水機がローターの音を響かせながら飛び回り、見上げたA地区では頭の上の辺りで緑から茶色へ土地の色が変わっていた。
埋められてから数年。分解がすっかり進んだ土は生えた草とともに掘り起こされて砕かれて、均一な土質に整えられた後、殺菌処理が施されどこぞのコロニーへと出荷されていく。いつもC地区から見上げているそれが、このコロニーの主産業だった。
「なんで泣くの?」
ひときわ仲がよかったアランの最期だけ見届けさせてもらい、埋める作業の邪魔にならないようにと来た道を戻る。首から提げた端末の中では、ベルが先ほどからしきりに嗚咽をもらしている。
「ユニは、なん……で、なかない……の」
B地区を縦断する細い舗装路に出て、古びた自転車へ手をかける。押して歩き始めれば、きいきいと抗議のように音を立てた。
泣くことではないから。何故と問われても、ユニにはそうとしか言うことが出来ない。
毎日たくさんの人が来る。寿命が尽きる者、手の施しようがないと医者から見離された者、疫病による隔離患者、負傷により永くはないと診断された者。生きた人と同じくらい、それ以上に、物言わぬ骸も届く。
命あるものには緩和ケアがなされる。命尽きたものは速やかに埋められる。埋められた身体は土中で数年をかけて腐敗し、たんぱく質や、窒素やリン、硫黄、カルシウムなどに分解される。分解されきってしまえば、農業に適した栄養豊富な土になる。
ユニは自転車を押して歩く。ゆっくり歩けばベルにも見える。二人の目の前には既に土をかぶせられた土地が延々と広がり、遠くには草むらが見えている。草むらが近付くにつれ、蝶が舞い、ハエが飛び、蚊柱が立ち、トンボがよぎることが増えていく。水漏れを起こしたパイプの側には水たまりが出来、覗けばボウフラが漂っている。
そのすべてが日常だから。アランも、食堂のおばさんも、ジャッキーもンナバもみんなユニを置いて土の中へと還っていく。医者先生は季分毎の交代制、デイブンは月に一度訪れるだけ。
そう、泣かない理由があるとすれば。
「いつもだから」
会えなくなる事にいちいち泣いてなんていられない。たぶん、そういうことなのだ。
ユニ。端末からベルの声がする。けれど、後には続かなかった。
しばらく黙って歩き、ふと道端の草に気づいた。深く切れ込みが入ったユニの手のひらの半分ほどの大きさの葉。いつか図鑑で見たことがある。……ヨモギという名の草ではなかったか。
クサモチ、という食べ物があるといつかアランは言っていた。
「そうだなぁ」
ユニは背後を振り返る。穴を掘り、遺体を置き、土をかけ。忙しく立ち働く重機が見える。
「……さびしいとは思うかなぁ」
うまいんだぞ、と笑う顔はまだ鮮明に思い出せた。
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