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 木下きのした鈴護りんごは主婦である。

 何の変哲も無い、まごう事なき一般人代表である。


 木の下の林檎、という何とも言えないネーミングは頂けないと、本人も常々悩まされていた。

 旧姓は『佐藤』だったのだが、結婚に伴い、夫の姓である『木下』に変わった為、何というかそれこそ地に落ちた様な想いである。

 両親に頂いた大切な名だと割り切って、少女から成人女性に成長し、生涯の伴侶と出会い、現在に至るまで、そのほがらかな名前と彼女なりに付き合ってはいた。しかし、よもやここに来て『木下』を名乗る事になろうとは、何たる因果であろうか。

 とは言え、夫をそんな事で責められる訳もなく、鈴護は今日まで胸の内にその気持ちを抑え込み続けている。


 名は体を現すと言う言葉が示す通り、性格はまるで、甘い果実の様に能天気でポジティブアクティブ。中身を開いて覗いてみると、やはりイメージと大差の無い内面を持っている。

 本人が、林檎のように甘酸っぱかったり、蜜がたっぷりだったり、無農薬栽培だったり、と言った事は定かではない。

 だが、こんな一見お気楽極楽な人生を歩んでそうな鈴護も、それなりの苦労を経験してきた人間の一人であった。


 今から三年前。

 当時、鈴護は己から産まれる筈だった生命を、誕生する前に失った。


 定期検診の中で、そんな悲報が彼女へ告げられたのは、結婚して間もなく、夫婦共に浮かれ上がっていた時期である。

 現実は、状況を理解する暇さえも与えてはくれなかった。知らぬ間に、鈴護は新しい命を抱く事も叶わず、失っていたのである。


 悲しむ間も無く、医師に言われるがままに事が進んだ。気が付いた時には、鈴護の中からは全てが抜け落ちていた。


――ああ。もうあのイノチは存在しないんだ。


 全てが終わり、カラッポになった身体の重さを感じ、鈴護は、漸くその事実を受け入れる事になる。


 当時、割り切れぬ思いを抱きながらも、彼女は夫の励ましもあり、何とか立ち直る事ができた。

 希望はまだある。生まれてこなかったあの子の為にも、私達は諦めずに命を紡いでいこう、と。


 だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。


『あの子』を見捨てる様な考えを持ったから、罰が下ったのだろうかと、後に鈴護は後悔の念に苛まれる事となる。


 ――気がつけば木下鈴護は、一生新しい生命を身に宿す事ができなくなっていた。


 退院後、鈴護の体に異変が起きたのは、件の出来事からしばらく経った頃だった。

 突然意識を失い倒れ、担ぎ込まれた病院で彼女に言い渡されたのは、そんな内容の一文。

 原因は不明。この様な事例は、現在でも殆ど確認されていないそうで、医者にも匙を投げられてしまった。

 世間の子供達の間では丁度夏休みが始まる、三年前の七月二十一日の出来事である。


 一人の女性が、生きる希望を含む、文字通りの『全て』を失った瞬間であった。


 それからの生活は、まったくもって酷い物であった。

 働く夫に負い目を感じながらも、鈴護は底知れぬ闇と絶望の中に身を置きながら、空虚な日常を過ごす。

 全てを失い、何をすればいいのかも解らず、果てには何も信じられなくなっていく。

 子供という単語に異常に反応し、それが理由で様々な問題を起こしたりもした。


 当時の鈴護は、人間と言う殻を被っただけの、空っぽな入れ物と化していたのだろう。


 そんな伴侶を支える為、彼女の夫は懸命に働く。傍で壊れゆく寸前の妻を何とか踏み止まらせ、温かく見守り続けた。

 そのお陰か、鈴護も徐々に、昔の自分を取り戻していくこととなる。


 完全に全ての傷が癒えた訳ではない。消えない物も確かにあった。

 彼女の中には子供と言う名の傷痕が残ったが、木下鈴護は、人間としての生を何とか取り戻したのである。



    ◇



 それから更に月日は流れ、運命の転機から三年近い月日が流れた。


「英ちゃん。私ね、仕事を始めてみようと思うの」


 夫、英作えいさくに対し、鈴護はそんな一言を述べる。


 彼女の中で、ある一つの決意が固まっていたのだ。


「ほ、本当かい?」


 真剣に、とにかく何かをして動き回りたい。そんな衝動が切っ掛けとなったのだろう。

 不満は無いが、変化も無い専業主婦の生活。夫一人に頼り切りな家計状況。環境のせいなのか、気がつけば暗い過去に浸る自分がいる。無意識の内に、塞ぎこんでしまっている生活が、鈴護には堪らなく嫌だった。

 あの子の事を忘れるわけにはいかないが、囚われ続けているのにも問題がある。

 仕事をする事で、少しでもその思考から逃れようとしたのだろう。


「もう決めたの。このままじゃあ私、絶対いけないと思うから」


 仕事を通じ、新しい何かが得られるかもしれない。その決意を、今まで苦労をかけてきた夫に述べる。


 英作は突然の妻からの言葉に、多少驚いた様子を見せる。


「――うん。良いんじゃあないかな」


 しかし彼は、反論する事も無く、快く鈴護の決意を受け入れてくれた。


「い、良いの?」

「鈴護が自分で決めた事なら、僕には反対する理由が無いよ」


 あっけなく了承された事で戸惑う鈴護に対し、優しく微笑む英作。

 英作もまた、鈴護が変わる事ができるのならばと、気を遣ってくれたのだろう。


「うん。ありがとう」


 大切な生涯の伴侶に、心からのお礼を述べる。

 この三年間の、感謝の気持ちと、謝罪の意味を込めて。


「英ちゃん。私、頑張るから」

「うん。応援しているよ」



    ◇



 翌日から、暴走列車「鈴護一〇〇系」による職探しが始まった。


 不景気、職業難と騒がれるこのご時世。職業安定所に通いつつもなかなか職には辿りつけない。

 もうこの際ならば何でも良いやと、職業安定所で手当たり次第に漁っていたところ、手繰り寄せた求人票。


――『学校』の住み込み用務員。衣食住付きで二ヶ月間。給与高額保証。


(用務員。これなら、私でもいけるかなあ)


 用務員と言う職に対するイメージは漠然としていた鈴護であったが、内から湧き上がる根拠のない自身に突き動かされる。


(住み込み。住み込みかあ。でも、給与高額だし)


 住み込みと言う言葉が何処か引っかかる。

 しかし、給与高額は魅力的――。


(二ヶ月だけって言うのもリハビリには良さそうだし、これにしてみようかな)


 最終的に、『高額』という甘美な文字列に釣られ、結局彼女は、勢いのままに職を選択してしまう。


 その求人票には、基本給の記載すらも無いと言うのに、だ。


 あからさまに怪しい求人票。鈴護は疑問を抱く事もなく、そのままカウンターへと足を運び、申し込み手続きへと進む。


(でも、学校なのに住み込みで用務員なんて、何だか不思議ね)


 不思議の一言では済まないと思われるのだが、そこで思い留まらないのが木下鈴護であった。



    ◇



 翌日、市内のオフィス街に立ち並ぶビルの一本で、面接が行われる。

『学校』の面接である筈なのに、何故面接の場所が勤め先の学校ではなく、全く関係の無さそうなビルなのか。

 ここで鈴護も、多少の疑問を胸中に抱く。

 だが、やはりそこは暴走列車。最終的には気を改め、彼女は面接に臨んでしまった。


 当然の如く、勢い任せで突っ走ってしまった面接は、大失敗な結果に終わってしまう。

 きっと落とされたなと、落胆しながら、彼女は電車に揺られて帰路についた。


 翌日、何故か家に届く採用通知。

 採用の喜びよりも、採用された事に対する驚きから目を点にする鈴護。


――おかしい。全てがスムーズに行き過ぎている。


 普通の人間ならば、そんな疑問を抱く所だろうが、彼女の場合は違った。

 暴走列車は、一度走り出したら止まらない。鈴護は仕事が決まった喜びから、他の事に目がいかなくなっていたのだ。


「ところでさ。気になったんだけど。これ、一体どこの仕事なんだい?」


 そんな暴走列車の運行を脱線させるかの様に、常識人の英作のツッコミが入る。


「え? どこのって」


「そんなの決まってるよ。ちゃんと求人票には学校って書いて――」


 そこまで思考して、流石に彼女の勢いも緊急停車した。


「いや、学校ってどこの学校なの」

「えっ。そ、それは」

「住み込みって言う位だから、まさか、県外の学校とか?」


 そんな当たり前の事実を指摘され、ふと状況を考え直してみる鈴護。

 棚からぼた餅の如く、手に納まった求人票。その内容の確認もろくにせず、給料高額という単語を目にしただけで、直ぐに履歴書を送ってしまった。


「えっと」


 口篭ってしまった。冷や汗が、額から流れ落ちる。血の気が引いていくのが解った。

鈴護の様子を見た英作が、首をかしげ、呆れ色に顔を染める。


「どこ、なのかな。この、学校」


――どうしよう。

 私、この仕事について何も、まったく解っていない。


 全ての事象が動き出してから、ようやく運行ダイヤを確認する「鈴護一〇〇系」であった。

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