1-6 狭間の世界
遠近感のない真っ白な空間を無数の魚が泳ぎまわっている。
色彩豊かな、尾びれも腹びれもやたらと長い、見知らぬ小さな魚たち。
「ここはどこだ?」
息苦しくはない。水の感触もない。
だが、魚は俺のまわりを勝手気ままに泳ぎまわり、パクパクと口を動かして、ひらりひらりと長いヒレをなびかせながら周遊している。
ここが水の中で無いのなら、
「幻覚か?」
近くの魚をつかまえようと腕を伸ばしかけて、違和感に手を止める。
いや、違う。
目を凝らしてよく見ると、境界線には凹凸があり、さらに顔を近づけてみると、肌だとおもえたものは微細な黄色の「字」の集合体であることがわかってきた。あわてて確認すると、手も足も、胴体も、全部。真っ裸の俺の身体すべてが極小の文字の重なりで組み上げられている。
周囲をすいすいと泳ぐ魚たちがパクパクと口を動かし、しきりについばんでいるものが小さな「字」であることにも気がついた。
俺の身体からこぼれ落ちる「字」を、鮮やかな色彩の魚たちがパクッとほおばり、「字」が魚の内側に流れこむにつれて魚の色に染まり、俺の「字」が魚の鱗の1枚へと変化する。
パク、パク、パク。
「俺が喰われている?」
無数の魚が漂う「字」を食べる。
痛みはない。いや、痛みどころか、触感もない。
「これは夢なのか」
やけに細部がはっきりとしていて、そのくせ意味不明でシュールな夢。
現実感の失せた俺が周囲をキョロキョロとみまわしていると、不意に耳もとで聞き慣れた声がささやいた。
『夢かもな』
俺の声だ。いつものように独り言が口をついて出たのかもしれない、と唇をさわる。けれど、この身体から発した声ではない証拠に、つづけて、
『夢は自分の記憶を整理する場所ともいわれる。
30周。十分すぎる時間だ。元の世界の記憶も経験も全部、とうに整理がついている。そろそろ頃合いだろう。テストプレイの時間は終わり、俺の知識と経験と人格を還元し、この世界をアップデートするときだ。
世界の血肉となり、創造主の一片としてこの世界の行く末を見届けよう。
じきに次代の勇者があらわれる。そして新しい物語がつむがれる』
自分の声が頭のなかで反響する。
カチッと部屋の電気を点けるように、俺はそこでようやく自分の置かれた状況を、ゲームのような世界に勇者として召喚された
突然わけのわからない世界に投げだされた混乱、異世界を冒険する喜びを知った充実、それが永遠に終わらないことに気づいた焦燥、そして、元の世界に帰ることだけに執心し絶望しかけた日々の記憶を。
「もう散々ゲームクリアはしただろ。
俺は元の世界に帰る」
『この世界は一方通行さ。はじめから帰る道などありはしない』
無情に告げる俺の声。
予感はあった。だが、こうもはっきりと断言されると、二の句が継げない。
『元の世界から遊離した魂だけが、生まれたばかりの世界に流れ着く。いや、幼い世界が自らを成長させるために喰らいやすい魂を選んでいるのかもしれないな。
まだ未熟な世界だ。いままでは4、5周もすれば、飽きて精神が磨滅し、わずかばかりの知識と経験を溶かして、世界に消化される者がほとんどだった。
旺盛な赤子の咀嚼に耐え抜き、30周も繰り返す精神力は異常だよ』
「筋金入りの社畜だったからな。忍耐力だけは鍛えられてる」
苦笑するような響きがあった。
『けれど、ここまでだ。もう次の勇者が流れ着いている頃合いだ。
30周を繰り返した俺は世界と深く結びつき、いままでの勇者よりも深奥から望むままに世界を変革する力が与えられるだろう。
そう、俺はこの世界の神の一柱となる』
永年勤続の功労賞か、あるいは定年の退職金代わりか。
けれど、故郷には帰れないと告げられているのだから、心は弾まない。
それよりも俺にはまだ成すべき夢がある。
「神になっても、人の姿で世界を駆けまわることはできるのだろうか」
ギリシア神話のゼウスのような生き方もありかもしれない。
しかし、頭に直接響く俺の声はつれない。
『無理だな。この世界の神とは全知無能だ。
直接に干渉するすべを持たず、ただ見ている。世界の有り様そのもの、法則をつくる以外の権能をもたない』
声が同じだから、自問自答しているような気分になる。
けれど、相手は俺じゃない。それこそ神のような何か。
「なら、断固として拒否する」
『悪いが、ここが引き際だ。
まもなく次代の勇者が誕生する。ふたりの勇者が並び立てば、いままでの勇者たちが連綿とつむいできた物語は破綻し、まだ幼い世界は混沌におちいるだろう。そうならないためにも、俺がこの世界の礎となり、万物を導く法則となる必要があるのさ』
声の反響が静まるとともに、ゆっくりとまわりを漂っていた魚たちが速度を上げ、群れをなして俺に食らいついてきた。ピラニアのように
だが、やはり痛みはない。頭がボーっとなって、湯船につかっているような不思議な心地よさが手足をしびれさせる。
俺という肉体と精神を構成していた「字」が散っていく。「字」を食べた魚が群れ集まり、ゆっくりと人の輪郭となり、魚がもっともっと集まって、やがて俺と瓜ふたつのもうひとりの俺をかたちづくっていく。
新しい俺のまぶたが開き、魚と同じ鮮やかな色彩の瞳が、あちこち穴だらけとなり、残骸となった俺に向けられた。
『消えゆく俺よ。30周もの長きにわたり勇者として君臨した俺よ。
さあ、世界に新たな法則を示せ。
望みを、新たな世界に映せ』
望み?
俺の望みとはなんだ?
思考は途切れ途切れで、走馬灯となるべき記憶も流れでた「字」とともに霧散している。
だが、問いかけられ、自分の奥底に沈殿していた想いが、サイダーの瓶にはりついた泡がシュワシュワと立ちのぼるように茫洋とした自我を浮かびあがらせた。
「……俺の望み、俺の夢はただひとつ」
『その夢を世界に映せ』
拡散していた「字」が急速に俺のもとに戻ってくる。切れ切れとなった体幹に赤い「字」の血潮が駆けめぐり、むきだしになった心臓が鼓動を高らかに打ち鳴らし、全身に気力がみなぎっていく。
俺は
「そうだ! 忘れるな!!
俺が30周も耐え忍び、絶望に屈することなく努力しつづけてきたのは、やり残した夢があるからだ!
俺の夢、そう、俺の望みとは、女の子とイチャイチャラブラブになること!
男女の営みという未踏の大地を体験することなく、その入り口にすら到達できずに消え去るなど、断じて、断じて、否だ!!」
あまりの勢いに、もうひとりの俺を構成する「字」がわずかに散らばったが、なにごともなかったかのようにふたたび
『ならば、その夢を新しい世界の法則に加えることとしよう。
形は消えさっても、俺は神の一柱となって世界にとどまりつづける。
さあ、もう時間だ。すべての知識と経験と人格を明け渡してもらおう』
両腕をひろげて、一歩、また一歩と真っ白な空間を歩いてくる。
大量の魚が互いの身体を行き来し、此岸から彼岸へと「字」を運ぶ。
ふたたび意識が混濁しはじめ、もうひとりの俺の顔が触れそうなほど近く、薄い唇をわずかにとがらせ、隙間から赤い舌をチロリとのぞかせているのが見えた。
まさか、この体勢は、と戦慄がはしる。
「それ以上、近寄るな !
ファーストキスが、男と、しかも自分となど耐えられるか!!」
強引に唇を奪おうとするもうひとりの俺を、右手を突きだして必死に拒絶する。
けれど無情にも俺の手は相手の胸に吸いこまれ、互いの境界がますます曖昧となってきた。
『俺が望むものは「愛」か。
相手をおもう気持ち、お互いの距離感によって態度がかわる。面白いじゃないか。「愛憎度システム」とでも名付けようか。
まさに世界を飛躍させる革新的な法則になるだろう。誇っていいぞ。30周分の執念がなければ、これほどまでに大規模なアップグレードはできなかったはずだ』
唇が近い。顔の周囲の「字」まで相手に取り込まれつつある。
「俺はあきらめない。人間のまま、自分のこの手で、可愛い女の子とイチャイチャラブラブな関係を築いてみせる!」
額が触れあった。
唇を避けるためにあごを引いた結果だが、自分の色鮮やかな瞳が間近にうつる。全身がぴったりと貼りついているような状態で、鏡に沈みこむように一体化が着々と進んでいく。
「そもそも異世界の番人といったら、女神だろ!」
俺はもうひとりの俺をにらみつけた。
世界が俺を取りこみつつあるということは、俺が世界を取りこみつつあるということでもある。相手がたとえ海で、俺が一滴の
ならば、一滴の俺が大海たる世界を変えることもできるはず。
妄想を爆発させろ。
全神経を注ぎこめば、もともと俺の一部だった「字」を動かし、もうひとりの俺の見た目を女神につくりかえることも不可能ではないはずだ。せめて最後に一矢報いて、俺の矜持を世界にみせつけてヤリたい。
「童貞の妄想力をなめるなよ!」
脳細胞が沸騰するほど、とびっきりの美女のイメージを脳裏に描く。
すると、触れあうもうひとりの俺の輪郭が急速にぼやけて、周囲に「字」がにじんできた。髪が長く伸び、黒から薄いピンクへ、ストレートからウェーブへと変貌する。
「そうだ! 女神になれ!」
背が縮み、かわりに胸と腰がひろがって、魅惑的な曲線が描かれる。もちろん、服までは想像の範囲外だから、一糸まとわぬ姿だ。
もはやもうひとりの俺とは呼べない美少女が、俺から身体を引きはがした。
『バカが! 血迷ったのか!
これでは俺を取りこんだことにならないだろうが!』
「同じものがひとつになっても革新など生まれない。
違うものがひとつになって、はじめて新しい命を生みだすことができるのだ」
『もう間に合わない。新しい周回がはじまってしまう。
このままでは世界が壊れるぞ!』
狂気の域に達した俺の妄想力は、「字」の集合体であるはずの美少女に完璧な肉体を与えていた。見た目には一片の
けれど、ここは
消え去る前に、と俺はもがく美少女に抱きつき、力のかぎり身体を密着させ、すべての隙間を埋めるように俺の「字」と相手の「字」を融けあわせた。
白い世界が鳴動し、すべてが凝縮されるように
於 其 嶋 天 降 坐 而 見 立 天 之 御 柱 見 立 八 尋 殿 於 是 問 其 妹 伊 邪 那 美 命 曰 汝 身 者 如 何 成 答 曰 吾 身 者 成 成 不 成 合 處 一 處 在 爾 伊 邪 那 岐 命 詔 我 身 者 成 成 而 成 餘 處 一 處 在 故 以 此 吾 身 成 餘 處 刺 塞 汝 身 不 成 合 處 而 以 爲 生 成 國 土 生 奈 何 伊 邪 那 美 命 答 曰 然 善 爾 伊 邪 那 岐 命 詔 然 者 吾 與 汝 行 廻 逢 是 天 之 御 柱 而 爲 美 斗 能 麻 具 波 比
拡散していく「字」と共に、俺という意識もまた引きのばされ、混濁のなかへと溶けこもうとしていた。
『もうどうなっても知らないからな』
すねたような、甘えたような声をかすかに耳にとどめながら。
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