5-10

「――え……?」


 そう、自分はこの子の事が、本当に――本当の子供の様に感じ始めていたから。

 母親に、なりたい。それが少女に対する鈴護の本心だった。


「ふーちゃんが、大好きだから! 私は――私は、貴方の家族になりたいの!」


 風に乗って、響く鈴護の声。草のざわめきと風の音が、皆、一様の音に包まれた。


「い、今更そんな事を言われても、私はもう戻れません……! 既に私はカケラの中に居る。この場所は、カケラの力が見せている幻。貴方の想いだってきっと……!」


 だが、少女も意固地になっていた。認めるわけにはいかないのだと、考えを曲げない。


「信じられない……。普通の人間じゃあない、宇宙人の私には何も解りません!」


 そんな思いをぶつけられても、彼女は既に人間を辞めるのだと決心していたのだから。宇宙人の自分には、人間の感情なんて解らないのだと主張する。


「何も解らないと言うけれど、今『怒っている』ふーちゃんの『感情』は何なの?」

「おこ、って……?」

「そう。『怒り』だよ。貴方を包むその感情は、人間的な要素の一つなんじゃあないのかな」


 鈴護に自分の中の未知の感情を指摘され、黙り込んでしまう少女。


「貴方がそうやって自分で理解し、感じているモノも、全部嘘だというの?」


 鈴護は屈みこんでジュライと視線の位置を同じにする。


「それに感情のない子は、涙なんて流せないと思う」


 少女が要らないと言った感情。だがその目から流れる雫は彼女の感情を切実に表している。

 涙。少女は、今も涙を流し続けているのだから。


「……な、涙なんて、私は……!」


 再び少女の目の前に座り込み、その目元に指を置く。瞳から流れ落ちる、枯れない何かを塞き止める様に。


「沢山、泣いたんだね。涙の跡が赤く腫れちゃってる」


 少女の瞳から流れる涙の筋を一滴、鈴護は指で掬い取った。


「嘘、です……。私が、涙を……? こんな……」


 驚愕で目を見開く少女。震える両手で己の顔を覆い、その雫に指で触れる。


「これが、……この瞳から滴れ落ちる液体が、涙……なのですか……?」

「そう。それが涙。――貴方に感情が存在すると言う、確固たる証拠だよ」


 震える少女の頭を優しく撫でる。普段は艶やかな少女の髪が今は少しだけ埃で汚れていた。


「……ごめんなさい、ふーちゃん」


 謝罪の言葉。漸く――ここに来てやっと、伝えたかった一言を少女に届ける事ができた。


「私が――私があんな事を言ってしまったから、ふーちゃんはこんなに苦しい想いをしていたんだね……。だから本当に……ごめん、なさい……」


 泣いてはいけないと解っていた筈なのに鈴護の瞳からは何時の間にか涙が溢れ出していた。


「人間とか宇宙人とか、色々難しい問題はあるけれどね……それでも、貴方自身が持っている物に変わりは無いと思う。私、この二ヶ月間の生活の中でふーちゃんを宇宙人として見てきたつもりは無い。それを知った今も、そんな理由でふーちゃんを嫌ったりなんかしないよ」


 今までで一番深く、強く――鈴護は少女の小柄な身体を抱き寄せる。同じ人間の体温が、服を通して伝わってくる。


「ふーちゃんがふーちゃんである事にはぜんぜん関係ないんだから。だからそんな事はね、些細な問題なんだよ」


 己よりも大きな温かみに抱擁されていた事で、やがて少女も落ち着きを取り戻す。

 成されるがまま、鈴護の腕の中に静かに包まれていた。


「貴方が、ふーちゃんと言う個人である事には、何の変わりも無いでしょう?」

「……本当に。本当に、そう思うのですか。私は、貴方の傍に――これからも居続けても良いのですか。宇宙人の『ジュライ』としてではなく、貴方と共にある――『文月』として」


 少女は涙を隠す様に俯いたまま、消え入りそうな小さな声で呟く。


「勿論だよ」

「貴方を――おかあさんと呼んでも、良いのですか?」

「寧ろ大歓迎って感じだね」


 少女を撫でる手が、温もりが――心地良かった。少女もまた、鈴護の手から感じる温もりを肌を通じて感じ取っていた。


「私――私、は。……私も、鈴護と一緒に……」


 キシッと空間にヒビ割れが生まれる。


「貴方の――家族に、……子供に、なりたいです」


 そして、世界が変わった。少女と女性がお互いの本心を打ち明けた事で、閉ざされた少女の箱庭が崩壊しようとしているのだ。

 ガラスが割れる様に、周りの風景が砕けていく。草原の幻想が壊れる。風も吹き止んだ。

 全てが幻想と化し、世界が虚像を捨て去り現実を取り戻す。夢から覚醒する感覚。

 その消え行く世界の中で、鈴護は見知った姿をぼんやりと認識する。

 夢の中の少年が、遠くからこちらを見ていた。

 その顔は微笑みに満ち溢れ、何かを祝福するかの様に鈴護の顔を見つめていた。

 彼の口が動く。口の動きが何かの言葉を紡ぐ。

 遠目では余り細かく把握は出来なかったが、その言葉は確かに鈴護に伝わった。


「おかあさん、ありがとう。その子を、大切にしてあげてね」と。


 少年の顔――漸く見る事ができたその顔は、知らない物ではあったが。――どことなく自身の夫に面持ちが似ているなあと、消え行く世界の中で、鈴護はそんな事を感じていた。

 彼の正体はもう何となく理解している。そう、結局夢以外では一度も顔を合わせる事は出来なかったが、それでも鈴護には彼が誰なのかが解っていた。


(そうか。貴方は――いつも私の傍に居てくれたんだね……。ありがとう……私に大切な事を気付かせてくれて)


 これもまたカケラの力なのかどうかは解らなかったが、鈴護はこうして完全に――己の中のトラウマと決別する事ができたのであった。

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