1-6
か細く、聞き取るのもやっとな声量だった。
建物が音を反響する様な造りのせいだろう。その小さな声が、やけに大きな音に聞こえた様に感じる。
危うく、自分を『見失い』かけていた。『少女』の声のお陰で、鈴護は何とか平静を取り戻す。
眼を閉じて、深呼吸を一つ。二つ。三つ。
――よし、落ち着いた。
改めて、『少女』の姿を見据える。
鈴護よりも、かなり背丈の小さな少女だった。色素の濃い、黒髪がとても印象深い。見た目年齢的には、十代前半と言った所であろう。
無表情な顔で、『少女』は鈴護をじっと見上げている。
(お、女の子、だよね)
少女――『子供』の姿を視認した鈴護は、軽いパニック状態に陥っていた。
不味い。
いきなり子供が目の前に立っている状況は、非常に不味いと、鈴護は狼狽する。
あたふたと慌て、挙動不審な動きを見せる鈴護。
その様子を、変な顔一つせずに、無表情のまま見つめる少女。
(このままだと、また――)
鈴護は、己の内から迫り来るであろう『何か』に、警戒するのだが――
(あれ)
ふと、冷静さを取り戻す。
短い思考と現状把握の後、彼女はある『事実』に気が付いた。
自分が目の前の少女と『何事もなく』立ち会えていると言う事に。
(何とも、ない?)
鈴護が危惧する様な『異常』は、いつまで経っても起こる事は無かった。
(何で? この子を目の前にしても)
『普通』で、いられる。
こんな事は、鈴護自身も初めての経験だった。
何故、この少女を見ても、己を見失う事が無いのだろうかと、鈴護は疑問に思う。
いくら思考しても、理解が及ばない。今の所大丈夫だからと言っても、安心は出来ないのだ。いつ『異常』が起こるのかは解らないのだから、警戒しておいて損はない。
先程も、この『少女』の姿を遠目に確認しただけでも、鈴護は己を見失いかけていたのだから。
子供に関わるのはやはり危険だと、改めて鈴護は考える。自分の身よりも、子供に対して与える事になる『恐怖』を考える。
なるべくなら、必要以上に子供と接する事は避けたい。鈴護は用務員なのだ。業務に専念し、子供達と関わりを持たなければいいのだ。
そんな風に、自分に言い聞かせる。
「あ。えっと、私。今日からここで働く事になった用務員で、その」
気を取り直して、無表情な少女の顔を見る。なんとか浮かべる事のできた笑顔を向け、問いかける。実際は、少しだけ引きつった様な笑顔になっていたのだが。余裕の無い鈴護は、その事実に気付くことはなかった。
やっと、話が出来る人間が目の前に現れたのだ。今は、自分が行うべき事の確認が最優先だと、鈴護は考える。
鈴護の問いかけに、意表を突かれたのかどうかは解らない。少女は暫くの間ピクリとも動かず、同じ表情のままでじっと鈴護を見つめていた。
それから少しの間を置いて、「用務員」と一言だけ、自分の中で言葉の意味を反芻するかの様に、少女は言葉を発する。
まるで、初めて他人とコミュニケーションを交わしたかの様な、初々しさが感じられた。大げさかもしれないが、少女が発した一言からはそんな雰囲気が滲み出ていたのだ。
仏頂面の少女からは一切の感情が読み取れないが、同時に鈴護は一つの確信を得ていた。
(やっぱりこの子と向き合っても、私に『何も』起こらない)
目の前の少女、子供と向かい合っても、鈴護の身に、異変が訪れないと言う確かな事実。
三年前のあの日から子供と向き合う事で、必ずと言っても良い程に、鈴護には『異変』――『発作』とも呼べる現象が、起こる様になっていた。
しかし、理由は解らないが、この子に対しては、その『発作』が起きないらしい。そんな事は、今の今まで例外無く、只の一度として無かった。
どう言う事なのかは気になる。だが、今はそれを詮索している時では無い。
「ここまで来たのは良いんだけれど、どこに行けばいいのか解らなくて」
鈴護の言葉を受け止めたのかどうかは解らないが、再び少女に、少しの停滞が訪れる。少女の表情は非常に無色だ。何を考えているのか、全く判別ができない。果たして自分の言葉は届いているのだろうかと、鈴護は不安になる。
鈴護は少女の次の動作を待ち続ける。
「ねえ、貴方この学校の生徒さんだよね? もし良かったら、どこへ行けば良いのか教えてもらっても良いかな?」
ぎこちないながらも何とか笑顔を留め、恐る恐る鈴護は問いかける。
だが、その問に対する答えは返ってこない。
何だか、少し――いや、かなり不思議な感じ。
少女を眺めて、率直に感じた鈴護の感想がそれである。
外見は見目麗しいと言っても良いだろう。
ストレートな黒髪は、首の位置で不規則に切り揃えられていて、どこか子供っぽさを伺わせる。
天井に備わった照明の生み出す光が、少女の髪の一部を照らしている。照らされた場所が、不思議な事に、少しだけ深く暗い、ビリジアンの様な色合いに見える様な気がした。
外国の子なのだろうか、と疑問を持つが、緑色の髪を持つ人種なんて聞いた事がない。きっと髪を染めているんだ、地毛ではないのだろうと、鈴護は自己解釈する。
顔は、日本人と言うよりは、どちらかと言うと、テレビや映画で見る様な、西洋系の風貌だった。鈴護がぱっと見ただけでも、かなり顔立ちは整っている。将来はきっと、かなりの美人になるであろうと予想できる。
美少女と言う表現は、きっとこんな子の事を指すんだろうなあと、そんな事を鈴護は考えた。
少し全体的に肌が白すぎる様な気がするが、それ以外はどこにでもいる、ごく普通の人間の子供だった。
外見を見る限り、少女の何が不思議だと感じたのか鈴護は思いつかない。
いや、解った。
その顔を眺めていて、鈴護はその違和感の正体に気がつく。
目だ。
彼女の持つ、髪色と同じ深い緑色の瞳は、どこも見ていなかったのだ。
少女の視線は何に対しても向けられていない。当然、今こうして顔を合わせている鈴護にすらも。
そう、虚ろなのだ。
彼女の目の中には、何も写っていない。
鈴護の姿。当然、鈴護の瞳に映り込む、彼女自身の姿も。それどころか、この学校と呼ばれる施設の風景さえも。
目が見えないとかそういう事ではないだろう。きっとこの少女は、外界を、世界を見ようとしていない。
いや、そこまで確固たる事実は解らないが。
妙に人形的と言うか、機械的と言うか。まるで自分の意思では動いていないかの様な雰囲気が、少女からは伝わってくる。
沈黙を続ける目の前の少女。
会話は無く、無音の時間が虚しく過ぎ去る。
鈴護が少女の観察を行っていた数秒の後。今まで微動だにしなかった目の前の少女が突然動き出した。
「あっ。ちょ、ちょっと」
待って、と言おうとして手を伸ばした鈴護の腕は、虚しく空を切る。
少女は暫く歩いた後に無表情な顔をこちらに振り向かせると、まるで「ついて来い」とでも言うかの様に、じっとこちらの顔を見つめてくる。
(何だろう。こっちに来い、って事なのかな)
ここの責任者の所にでも、案内してくれるのだろうか。
何となく、付いて行くのには気が引けた。
だが、今は少女の小さな背中に縋るしか、道は無い。
鈴護は、少女の後を追う。
その先に、『未知との遭遇』が待っているとも知らずに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます