1-8
(真っ白な部屋。何かの馬鹿でかい筒に、中身は変な物体。何なの、この状況は)
逃げ道は既に無い。
と言うか、この島に訪れた段階で、既に塞がれている。
逃げようにも後戻りもできない。
鈴護は、離れ行く少女の後姿を目で追う事しかできなかった。
少女が件の培養器の前へと到達する。
こちらへは一度も振り返らない。
彼女は巨大な円柱の近くで立ち止まった。
一体、これから何が始まるのだろう。
恐怖と不安の極限に近づきつつある鈴護の精神状態は、今や崩壊寸前とも言えた。
「あ、あの。ちょっと良いかな?」
――もう、無理。耐えられない。
中心に立つ少女に、鈴護は堪らず声をかけた。
それなりの広さを持つ空間に、鈴護の不安げな声が小さく響く。
だが無情にも、眼前の少女は沈黙を貫いた。
動かない。
振り向かない。
距離的にも聞こえている筈の、鈴護の声に全く反応を見せない。
少女の不気味なまでの無反応さ。
そんな単純な何かが、得体の知れない恐怖を煽る。
「あ、あのっ!」
恐怖のあまりに腰が引け、鈴護はその場に崩れ落ちそうになるが、何とか踏みとどまった。
「ねえ!」
少女に声をかけ続ける。かすかな希望に縋るかの様に。
「聞こえているんでしょう? ねえってば!」
何度、呼びかけた事だろう。
「お願いだから、こっちを。こっちを、見てよ」
何度、少女にこちらへ振り向いて欲しいと思った事だろう。
「もう、もうやめてよ。何で? どうしてこんな」
永遠にも等しく感じられた時の中、応えを求め、鈴護は悲痛な声で嘆く。
「わけ、わからないよ。ねえ」
鈴護の声に涙が混じり始めたその時であった。
少女がおもむろに、鈴護の立つ方向へと顔を振り向かせる。
部屋と同じ無垢な瞳に、弱々しくなった鈴護の姿が映る。
少しの安堵。だが、それも一瞬の内に終焉を迎えた。
少女の動作はそれで終わる。
何も語らない。動かない。
無色の視線をこちらに向けるのみ。
少女の視線が何を訴えているのか、鈴護には理解できない。
「……ごめん。一つだけ、聞いてもいいかな」
無理矢理、恐怖を頭の隅に追いやる。
頬を伝う涙を拭いつつ、鈴護は少女に語りかけた。
「これからの事を私に説明する為に、この場所に連れて来てくれたんだよね?」
唯一、口だけが自身の成すべき事を覚えていた。
語りつつも、今や己が話す言葉の意味すら理解できていない。
全自動で言葉だけを紡いでいる様な、奇妙な感覚が鈴護の身体に広がる。
「この学校の、先生とか。その。責任者みたいな人は、いないの?」
沈黙。
依然状況は変わらず、平行線のままである。
状況に変化が見られないと思われた空間の中。
――少女は唐突に、そのか細い片腕を、ゆらりと上げる。
突然の動作。
余りにもゆったりとしたその動きに、鈴護は寒気にも似た何かを覚える。
すっ、と少女が腕を上げた先。
少女の小さな手。そして、伸ばされた人差し指が指し示す物。
それは――
他ならぬ、少女自身の顔であった。
「え?」
彼女の行動の意図がわからない。
己の顔を指差したまま、動作を止める少女。
恐怖で固まった鈴護が、その沈黙と対峙する。
二人の間に静寂が漂う。
いかほどの時間、そうしていただろうか。
先に動作を見せたのは、またしても少女の方であった。
自身の顔を指し示していた少女は片手を下ろす。
すると今度はもう片方の腕を前方へと向け、何もない空間上にかざす。
次の瞬間、不可思議な光景が鈴護の目に飛び込んできた。
少女がかざした腕の先。軽く伸ばされた手の先に、ぼうっと光が灯る。
やがて光は形を作り、四角いスクリーンの様な物を空間上に投影したのである。
(何、あれ。……映画とかであんなの見たことあるような)
現れたスクリーンの様な何かに視線を移した少女が、指で画面の操作を始める。
スッと指でスクリーン上の何かをスライドさせたり、カタカタとコンピューターのキーボードを打鍵するかの様に、何かを打ち込んでいた。
数刻が経過し、やがて明るい室内に、更に別の光源が出現する。
培養器前の空間上に、更に巨大なスクリーンが投影されたのだ。
(今度は、何。本当に映画の上映でも始まるの)
驚く気力さえも失っていた鈴護は、困惑の中で、視線をスクリーンへと向ける。
続いて少女が、更に手元のスクリーンを操作する。
彼女の指の動きに伴って、培養器前の巨大スクリーンに、何やら文字が表示され始めた。
見慣れた日本語。明朝体で表示されていく文章。
やがてスクリーンには、こんな一文が映し出された。
『学校管理者兼、生徒』と。
正直、意味が解らなかった。
文章の意味は理解できる。でもそれが何を指しているのか、それが理解できない。
手元のスクリーンから視線を外し、再び感情の無い瞳を鈴護に向ける少女。
彼女は、先程と変わらぬ動作でゆったりと腕を上げると、再び自分の顔を指差す。
それで何となく、合点がいった。
「もしかして貴方が、この学校の――管理、者?」
鈴護の問いかけには頷かない。
こちらに顔と身体を向けたままの少女。
また、沈黙が続くのだろうかと、鈴護が困り顔を浮かべた、その時。
「はい」
小さな声が、空間に響き渡った。
これまで沈黙を貫いていた少女。
今までの静寂を打ち破るかの様に彼女は言葉を発し、鈴護の問いに応じたのだ。
「そ、そうなんだ」
まさかの返答に、鈴護も意表を突かれる。
同時に、少女がようやく言葉を発してくれた事に、少しの安堵も覚えていた。
(あの子がここの、管理者? 生徒兼、管理者?)
だけど、疑問が消えた訳ではない。この小さな少女が、本当に学校なのかどうかも疑わしい、この場所の管理者だというのか。
少女の声が、鈴護の恐怖を、少しだけ和らげさせていた。
鈴護は入り口から歩を進め、少女が立つ部屋の中心へと足を近づける。
「ここって誰か、他に人はいないの? 先生や用務員。そう、大人の方とか」
当然の疑問。
こんな無垢な少女が、たった一人でこんな場所にいる筈がない。
「いません」
そんな鈴護の常識的な思考を打ち砕いたのは、少女の否定の言葉であった。
彼女が嘘を言っている様な雰囲気ではない。
そもそも、そんな嘘を吐く様なタイプとも思えない。
「じ、じゃあ、この学校には生徒は貴方だけで、他には誰もいない?」
「はい」
「そして貴方がこの学校の管理者。責任者も、貴方?」
「はい」
少女と鈴護の、簡素なやり取り。
肯定と否定だけの、簡単なコミュニケーション。
しかしそれは、この上なく『状況』が解りやすいやり取りでもあった。
(そんな、馬鹿な事って)
彼女と言葉を交わし、知り得た事。
少女の肯定は、ある一つの事実だけを言い表している。
ここまで来て、流石の鈴護も一つの結論に達した。
信じたくはない。認めたくはなかったが――。
「貴方はまさか、こんな場所に、たった一人で?」
思い切って、その『疑問』を少女にぶつけてみた。
まさか、流石にそんな事は無いだろうと、頭の片隅で自分の考えを否定する。
暫しの間が生まれる。
そして、彼女はそれまでと同じ様に――
「はい」
鈴護の問いかけに対し、『肯定』した。
少女の一言が、鈴護の疑問を真実へと導く。
そんな、馬鹿な話があるか。
少女には悪いが、その様な話を信じられる訳がない。
「何で貴方、こんな何も無い孤島の学校に一人で? そもそも貴方は一体?」
教師や用務員といった大人はいない。
この子はたった一人、この広大な空間の中で生活をしているのか。
そう考えると、何故か身体が熱くなった。
頭の中で何かがくすぶり、非常にもどかしい気分になる。
少女がじっと、鈴護を見つめてくる。
透き通る様に綺麗な、少女の瞳。
まるで熱が冷めたばかりの、生まれたての水晶玉の様だと感じた。
汚れも濁りも存在しない、まっさらな硝子細工。
「私は、宇宙人です」
そうして彼女は、言葉らしい言葉を口にしたのだ。
――風が、吹く。
一陣の涼風。
清々しさは無く、妙に寒気を感じさせる風である。
外界から隔離された、白き清浄なる世界。
そんな異常の只中で、感じる筈の無い空気の流れを、鈴護は感じていた。
「う、ちゅう、じん――?」
彼女が発した言葉の意味が、理解できない。
鈴護はオウム返しで、少女の言葉を繰り返す。
少女の顔を、思わず凝視してしまう。
鈴護の動揺を前にしても、少女は顔色一つ変えずに、鈴護の眼を見つめていた。
「ちょ、そんな。そんな、冗談で私をからかって」
異様に透き通った瞳。
透き通りすぎて、光すらも感じられる、深い翠色の視線。
決して力強くはない。だが、ひたすらに真っ直ぐで純粋な瞳。
少女の持つ、深緑の髪が揺れる。
それが、鈴護の精神を打ち砕いた。
少女の存在は、この白い空間――『無』と等しき世界の中で、妙に映えているのだ。
少女の言葉が、真実の色に染まっていく。
果たして、その言葉は嘘なのか、真なのか。
今となっては、そんな事実は大した事ではない。
何故ならば、鈴護の恐怖と混乱は、とっくの昔に臨界点を越えていたのだから。
(そんな。これ、やっぱりドッキリか何かなんでしょう?)
フラッと身体が揺れ、意識が遠のいて行く。
一気に沢山の『非現実』を詰め込んだ頭が、情報量に耐え切れずにパンクしてしまったのだろう。
鈴護が持つ、常識的思考の限界である。
薄れゆく意識の中、鈴護は少女を見据えた。
少女の美しい雪の肌が、別世界の物の様に思える。
(よりにもよって宇宙人って。何よ、それ――)
鈴護の意識は、そこで閉ざされてしまった。
少女の後方に鎮座する培養器が発する、幻惑的な光の色彩。
それが彼女が気を失う直前、最後に感じた物だった。
ここまでが、鈴護の人生を後に大きく変化させる事になる『遭遇』の全て。
『宇宙人』を名乗る少女との、初めての遭遇。
木下鈴護の新たな門出は、こうして始まったのである。
第二章へ続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます