石山の臑には子供の時に鉄条網で怪我をした痕がある。


石山の臑には子供の時に鉄条網で怪我をした痕がある。


 それを隠す様に、いつも石山は長ズボンを履いていた。学校に行く度、目にしない日はなかった。その姿を見るのがいつも辛くて、無視とまではいかないが彼女を避ける様に過ごした。同じクラスではなかったから、まだましだったのかもしれないが……

 僕は、どうにかして早く石山とは関わらない人生を送りたくて違う中学へ進学した。ずっと石山を見ていると、毎日罪悪感でいっぱいだったから。長ズボンを履いた石山の姿は、いつもどんな時でも僕にため息と共に重く不快な鈍痛を与えてくるのだった。

 

 あれは小学校2年生。桜が散り、新緑が芽吹き始めた頃。僕と石山は一緒に下校するくらいの仲の良さはあった。名前も下の名前で、加奈ちゃんと呼んでいた。その日も一緒に下校していた。風が急に強くふき、僕の帽子が飛ばされてしまったのだ。運悪くそれは塀を越え、見えなくなってしまった。僕と加奈ちゃんは、塀の中に入れそうな場所を探して、四つん這いなってやっと入れそうな穴のような隙間を見つけた。先に僕が入って、後を追うように加奈ちゃんが入ってきた。

 そこの土地には誰も住んでいないであろう平屋と畑のような一区画に、猫除けなのか地面に鉄条網がぐるぐると張り巡らされていた。そして、罠みたいにその鉄条網で囲まれている真ん中に、僕の風に飛ばされた黄色い帽子が落ちていたのだ。早くこの場所から逃げたくて、急いで僕は鉄条網を跨いでその帽子を拾い上げた。加奈ちゃんも、僕の直ぐ後に鉄条網を跨ぎ、中に恐る恐る入ってきたところだった。もう用はないと帰ろうと僕の逸る気持ちが、まだここに留まろうとする加奈ちゃんを押してしまったのだ。その結果、彼女の臑には鉄条網で怪我した痕ができてしまったのだ。

 

 手をついて転んだ加奈ちゃんの右側の臑に、抉るように刺さり込んだ鉄条網から血が滲み出てきていた。と同時に、『だれだ!!』と言う大人の男の声がして僕は『誰か呼んでくる!!』と加奈ちゃんを置いて、振り返る事もせず急いで再び四つん這いになり塀をくぐり、一人走って家に帰ってしまったのだ。

 何が起きたのか、わからなくなって全て夢なんじゃないかと言い聞かせた。僕は靴を履いたまま、玄関で寝そべり考えた。家には、誰もいないし、誰になんて行ったらいいのかもわからなかった。自分自信が、ものすごく嫌になった。一人で再びあの場所に戻っても、誰か呼んでくると言った手前どうする事もできなかった。

 一時間もしないくらいに、4つ年上の兄が帰ってきたところで、どうにかこうにか一緒にあの空き地まで来た。再び塀をくぐり入ってみるも、そこには誰もいなかった。『加奈ちゃん?』って呼んでみたけど、隠れている様子もなさそうだった。塀の外の、兄ちゃんが『大丈夫か?』と大きな声で中にいる僕に呼びかけてきた。僕は、『大丈夫!!今、戻るから!!』といって、ものの10秒くらいでその場を後にしたのだ。一応、帰りに加奈ちゃん家に寄って呼び鈴を鳴らしてみたが、誰も出て来なかった。

 その日の夜は、不安であまりご飯も喉を通らず、まだ心と頭の中が混乱していた。でも、加奈ちゃんがもし家に戻ってなかったらきっと僕の家に、加奈ちゃんの安否を確認するような電話がかかってくるはずだし、もう21時になるのに電話がないと言う事は、家に帰ったんだと考え始めた。

 


桐野夏生著『柔らかな頬』より、最初の一行目のみ拝借



 

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