4-7
「そんな事は、できないんだよ……ッ」
学校の分厚い壁をも振動させる位の大きな音が、空気もろとも少女を震え上がらせる。
「り、鈴護……?」
それが、ジュライの目の前にいる、少女もよく知るあの女性が放った叫び声だと理解するのに少しの間を要した。
「そんな事……そんな事が許される筈はないの。貴方が私の子供になる。『あの子』の代わり、に? ふざけないでッ!」
一人の、悲しみに囚われた哀れな亡者がジュライの前に立っている。
突然の状況変異。理由もわからない木下鈴護の突然の変貌。
今までに無かった事柄に、少女は混乱を隠し切れなかった。
女性の変化は普段の彼女を知っている大よその人間ならば目を疑う事だろう。
だがここ最近、三年間程前から一度でも彼女と接していた人間ならば、この変化が一体何なのかを直ぐに理解できた筈だ。
木下鈴護の問題点。子供に対する『トラウマ』によって発現する彼女の『発作』。
『癇癪』
今の彼女の状態を示すには、その言葉が的確、かつ最適であろう。
そう。この状態、この尋常ではない変貌こそが、鈴護が持つ『発作』の正体なのだから。
「生まれてくる事のできなかった『あの子』の事を、忘れろと言うの!」
まるで二重人格者の様に、普段の雰囲気を微塵も見せずに鈴護は腹の奥から叫ぶ。
ひたすら、少女の『一言』に対して怒りをぶつけている。
『生まれてこなかった子供』を蔑ろに、無かった事にする、少女の背徳的な提案に対して。
「私の子供はね、『死んだ』の! 私の唯一無二の子供は『死・ん・だ』! 解る? 死んだって事が、どう言う事なのかが……!」
「り、んご……? どうしたん、ですか……?」
突然の状況の変異に、少女はどうして良いのか全く解らなくなってしまっていた。
鈴護が何故叫んでいるのかも、理解ができない。
鈴護の突然の変異によって少女は、まるで背筋が凍りでもするかの様な、つま先から背中の上辺りまで冷たい何かが昇ってくる様な、とにかく嫌な感触を覚えていた。
冷や汗が止まらない。
何故だろう、体が震えている。
自分の体に、精神に、何が起こっているのだろうか。
解らない。理解ができない。こんな状態は知らない。
体が震える。寒くも無い筈なのに。施設の室温は常に最適な状態に保たれている筈なのに、体がまるで冷水を頭から被った時の様に震えている。
この感覚は一体、何?
――鈴護、教えてください。この、嫌な感覚は、一体……。
口にできない疑問の言葉。必然的に少女は押し黙る事になる。
少女には理解できない、感情。
それは『恐怖』と言う感情だった。
変わり果てた鈴護の変化に、少女は生まれて初めて『恐怖』と言う負の感情を覚えていたのであった。
「眠るって事じゃあないんだよ! もう、この世界にはいないの! あの兎と同じように!」
少女の内情の変化などお構い無しに、益々ヒートアップする女性。
きっと、少女はそこまで深い考えがあって、あの言葉を述べた訳ではなかった筈なのに。
ただ、これからも鈴護と一緒に過ごしたかった一心で、少女が述べた一言。
それがここまで鈴護を変化させ、愚かにさせた。
止まらない女性の怒り。
その中で少女はとある事実を、彼女の言葉の中から気が付く事となる。
「兎と、おな、じ?」
少女の知らなかった事実。
鈴護が少女に対して隠していた、兎の件の嘘。
鈴護がこの告白に乗じて謝ろうとしていた事柄は、彼女が突然癇癪を起こしたことによって最悪のタイミングで少女にその真実を知らしめてしまっていたのであった。
「そうだよ。あの兎は眠ってるんじゃない」
だが、鈴護は止まらない。
もうきっと、彼女は最後まで止まる事はない。
そう。暴走列車は止まらない。何かに衝突し、横転するまで止まる事は無い。
このまま、最後まで鈴護は最悪の状況を突き通す事になってしまうのであろう。
「死んだの!」
木下鈴護の無慈悲な一言が、少女に襲い掛かった。
「死?」
――理解できない。
目の前の女性が何を言ったのかが理解できない。
「兎が、死、んだ?」
少女が授業の中で得た『死』と言う単語の意味は、生命活動の停止を表す物である。
彼女が『眠っている』と理解しているあの兎に対し、その言語を用いるのは間違っている。
何も知らなかった少女の顔が、みるみる内に、気の毒な程に青ざめていく。
「あの穴だって『寝床』なんかじゃない。いつまで経っても兎は起きて来ない」
――お願い。お願いだから。鈴護。もう、何も言わないで下さい。
「だって、あれは死んだ兎の『お墓』なんだから!」
鈴護の最後の追い討ちが、少女の淡い希望を粉砕し、崩れ落とした。
少女の目が見開かれる。その小さな身体がワナワナと震えている。
「嘘、です」
「嘘じゃない」
「……嘘です」
「嘘じゃないッ!」
鈴護は少女の悲痛な言葉を、叫ぶ事で否定した。
「……嘘です……嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ……ッ!」
それに少女も負けじと喉の奥から搾り出したように言葉を連呼する。
感じた事のない不安な重いに精神支配され、少女は己でも訳の解らぬままに叫んでいた。
「死と言う言葉は、生命活動の停止を表す物。鈴護は確かにあの時、兎は眠りについたのだと私に教えました!」
それは事実。少女の中ではその言語こそが全ての真実となっていた。
少女の中で、唯一信用に足るに至った筈の人間。木下鈴護と言う女性。
初めて、自分を『人間』として認識し、『人間』として接してくれた人間。
そんな鈴護と言う女性が教えてくれた事の全ては、ジュライにとっては真実と同義であり、そこから『嘘』と言う言葉が現れるとは思えない。
「兎は、眠っている。死んでなど……死んでなどいません」
その事が何かの間違いであると、ジュライは頑なに信じていたのである。
鈴護の様な人間が嘘をつく筈が無い。これはきっと、何かの間違い。
自分が彼女を怒らせるような事を言ってしまったから、鈴護は怒って、根も葉もない事を言っているだけなんだ。
そうだと。そうであって欲しいと。
鈴護の事を最後まで信じさせて欲しいと、少女は思考の奥底で考え続けていた。
だから、彼女が何と言おうとも、少女は反発する。
鈴護に、自分が信じた――様な人間に、そんな『嘘』をついて欲しくなかったから。
「いい加減にして! 何が楽しくて貴方にこんな冗談を言わなくちゃならないの!」
だが、現実はそうではなかったのだ。
真実は、そんな『信用』などと言う、脆い何かをあっさりと突き破った。
「あれはね、私が嘘をついたの! 嘘を教えたんだよ!」
鈴護は『嘘』をついていた。
それが、鈴護が教えた『知識』の、彼女が言った『どきどき探し』の真実だったのだ。
「嘘……?」
その言葉の意味はすぐに理解できる。
知識量だけならば、ジュライは一般人にも負けない量を誇っていたから。
――信じられなかった。鈴護が、自分に『嘘』をついていたなんて。
彼女の言葉をそのまま信じるならば、兎は既に『死んでいる』事になる。
だが、やはり信じられない。
今まで信じてきた鈴護が『嘘』を教えるなど、信じる事ができない。
彼女がそんな事をする人間だと、思いたくない。
「兎は、眠って、いるんですよね?」
信じられないが故に、ジュライは鈴護に縋り付く。
その真実こそが冗談であって欲しかった。嘘であって、欲しかった。
「眠っているんだと……言って、下さい」
鈴護の服の裾を引っ張る。
『死』という言葉を、嘘なのだと笑って言って欲しかった。
「貴方を悲しませたくなかった。それで私は嘘をついたんだよ……!」
だが、鈴護からは結局、それが現実である、という意味合いの言葉しか返ってこない。
――兎は、死んだ?
眠っているのではなく、死んだ。
『死』とは、何だろう。
解らない。解らない。解らない。
「私の子供の代わりになんかなれない。あの子は世界に一人だけ。死んだあの子の代わりなんて何処にもいない!」
少女は体の中から様々な物が抜けきっていく様な、奇妙な感覚に襲われていた。
その心を抉った言葉のナイフは、その煌きを失いそうには無い。
凶器の軌跡を止められる人間も、残念ながらこの場所には立ち会っていなかった。
「貴方は『宇宙人』だから、私の気持ちなんて解らないんだ……ッ!」
鈴護の言い放ったその一言。
宇宙人と言う言葉。その一言が、少女を最も深く貫く刃となった。
「……!」
――宇宙人だから。
ジュライの中をその一言が繰り返し、繰り返し、エコーの様に響き渡る。
その言葉は、鈴護にとっては少女の冗談だと思っていた物。鈴護の中でその言葉の重みはその程度の物。
だが少女にとっては違った。
鈴護が発した言葉には、少女に今までの生活の全てを否定される程の重みを感じさせる力を持っていたのだ。
自分の決意を真っ向から否定される意味合いを持つ、致死量にも値する爆弾。
鈴護にだけはそんな風に言って欲しくなかった言葉。
『文月』と言う名を与えられた、己の存在を否定された様な感覚。
そんな少女の想いを鈴護が知る筈も無い。
これは、鈴護の知らない事だから。
鈴護はその言葉の――宇宙人と言う言葉の深い意味までを考えていた訳ではないのだ。
だが、もう全ては遅かった。
「私……私はどうせ、人間じゃあない。そう。私は、宇宙人です」
何かが弾ける様な、勢いのある破裂音にも似た快音が、食堂に響き渡る。
そこで漸く、鈴護の中に渦巻いていた『何か』が静まった。
「鈴護が私を否定するのなら、私は……私は、本当の宇宙人になる……!」
音の発生源は、鈴護の丁度頬の辺り。
少女の手が上がっている。
鈴護の顔は何かの衝撃が加えられた事で横向きになっていた。
頬にピリピリとした刺激が走る。熱い。そして、痛い。
一体、この数分の間に何が起こったのか。
何故、こんな事になっている?
いや、心の中では既に気付いていたけれど、その事実を信じたくはない。
少女が自分を叩くなんて事は、きっと何かの冗談に違いないのだから。
何故、自分はこんな状況に陥っているのだろうかと、鈴護は考える。
「信じません。鈴護の言う事なんて、もう信じない……」
そして少女は何故、その瞳に雫を浮かべているのだろうか。
何故、今まで見せたことの無い『涙』を、こんな状況で見せているのか。
「……うそ、つき……」
うそつき?
それは、自分に向けられた言葉なのか。
鈴護には何も理解できない。
少女は食堂から走り去る。
どこか呆けた頭では、その後を追うと言う考えにも至らない。
先程頬に感じた刺激。それ以前は眠っていた様な己の感覚に対する疑問。
はっと気がつくと、少女は怒り、涙を流していた。
何が、何が起こった? この数分間の間に、少女とこうも険悪な状態になる事態。
一体、私は彼女に何をしてしまったのだ?
「わ、私、何を……?」
そこで、鈴護はようやく長い眠りから気がついたように正気を取り戻す。
朧げに、今までの事は覚えているが、ジュライにぶたれる前の記憶が――無い。
「……ふーちゃん、怒ってた」
怒るという感情を未だ知らなかった筈のジュライが、あれ程までに怒る事態が、この数分間の間に起こったと言う事。
「あっ……!」
そして、まるでフラッシュバックの様に全てを思い出した。
桶に水が満ちていくかの様に、鈴護の頭に記憶が満ちていく。
最も恐れていた事態が起きてしまった。
こんなタイミングで発作、『癇癪』が起きてしまったのだ。
「わ、私……そんな、また……? い、嫌……っ!」
『鈴護の子供になる』と言う少女の言葉が発端だったのだろう。
自分はジュライを怒鳴った挙句、最悪の状況で兎に関する嘘を告白してしまった。
あろう事か、少女の事を『宇宙人だから』と罵って。
少女にぶたれた頬の痛みが蘇る。
あの時、少女は今まで一度も見せる事の無かった感情――怒りを顕にした。
山のクレーターで、少女は自分から『宇宙人になる』と言っていた筈だった。
だが、その言葉に対しあそこまでの怒りを見せると言う事は、彼女の中でも何か心境の変化があったと言う事なのだろうか。
いや、そんな事よりも今は重要な事がある。
嘘の次は、少女の心に取り返しのつかない傷を負わせてしまった。
「……母親どころか……これじゃあ、人間失格だよ……」
後に残ったのは月明かりに照らされる自分の影と、頬に残った痛みだけだった。
その日の夜。鈴護は再び夢を見る。
いつもと同じあの夢。
夢の中に現れる少年に近付ける事は無く、近付いたとしても結局また奈落に落ちる。
一度たりとも夢の内容が変わらず、まるで呪いの様に同じ内容を繰り返す。
断罪の刃。
鋭利な切っ先が、鈴護の心を蝕んでいく。
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