6-22 浮遊要塞にて

 かすかに震える羽音。耳を澄ませなくては手繰たぐりよせることのできない振動が彼の知的好奇心を刺激する。


「女神の息吹を感じませんか? ねえ、キリヒト」

「僕はそんなにロマンチストじゃないし。そっちには興味ないから」


 すげなく拒絶されて、赤い短髪を炎のごとく逆立てた男は芝居がかった仕草でガックリと肩を落とした。二人がたたずむのは機械の胎内とも形容すべき計器や配線がいりくんだ窮屈な空間。薄暗い室内には赤い燐光が脈打つように明滅していて、煉獄の魔人ザザ・フェンリルの丸眼鏡と、フードを目深にかぶったキリヒトの口もとをまだらに染めあげていた。

 ザザは長い指先を伸ばして壁の配線の束をずらす。すると、滝のように覆いかぶさる灰色の銅線から美しい女の顔があらわれた。彼女のピンク色のふわふわした巻き毛がまわりの銅線にからみつき、ピンクの光の粒子がガラス繊維のような毛髪から銅線に移るたびに空間がわずかに震えて、かすかな羽音をたてている。

 ザザの両手はそのまま女の頬を撫で、首すじから鎖骨、再び配線を左右に押しのけて、陶磁器のように白い乳房をあらわにした。血管の道筋もない、なだらかな曲線を描く乳房の間には暗い空洞があいていて、本来なら心臓があるはずのその暗渠あんきょに収められた紺碧の宝玉が浜辺に打ちよせる小波さざなみのように明滅し、そのたびにピンク色の髪から光の粒が周囲の機械に拡散していくのである。


「先生、手つきがやらしい」

「女神のうつわですからね、丁重に扱わなくては。それに、これはもともと巨人ティターン族が遺した究極の人型ゴーレム。生身の人間と寸分違わぬ身体構造を有していますから性交も可能なのでしょう。女神が覚醒し、このゴーレムを核として受肉すれば、ぜひとも子をすことができるのかも実験してみたいですね。魔人となっても男性器が残存している私が相手をできれば簡単なのですが」


 酷薄な微笑を顔に貼りつけたまま、煉獄の魔人は人型ゴーレムの胸にあてた指先を動かして弾力のある乳房を揉みしだく。けれど、すぐに肩をすくめて、


「やはり、勃起しませんね。おそらく、魔人には性欲という概念が無いのでしょう。仮説としては、いまや『生殖システム』によって人間ノーマを含めた多くの生物は性交によって自分たちの特徴を交雑した個体を産みだすことができるようになりましたが、魔物は魔力によってのみ増殖する仕様のため性行為は必要ない、と女神アーカイヴに認識されている、ということでしょうか」


 指先で丸眼鏡を押しあげる。ザザ・フェンリルはニコリともせず、真面目な表情のままキリヒトに提案した。


「ひょっとすると、微睡まどろみのなかにある女神の前で魔物同士が性行為をしてみせれば、女神の認識が更新されてシステムが書き換わるかもしれません。試しに私と性交してみますか? 魔力を血流の代替として操作すれば疑似的な勃起状態はつくれるとおもいますよ」


 フードは微動だにせず、キリヒトは紅い瞳をザザに向けることもなく吐き捨てた。

 

「冗談でも面白くないから」


 ザザはまたわざとらしく肩をすくめる。


「ただの好奇心ですよ。嫌なら無理強いはしません。女神をつかった交配実験の相手は私でなくとも、もっと都合の良い素体がいますしね」


 キリヒトは配線に埋もれた女の均整のとれた肢体を見つめながら独りごちる。


「僕は、自分が性の対象として見られているかも、と想像するだけで吐き気がするんだ。前の世界でもそうだった。女とか男とか、相手から異性として認識されたり、もっと言うと、桐仁美として扱われると、世界が僕を狭い人形の中に押しこめようとしている気がして、どうしようもなく気持ち悪かった。

 性欲みたいなものも感じたことがないし、家族も含めて、他人から向けられる視線に潜む感情が怖かった。だからかな、恐怖が裏返って、破壊衝動とか、殺人への興味とか、変な妄想ばかり湧いてきたのかもしれないけど」


 とつとつと語るキリヒトのフードをやさしく撫でて、ザザは無垢で残酷な笑みを浮かべた。


「十分健全だとおもいますよ。ひとはだれしも、本来の自分にバランスしようと思料するのです。キリヒトはキリヒトになりたかっただけ。前の世界では結局バランスできなくて、この世界に流されてきたのかもしれませんね」


 キリヒトがはにかむようにほほえむ。


「そうかも。いまは魔人になったおかけで落ち着いてるしね。性欲はやっぱり無いけど、食欲みたいな、魔力を奪いたいという渇望はあるかな。壊したいだけ壊して、殺したいだけ殺したら、きっとスッキリする。僕は純粋に、この世界をメチャクチャにして、僕の中の僕が、もうこんな酷いことはしたくない、こんな悲惨な場面は見たくない、と叫びだすのを聞きたいんだ」


 ザザは丸眼鏡の奥の紅い眼をほそめて、目の前の人型ゴーレムの手に触れた。


「我慢する必要はありません。いくらでも壊して、いくらでも殺していいのですよ。女神が私たちの手中にある限り、世界は何度でも創りなおせるのですから。純粋な好奇心のおもむくまま蹂躙しましょう」

「アザミでは消化不良だったけど、次はお腹いっぱい食い散らかすことができるんだよね? 先生」

「ええ、大丈夫ですよ。ダゴンの聖魔結晶もこうして女神と同化してきましたし、浮遊要塞の無限増殖炉の臨界実験も順調です。プタマラーザでシャフリヤールから譲り受けた巨人ティターン族の古書群が予想以上に役立ちました。やはり、この浮遊要塞バハムートを含めて、動力機関の設計において巨人ティターン族に匹敵しうる成果をのこした種族はいませんね。不完全な女神であっても、無限増殖炉の点火と軌道制御まではできるようになったのですから」

「あー、楽しみだな。ついに戦争かぁ。1万体くらいの魔物を使役できるかな」


 フードから覗く口もとを歪めて笑う。赤く脈打つ燐光が不吉な彩りをキリヒトの薄い唇に添えて、痩せて中世的な面ざしに禍々しい色気を加えていた。



 ◇



 コツン、コツン、と砂岩の回廊に響く足音。オレンジ色のランプの灯りが点々と揺れるだけのガランとした大広間で、ひとり呆けたように床にうずくまっていた男は、音を聞きつけて無意識のうちに曲刀を手もとに引き寄せている己に苦笑した。


「……いまさら惜しむ命など」


 肩を落としているから貧相に見えるものの、もともとの体格はかなり良い。着ている衣服も泥と垢にまみれているが、仕立ては上等、ボタンなどの装飾品も高価なものが使われていて、男の地位の高さをしのばせる。


「招かれたから来たのですが、お邪魔だったでしょうか。介錯が欲しいなら、お安くしておきますが」


 相手を小馬鹿にしたような物言い。重厚な扉を片手で軽々と押しあけながら、薄っぺらいニヤニヤ笑いを顔に貼りつけた男が広間にはいってきた。髪は短く、炎のように逆立っていて、丸眼鏡の奥の瞳は紅い。

 石床にうずくまっていた男がとっさに立ちあがり、やつれた顔に喜色を浮かべる。


「ザザ。来てくれたのか」

「龍脈通信なんて、海にメッセージボトルを投げこむような非効率で古典的な手法をとるバカの顔を見たくなって、暇でもないのに来てしまいました。つまらない用事ならすぐに帰りますから」


 ザザのあとに続いて灰色のフードをかぶった小柄な影が部屋にはいってきたことに気づいて、男が怪訝に眉をひそめる。


「弟子ですよ」

「煉獄の魔人のか」


 丸眼鏡を人差し指で押しあげて、ザザは左右非対称に唇を吊りあげた。


「案外、私も有名なのですね」

「いや、魔導院では魔人に堕ちた者の名は禁忌。しかも、君は学長をその手にかけているから、余計に教官たちの口は堅くなる。けれど、知ってのとおり私には口をなめらかにさせる人脈と財力があるからね」


 自嘲気味に乾いた笑い声をたてた。

 ザザは男に歩み寄ると、かたわらに寝かされた黒い物体を見つめる。


「それが私を呼びだした理由ということですか」


 とたんに男の顔が苦痛に歪み、立っていることもできずに床に崩れ落ちた。精神の均衡が壊れてしまったように、すすり泣きながら石床に額を打ちつける。


「ああ! ああ! 私には知恵も知識も足りなかった! 金や地位ではどうすることもできなかった! 彼女を守ることもできず、美しい姿を取りもどしてやることもできず! こんな、醜い姿のまま」


 半狂乱で拳を床にたたきつけ、皮膚が破れて血が飛び散った。


「うわ、汚いな」

「キリヒト、あなたは本当に情け容赦がないですね」

「だって、先生。こんな狂人、何の役に立つんだよ」


 ザザ・フェンリルは白衣をまとった長身をかがめると、肩を抱きながら男を立ちあがらせた。伸び放題の髭には涙と鼻水と泥がこびりつき、頭にまいたターバンからは異臭がただよっている。浅黒く、元は精悍であったであろう顔は目の下におおきな隈ができて、頬はこけ、病人のようにやつれていた。


「プタマラーザという街と周辺一帯を有する大貴族シャフリヤール・アスモデス。あなたが提案したのでしょう? 街を乗っとって戦争をはじめたい、と」

「そりゃ、僕の目指す戦略シミュレーションゲームは拠点と軍団を手に入れてからが本番だからね。でも、こいつで大丈夫?」

「いまはこんなですが、私のかつての同輩シャフリヤール・アスモデスは、魔導院ではゴーレム学の指導教官の地位に就き、同時に龍牙の騎士団では副団長に抜擢されるという文武両道の俊英。七大貴族の中では本物の選良でしたよ」


 ザザの誉め言葉も耳に入らない様子でシャフリヤールは目を充血させたまま「シャリエラ、シャリエラ」と呪文のように繰りかえしている。

 キリヒトはフードの奥の紅い瞳を細めて小汚い男を凝視していたが、次第に嫌悪感が募ったらしく、足でシャフリヤールの腹を蹴りつけた。ザザが手を離すと、よだれを垂れながしながら床に転げる。


「こらこら、お行儀が悪いですよ」

「それ、僕に言ってる? それともこの蛆虫みたいなの?」

「あなたは本当に口が悪いですね。使える道具には親切にしないと」


 ザザがしゃがみこむと、痛みで正気を取りもどしたシャフリヤールが腹をおさえながら苦しげに息を吐いた。血走った涙目でザザの姿をとらえて、両腕ですがりつく。


「お願いだ! ザザ・フェンリル! おまえが魔人でも、魔王軍でも、悪魔でもかまわない。私の技術ではどうにもならなかったんだ。彼女を生き返らせたい! それが無理ならせめて美しい身体にもどしてやりたい!」

「この炭化した死体をですか?」


 ザザの視線を追って、床に寝かせられた黒い遺骸に目をやり、シャフリヤールが絶叫した。黒い瞳孔があちこちに目まぐるしく動きまわり、


「シャリエラ! ああ、愚かな私を許してくれ! 私は知らなかったのだ! おまえが性悪な妻に、罠に嵌められていたことなど。私が魔王軍に殺されたと嘘を吹きこまれて。憔悴しきったところにクスリを飲まされ、淫らな快楽に突き落とされ。私は、私は信じていたのに! おまえの姿に我を忘れて! ああ!」


 砂埃の舞いたつ石床でのたうちまわる。

 ザザは感情のこもっていない笑顔のまま旧友の狂騒をながめてから、何事もなかったようにたずねた。


「私を呼び寄せた理由は、死霊魔術を教えてほしい、ということでしょうか。死をくつがえす奇跡など賢者の聖魔法でも難しいですからね。あるいは、聖王の時空魔法であれば不可能ではないかもしれませんが」


 力尽きて静かになっていたシャフリヤールがむくりと起きあがる。


「うわ、キモ」

「こら、キリヒト」


 シャフリヤールは薄汚れた髭面をザザに近づけた。充血した目だけが爛々と輝いている。


「彼女を取りもどせるのか?」

「炭化した死体を元にもどす死霊魔術というのは聞いたことがありません」


 光を喪う瞳。けれど、ザザは続けて、


「私では無理ですが、あなたならば、ひょっとすると可能かもしれませんよ」


 細く干からびた腕がザザの両肩を激しくつかんだ。


「その方法を教えてくれ!」

「死霊魔術を極めた魔物『リッチ』と同化するのです。リッチを封じた聖魔結晶を飲みこみ、魔力を注ぎこんで体内で活性化することにより魔物の知識を我がものとする禁術。もちろん、人間で無くなる危険性もあります」

「かまわない!」


 シャフリヤールはむせるように叫んだ。

 ザザが舌なめずりをする。


「旧友とはいえ、私も対価なく貴重な聖魔結晶を渡せませんよ?」

「彼女を取りもどせたら、私の持てるすべてをやる! プタマラーザの街もおまえにくれてやろう!」

「契約成立ですね」


 煉獄の魔人がどこからともなく取りだした拳大こぶしだいの灰褐色の石を、シャフリヤールはためらうことなく呑みこんだ。

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