第一章

1-1

 ――ああ。一体、何でこんな事になってしまったのだろう。


 後に、私の人生を大きく変化させる事となる『遭遇』の、少し前に感じていた事だった。


 だけど今思えば、この出会いはきっと――

 全てを失い、絶望しかけていた私に与えられた、最後の希望だったのかもしれない。


 今でも、あの場所の『風』の音、そして感触はハッキリと覚えている。

 そしてきっと、これからも忘れる事はない。


 そう。

 私が、『貴方』と共に在り続ける限り、永久に。




 第一章『孤島の宇宙人』



    ◇


小波さざなみの音える静謐せいひつの世界。手放した楽園に、思いを馳せるは……」


 白い砂浜。

 風にたゆたい、悠久の調べを奏でる、植物と言う名の楽器達。

 現代社会では到底お目にかかれぬ、カラッと雲ひとつ無い晴天のど真ん中。

 言うなれば現実世界から隔離かくりされた様な空間に、その不幸な女性は立っていた。


 結構な長さを持つ、彼女の薄い色素の髪。

 それが麦わら帽子の下で、空気の流れに抵抗することなく、思うまま、自由に、身を委ねている。


 都会の中では触れ合う事のできない、気が遠くなる大自然。

 にも関わらず、波に足を洗われながら、ぼーっと佇む女性。


 現在、現実逃避の真っ最中な彼女の名は、「木下きのした 鈴護りんご」と言う。


 彼女は今、己の置かれた状況を理解できずに困惑していた。

 口から出ている言葉の節々が、酷く詩的なのもその為だ。


 新たな『仕事』の為、とある『職場』に雇われたはずの自分。

 それが何故か、どことも知れぬ無人島の砂浜で、捨て子同然に放置されている。

 まるで一昔前の、やらせ染みたバラエティ番組。今時流行りもしない様な、『ドッキリ企画』に似た何かを彷彿とさせた。


 他人が聞いたら、苦笑いを浮かべつつ微妙な表情をされそうな光景。それが、現在彼女が置かれている状況である。


「ガハハハ。姉ちゃん。俺はそろそろ帰らせてもらうけんの」


 この場に存在する、もう一人の人間。鈴護を『この場所』までつれてきてくれた、おんぼろ漁船の操舵手。

 彼は、鈴護の茫然自失な様子を見ていても、眉一つ動かさない強い人だった。

 わざわざ擬音を声に出す辺り、そのポジティブさは計り知れない。

 いわゆる、海の男の生き様と言う物を、ひしひしと感じさせてくれる。


(眩しい。私には、貴方のポジティブさ加減が眩しすぎます)


 鈴護ヴィジョンには、操舵手の顔が「太陽バッチ来い。プロミネンスすら甘っちょろいわ」と言った具合に、激しく輝いて映っているのであった。

 実際は、彼の見事に禿げ上がった頭が太陽光を反射し、言うならば「擬似恒星形成現象」とでも呼べる現象が発生していただけなのだが。

 その辺りは捉え方の問題だろう。そう言う事にしておきたい。


 人の身に降りかかる現実と言う物は、過酷かつ、残酷な物であると、相場が決まっている。

 現代の非情な世間の荒波は、人々に対して、憂いに沈む暇さえも与えてはくれない。


「ああ、渡る世間は魑魅魍魎ちみもうりょうか百鬼夜行のぱらだいす。これが浮世の荒波か」


 今の言葉は、誰に対して発せられた物なのだろうか。それは鈴護自身にも解らない。

 波の音が、呟きにも等しい声量の、彼女の言葉を飲み込んでしまう。

 結局誰にも届かぬ内に、鈴護の現実逃避は、空の彼方へと消え去ってしまった。


(だって、だってだよ? 私、『用務員』として『学校』に雇われた筈だよね?)


 そう。

 木下鈴護は、本日この日より『学校の用務員』として、とある『学校』へと赴く予定であったのだ。


(それが何で、無人島?)


 無人島と学校と用務員。


 どこをどう繋いでも、全く結び付かないじゃあないか。


「ホワッツ!」


 余りにもおかしな組み合わせ。

 悪魔合体失敗。ワレハ外道スライムコンゴトモヨロシク状態と言っても過言では無い程に、今の状況は現実からかけ離れている。


「一体全体、どんな悪夢だ、これは!」


 夕日が昇る時刻でもないと言うのに、地平線に向かって叫んでみる。

 当然の如く、彼女の問いに対する答えは、どこからも与えられはしない。

 季節は、初夏の風吹く頃。その正午過ぎ。

 南方でのみ味わう事ができる、天から降り注ぐ灼熱の光。そして、大地から吹き上がる熱。上下からの『現実』が、遠慮無く鈴護の白肌を無慈悲に焼いていく。

 何となくで被ってきた、つばの広い麦わら帽子。それだけが、唯一の救い、支えであったと感じる程に。

 鈴護は非日常の只中にあって、これ以上ない程に、無情な現実を痛感させられていた。



「姉ちゃん。現実逃避もそこそこにせんと、仕事にならんぞー」


 漁船の上に立つ操舵手が、苦笑いを浮かべつつ、呆れ声で忠告してくる。


「目の前に広がるのが、現実以外の何者だと思うとん」


 もう何度目かも解らない自己嫌悪が、鈴護の心中に広がっていく。

 極限まで追い詰められた精神。自問自答すらも無意味な状況。

 退路は無く、進むべき道は、眼前に広がっている。

 舗装すらされていない、野性味溢れる、草木が無遠慮に、悠々と生い茂った、素晴らしき世界けものみちが。


「はい。そうですね。そう、ですよね」


「じゃあ、俺は帰るけんの。お勤め、がんばりぃや」


「……はい。どうも、ありがとうございます」


 るーるーるー、と前時代的な涙を流しながら、漁船の操舵手を見送る鈴護の後ろ姿が、実に切ない。

 エンジン音を轟かせ、海を裂きつつ、唯一の同行者が海岸線に消えていく。


 傍から見れば、男に拉致された女性が、無人島に放り出され、放置されている様な状況にしか見えなかった。


 と言うか、そのまんなな状況だった。


――とにもかくにもそんな感じで、一人の女性の新生活がスタートする。


 どうして彼女は、この様な状況に置かれる事になったのか。


 これから、順を追って説明していこう。


 それは、鈴護自身が己に課した、ある一つの決断が大きな要因となっていた。

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