樹海の目
「もしもし」
「はいはい。どちらさん」
公衆電話が立ち並ぶ中、二つの受話器を抱えて、老人は話をしています。
「私でございますよ。」
「ああ、私ですか。」
朝の光が細い白髪を柔らかに透かします。来客をもてなすような艶のある声色で老人は言うのです。
「なんでしょう?」
「いやね。あなたね。今日はお別れに来たのですよ。」
「そんな惜しいことを。」
薄い雲が春風で押され、石畳に映る薄墨の老人の影をなぞります。
「いや。でもね。野暮になってはお終いなのですよ。あなた。あたしは粋にさ。春の雪のようにさっと消えてしまいたいのよ。」
雲が音を立てて流れる最中、足元の苔がずりずりと躙られる音がします。そこに野鳥の甲高い啼き声が老人の目に生気を与えます。
苔?野鳥?
見てごらんなさい。周りは、延々と終わりのない樹海なのですよ。樹海の中にぽっかりと空いた目のような空間に我々は居るのです。以前は静養地として名だたる場所でしたから、洋館があちらこちらに立ち並んでいました。その名残でしょう。石畳が老人の足元の周囲に2間ほど、頭部の傷跡のように、色あせて、汗ばんだ地肌を見せております。そこに錆び付いて緑青を織り込めた銅製のテーブルがございます。様々な透かし細工が施された足には、豆のツルが絡んでは枯れ、絡んでは枯れ、死臭を帯びた肉となります。そんな頼りない腱が、旧式の鉄箱のような、2台の公衆電話を支えています。電話線?野暮なことは聞きなさんな。ほら、また話だしますよ。
「おまえさんが消えたら、あたしはどうなるんです?あたしはまだ、」
艶やかな声が地鳴りのよう低い声に調子代わりする最中、もう一つの声が言うのです。
「あんたは、好きにしなよ。あたしゃ、これ以上色が濁るのが怖いのさ。ならいっそのこと透明になろうと、消えるってそういうことですよ。これ以上、濁って醜さを世間に晒すくらいなら、いっそひと思いに、色も形も失ってしまえばいい。」
老人は片方の受話器を静かに置き。左目から涙を流します。奇妙なことに右目は釣りあがって、樹海の先を見つめているのです。もう片方の受話器を胸にいだきながら、老人は樹木のように、次第に集まってきた雲の下で、その葉をたたみます。
その日は夜まで、冷たい雨が樹海に降り注ぎました。
あくる日、電話機がひとつなくなっておりました。樹海は新しい木を抱き、その目を瞑りました。
小さな紙片 金澤 裕也 @yuyakanazawa
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