1-4

 そんなやりとりが数時間前にあり、現在に至る。

『少し』離れた筈の島に辿り着いた頃には、時刻は正午を回っていた。

 ここに来てようやく、鈴護は、自分がとんでもない状況に巻き込まれている事に気が付く。もう、後には戻れない場所に立っているのだ、と。

 それが、冒頭の現実逃避の理由である。


 漁船の男性に見捨てられ――もとい、見送られた鈴護は、呆然と波間に足を遊ばせながら、浜辺の上で佇んでいた。


(うん。私、用務員のお仕事の為に、学校で働く事になったんだよね)


 周囲に漂う日差しの熱とは真逆の、冷たい波の流れが、足を伝っていく。


(それが何の因果か、いきなりおんぼろの漁船に乗せられて。荒波に揺られて三回くらい吐きそうになって。て言うか、実際に一回は吐いちゃって。気付いたらこんな、汚れた都会育ちの人間が足を踏み入れるのも恐れ敬うくらい、自然豊かで、人の気配と風の音が等しく感じられる、無人の諸島で)


 幾らなんでも遅すぎる後悔を、胸中に抱く鈴護。

 波と風の音に揺られながら、彼女の脳裡に浮かぶ疑問が、一つ。


(そう言えば。食べる物とかは、どうすればいいんだろう) 


 この何処かズレた感覚こそが、木下鈴護の唯一無二の利点でもあった。


 取り敢えず、いつまでも潮風に晒されている訳にもいかない。出発前、初老の男性に指示された通り、貰っていた地図を頼りに、島を歩いてみる事にする。

 正直に言うと、まだ納得はできていなかったが、帰路を絶たれてはどうする事もできない。故に、仕方なく鈴護は歩を進めた。

 荷物の一つである、キャリーケースの重みを片手で感じつつ、鈴護は舗装もろくにされていない、自然のままの土道を踏み締める。


「私、夢でも見ているのかなあ」


 周りの状況と環境は、どうしてもそんな想いを増長させる為の調味料になっているのだが、どうやらこれは、現実に相違ないらしい。

 これが夢ならどんなに良かっただろうと嘆息する。

 日常の中でも突拍子も無い事柄は彼女の身に割と起こるものでもあるが、流石にここまで現実味が無い状況は今回が初であろう。

 何はともあれ、先ずは目的地の確認が必要。後を見るより前へ。

 今の鈴護に必要なのはそれだけだ。


 ――ここで後を振り返ったら、『三年前』の繰り返し。


 その強い想いが、鈴護に歩を進ませる活力を与えていた。


「よし。私、頑張る。頑張るよ、英ちゃん」


 自信の無い気合を一つ。この先、何が起こっても驚きはしないように、夫の名を呼び、己を鼓舞する。

 自然のままの道を黙々と踏みしめ、鈴護は目的の『学校』を捜し求めた。

 暫く歩いていると、この島は本当に日本なのかと疑問を抱き始める。見た事の無い、熱帯植物の様な草木が生い茂る一本道。市街からは、少しだけ離れた距離だと言われていた筈なのだが、この環境差はどうなのだろうか。

 実は本当に日本じゃないのかもと、苦笑いを一つ。まだまだ余裕を見せる鈴護ではあったが、やがて、道が少しずつ険しさを増してくる。それに伴い、足の動きも段々と鈍くなり、自身の体力の無さを、鈴護は痛感していた。

 歩き始めてから一時間は経過しただろうかと思い、時計を見ると、まだ三十分しか経っていない。

 彼女の表情からも次第に余裕は消え、呼吸も肩で行うほどに、体力も限界に近づいていた。


「が、学校の傍には、大きな一本杉があるって話だったけれど――」


 漁船に乗り込む前に渡された、唯一の情報源である紙と、景色を見比べてみる。


「もしかして。あれが、そうなのかな?」


 余りにも薄い紙切れが提示する、目的地の目印。一際大きな杉の木を、発見する。一応は肉眼で目視できるものの、距離的にはまだまだ先だろう。

 後もう少しと、自分に言い聞かせる。鈴護はまるで、老人の様にふらふらとした足取りで、ゆっくりと山道を進んだ。

 やがて、唐突に森の広がりが終わりを告げる。


「うわあ。なんだコレ。すっご」


 鈴護の視界の先に、一気に空間が拡がった。

 開いた空間の先を望んだ鈴護は、ミステリーサークルを想起する。

 木々が円周状に囲う、広大な平原。

 青々とした野生の草花が生い茂る、自然の宝庫。

 まっ平らで広大な平原は、まるで天国の様だなと、そんな感想を抱く。

 風が凪ぐ度にそよそよと音を響かせ、草原が波間の様に揺れていた。


 その中心。鈴護の眼前に、件の『目印』らしき大木が、その巨体を惜しげも無く主張していた。


「もう、ダメ。歩けない」


 漸く長い山道が終わりを告げた事に安堵し、鈴護は額に浮かんだ汗を拭う。


「流石に限界、よ。足、パンパンだし」


 体力にはそれなりに自信があったつもりなのだが、三年間のインドア生活が、その殆どを鈍らせてしまっていた。

 携帯電話をバッグから取り出し、時刻を確認する。刻は、午後一時を過ぎた頃。

 森とは違い、日差しを遮る木々がなくなった事で、直射日光が鈴護の体に降り注ぐ。

 麦わら帽子を被ってきたのは正解だった。少し大きめのTシャツに、デニムパンツと言うラフな格好も、結果的には幸いとなった。

 焼ける様な暑さに顔をしかめながらも、鈴護は何とか意識を保つ。

 学校はどこだろうかと、今にも倒れそうになりながら、周囲に視線を巡らせた。

 山中だと言うのにも関わらず、随分と広い敷地。

 その割に目につく物は無く、ひたすら草原が続いているが――そこまで感じた所で、鈴護の視覚が『何か』を認識した。

 目印の杉の、大木の下。

 そのすぐ側に、恐ろしい程に無骨で異様な姿の、この場には不釣合いな『人工物』が存在していたのだ。


「な、何なの、あれは?」


 それはまるで――野球なんかを行う球場。半球体のドーム。そう形容するのが一番近いだろう。

 けれど球場と呼ばれる様な場所と、目の前にそびえ立つ建築物の雰囲気は、全く違う。

 よく目を凝らして見れば、敷地の隅々には素人目でも見分けがつく、大きなセンサーの類や、アンテナと言った機器が備え付けられている。

 窓と言う物が存在しない外壁。外界との関わりを一切断ったかの様な、閉鎖的な雰囲気を醸し出す外観が、不気味さを際立たせている。


「まさか、これが。こんな、怪しい建物が?」


 恐る恐るドームに近づいてみる。距離が近づくにつれ、その建築物の大きさが目の当たりになっていく。

 一本杉の大きさも然る事ながら、謎のドームもまた、かなりの巨大さをもち、草原の中に鎮座していた。

 暫くその周囲を歩いてみて、何とか入り口らしき場所を見つける。

 そこに備えられていたのは、まるで耐核被害でも想定したかの様な、重厚な金属製の扉だった。

 周囲の壁も物凄い厚さなのだろう。外壁とその奥にある扉までの距離から、なんとなく想像する事ができた。

 場所は多分、ここで間違えていない。件の杉の木の存在が、何よりの証拠だ。


「嘘、でしょう? やだ、信じられない」


 やはり、このドームこそが彼女の目的地。木下鈴護の『働く場所』となる『学校』なのだろうか。


「これが、こんな建物が『学校』だって言うの?」


 自然のど真ん中に忽然と現れた、非現実的な世界。こんなフザけた場所が、本当に『学校』だと言うのか。


「と、とにかく。何だか怖いけれど、指定された場所がここなんだから」


 先程までの気合はどこへやら。恐る恐ると言った風に、鈴護は建物の分厚い扉に手をかける。

 しかし、彼女がいくら扉を押しても、金属板はビクともしない。


「ちょ、ええっ。こ、この扉、開かないッ!」


 自動ドアか何かなのだろうか、と鈴護は扉の前で頭を抱える。


「ど、どうやって開くの?」


 見たところ、センサーらしき物も周囲には見当たらない。

 足止め。このままでは中に入る事ができないと言う、分かり易い立ち往生であった。

 もしや、これはいわゆる『門前払い』と言う物なのではないだろうか。

 こんな場所に一人取り残された挙句、仕事先には辿り着けない。


「ここまで辿り着いたのに、始まる前から既に終わっていましたって言うオチ?」


 鈴護の中でも、不信感に続いて、不安と恐怖が滲み出始める。

 その時。唐突に『ガコン』と重々しく何かが外れる音が辺りに響いた。

 音に反応した鈴護の身体が、ビクンと電極を刺された蛙の様に飛び跳ねる。


(び、びっくりさせないでよ!)


 扉と地面の設置面がギシギシと音を上げながら、重い扉がゆっくりと開きだした。

 当然、鈴護は何もしていない。

 それまで微動だにしなかった分厚い扉が、突然、勝手に動き出したのだ。

 何らかの駆動音を上げつつ、開かれていく扉。


 どうやらこの扉は、上下に開閉するタイプの物だったらしい。

 いくら押せども開かない訳である。


(でも扉が開いたって事は、少なくとも歓迎はされているって考えても良いのかな)


 何にせよ、取り敢えずは良かった良かったと、安堵の吐息。

 となれば、鈴護が次に起こす行動は一つだけだった。

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