1-5

「えっと、失礼します」


 引き気味な足を、何とか前進させる。

 鈴護は覚悟を決め、未知の空間へと足を踏み入れた。

 外界から隔離された密閉空間。内部には、独特のこもった埃の臭いが充満して――と言った状況を想像していたのだが、屋内の空気は意外にも澄みきった物であった。


(なんだ。想像していたよりも、案外中は普通っぽい)


 内部は、圧倒される外見とは裏腹に、ありふれた造りの内装である。

 一面が白い壁。病院などでお馴染みの、リノリウムの床。何の変哲もない、日常の中でも触れている光景だ。もっとメカメカしい雰囲気を想像していたので、少し拍子抜けであった。


(内装まで尋常じゃあない様子だったら、パニックで精神的にどうにかなっていたかも)


 しかし、それだけでは鈴護の疑念は晴れない。


(本当に、ここが)


 学校と言うには、人の気配が感じられない空間。入り口の傍から永遠と続く廊下。

 途方の無い長さを持つそれには、どこか息苦しさを感じる。廊下の隅々には備品なども一切無く、無骨な同じ扉が等間隔で並んでいるだけ。扉の横には教室の名が記された札すらも見当たらない。

 学校と言うよりも、まるで何かの研究施設の様な雰囲気だと、そんな風に感じられる。


「す、すいませーん! 本日付けでこちらのお世話になります、木下と言う者ですがぁ!」


 漁船から降りてから、ここに至るまで圧倒されっぱなしだった。

 だが、そこで諦めては試合終了。何事も最初が肝心だ。

 鈴護は必要以上に大声で叫び、自分の存在を無音の空間の中へとアピールする。

 沈黙に包まれた空気は、鈴護の発した音を遮りもせず、崩す事なく反響させる。

 声を発して数秒――数分が経過する。


(お願い。誰か、誰か返事をしてよ)


 しかし、幾ら待てども鈴護が望む様な反応は、全く返ってこなかった。

 チクリ、チクリと。首筋のあたりを何かが刺す。自分が立っている場所を中心に、得体の知れない異常が、鈴護の眼前に広がっている。


(嘘、でしょう? 誰も、いないの?)


 意識も、身体も、何もかも――全てを吸い込んでしまいそうな虚無感。体の下から上へ、ぞわぞわとした感覚が移動し、全身を支配していく。

 沈黙が耳に痛い。異様な空間の、凍てついた空気が、鈴護の思考を不安と緊張で支配させる。


(どうしよう。私、もしかして何かの実験の披検体にでもされるんじゃ――)


 よくない想像が浮かんでも、それを否定してくれる人間すら、今の鈴護の傍にはいない。

 孤独。絶対的な、孤立。

 思考と身体に拡がる恐怖が、鈴護に非現実的な想像を抱かせる為の、十分な要因となる。


 ――ああ、そうだ。これは質の悪いドッキリか何かなんだ。芸能人でも何でもない、人の道を外れた主婦なんかを驚かせて、そんな事で数字が取れるのだろうか。

 そうそう。テレビの番組なら、この辺りで「ドッキリ大成功」なんてふざけた一文が描かれた札をスタッフが掲げて、それで茶の間は大笑い。


(ねえ、もういいでしょう? 私、十分怖いから。この辺りで、そろそろ誰かネタばらしを……)


 だが、当然の如く、現実はそんな愉快な出来レースにはならなかった。眼前に拡がる物は、変わらず、鈴護一人だけを包みこむ異質な空気。


(もう嫌だよ。こんなイタズラに付き合っていられないよ)


 限界点、臨界点。そんな物はとっくに凌駕、超越し、K点を超えていた。

 思えば、初めからおかしかったのだ。学校の用務員として雇われた筈なのに、待ち合わせ場所に待っていたのは謎の紳士とおんぼろ漁船。挙句の果てには、野生の代名詞とも言える無人島に、一人置き去りサヨウナラ。

 やはりこれは、誰かのいやらしいイタズラなのだ。だったら、自分もそんな物に付き合う事もない。逃げ出したって、誰も文句は言わないだろう。

 鈴護は、不気味な恐怖感に煽られ、この場から立ち去ろうと、体の向きを反転させる。

 その時だった。

 鈴護の視界の片隅で、何かが動いた様に見える。


(――あれは?)


 何者かの姿が、遥か前方の廊下の奥を、通り過ぎて行った様に見えた。

 確認できたのは、ほんの一瞬。しっかりと目視はできなかったが、あれは確かに人間の姿。

 人が、いる。自分以外の生物が、この空間には存在している。


(もしかして、ここの生徒さん?)


 何でも良い。誰でもいい。今は無性に他人と接したかった。この恐怖感から逃れる為に、誰かと話がしたかった。

 考える前に、行動しよう。そうすれば真実が解る。

 僅かな希望に望みを託し、鈴護はすぐさま歩を進めた。非日常からの開放。その一心が彼女の歩みを急かす。

 入り口から五十メートル程進み、廊下の奥に差し掛かる。T字路になっていた通路を曲がり、更に永久回廊を彷彿とさせる道が続いている事を認識する。

 その長さに絶望しかけたところで――鈴護は、遥か前方の先に『人間』の姿をハッキリと目視した。

 『子供』が一人、視線の先を歩いていたのだ。


「ま、待って!」


 動揺を隠しもせず、すがる様に、その背中へ懇願する。

 子供の背中。この場所が学校と言うからにはここの生徒なのだろうか。何にせよ、自分以外の人間の姿を、ようやく確認できた。

 ちゃんとこの場所には人がいる。そんな小さい事柄。だが、今の鈴護には、そんな些細な事実が、心底ありがたく感じられた。


(追いかければ、何か聞けるかもしれない)


 急ぎ足で追いかければ、追いつけるだろう。

 ここが一体どんな場所なのか。本当に学校なのか。問いかけて確認すれば全てが解る。

 鈴護は『子供』に近づこうと、足を動かす。

 動かそうと、した所で――


(あの子の。子、の?)


――唐突に、足を止めてしまっていた。


 何故だろうか。

 これ以上、足が動かない。

 おかしい。

 どうしたのだろう。


――動け。お願い、動いて。


 前を歩く背中がどんどん遠ざかり、小さくなっていく。

 鈴護は動けない。額には脂汗が浮かび、視界は震え、揺れていた。

 瞳孔が開きかけている。呼吸も荒い。心音が聞こえる程に動悸が激しい。

 足も震えている。動けない。抗えない何かが、鈴護の足を進ませない。

 たった『一歩』が、踏み出せない。


(子供。こども。コドモ)


 思考が、脳裏に浮かぶ。

『当たり前の事実』を、一つの現実を認識するのに、とても長い時間を費やす。


(子供が、いる)


 ああ、そうか。

 仕方がない。

 こうなるのも、当然だった。


(目の前に。私の、すぐ傍に)


 何故ならば。鈴護の目の前を歩いている『小さな背中』こそが、彼女の。


(ああ、――成程)


 彼女の『傷痕』の第一要因たる『存在』が、進むべき道の上に存在していたのだから。


 それが全て。

 それが進めない理由。

 木下鈴護にとって、最大の禁忌にして拭えない罪の記憶。

 彼女は、子供と触れ合う事はできない。

 常人にはなんて事の無い事なのだろうが、鈴護にとっては歩を留まらせるに、十分な要因だった。


(そうだよね、英ちゃん)


 ここに来て鈴護は、夫の英作が言っていた『学校なんだよ』と言う言葉の意味を、理解する。


(学校には、子供が、いるんだもんね)


 少し考えれば、直ぐに解る事。学校は『子供』が勉学を行う場所。言わば、学校は子供の巣窟なのだ。鈴護にとっては地獄にも等しい、魔境に等しい環境なのである。


(待って)


 何故そこで思い悩むのだろうと、思考を改めた。ここが学校ならば、子供がいるのは至極当然の事。


(そう。そうだよ。学校だもん。私ってば、相変わらず巡りが悪いんだから)


 別に子供が嫌いな訳ではない。ただ、少し怖いだけ。むしろ子供は大好きだった筈なのだ。

『あんな事』があったから、思い悩むのは仕方が無い。とは言え、鈴護はその過去と立ち向かう為に仕事をしようと決意した。

 それなのに配属早々、こんなネガティブな考え方ばかりをしていては、変わるものも変わらない。

 この学校で、用務員として働く。

 学校と言う場所では、嫌でも子供とコミュニケーションを取る事が必要になるだろう。

 そうだ。子供だなんて思ってしまうからいけないんだ。親としてではない。友達としてでも接する事はできるだろう?

 そもそも私には親になる資格は無いのだから、他人の子供にメイワクハ、カケラレナイ。


 コドモニ、イヤナオモイヲ、サセテハ、イケナイ。


 イヤナ――。


「誰」


 唐突に、狭い廊下に響いた声で、鈴護は現実に引き戻された。


 少女が、目の前に立っていた。

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