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木下鈴護がこの学校に訪れてから一ヶ月と三週間。
季節は七月。気が付けば本格的な夏が直ぐそこまで迫っている。
島に訪れた時よりも鋭さを増した日差し。屋外では夏虫の姿も目立ち始め、木々に生い茂る葉もその青さを増していた。
穿つ様な暑さは、まさに南島(本当のところ、どの辺に点在している島なのかは未だ解っていなかったが)と言った所で、じりじり焼き焦げると言う表現を島は感じさせてくれる。
変化を見せる島の環境の中、鈴護の用務員としての就任期間も残り僅かと迫っていた。
(そうか。あと、一週間なんだ)
この場所での任期は二ヶ月間。それが終われば必然的に日常へと舞い戻り、二ヶ月前までの生活を再開する事になる。
日常への回帰。本来なら喜ぶべき事柄なのかもしれないが、鈴護はこれ以上無い程までに消沈していた。
仕事が終わる事で得られる予定の、当初の目的であった高額給与の事すらも忘れて。
ここ二週間近く、兎が『寝床』に入った日から彼女はずっと塞ぎこんでいる。
理由は明確にして明白。少女についた嘘に対する罪悪感だ。
そう。未だに鈴護は、少女に真実を打ち明けられていないのである。
その事実が、心の奥底に罪悪感を蝕ませていた。
そして最近連日の様に見る、あの夢。
何かと不安定な精神状態があんな夢を見る要因になっているのだろうか。それは解らない。
兎にも角にも、お陰で精神的疲労はピーク。さらには寝不足により肌つやその他諸々もボロボロ。最早色々な意味で限界寸前と言った所で、何とか学校での生活を以前と変わらぬ様に保ち、続けていた。
あの時、ジュライは鈴護の言葉を信じて疑わなかった。
兎が疲れたから眠ったと教えられ、寝床という名の穴倉で兎は今も眠っている、そしていつかは起きてくるのだと、頑なに信じ続けていた。
兎の目覚めを待つと言う、笑顔の決意と共に。
死という概念を知識の上でしか理解していなかった彼女の中では、鈴護の嘘は真実として還元されてしまっていた。
少女の純粋にして真摯な期待を裏切る事が、鈴護にはできなかったのである。
嘘をつかなければよかったと何度も後悔を重ねる。
だが、あの時嘘をついていなければ――いや、嘘は何の解決にもなっていない。……といった思考のループが、鈴護の頭の中で堂々巡りを繰り広げていた。
謝りに行こうと決意をすればジュライが寝床の前で微笑んでいる姿を目撃して結局後戻り。
――そう、微笑みだ。
あの微笑はあろう事か、鈴護の嘘によって引き出されてしまった物なのだから。
『寝床』の前で嬉しそうに微笑む少女の姿を視認してしまうと、何も言い出せなくなってしまう。
ジュライは毎日の様に兎の『寝床』に訪れては、その目覚めを見守っていた。
風が強かろうと、雨が降ろうと。毎日、変わらずに。
『兎が、いつ目覚めるか解りませんから』
一度、ジュライに心配から声をかけた時に返ってきた言葉。
少女の無垢で純粋な言葉が、鈴護の中を呪詛の様に巡っている。
そんなこんなの繰り返しで、結局鈴護はどうする事も出来ずに時だけが過ぎ去っていた。
どうやって真実を打ち明けよう。何か良い方法は無いものか。
考えては日が昇り、日が沈み月が昇っての繰り返し。
己に与えられた役割である用務員の業務にも身が入らず、気がつけばボーっと呆けながら、些細な失敗を繰り返す事が多くなっていた。
そして今も正に、そんな答えの出ない脳内問答の真っ最中だったりする。
「鈴護」
ふと、ジュライの声が頭に響く。
(あれ。何で、ふーちゃんがここに……?)
何故こんなに近くで自分の顔を覗き込んでいるのだろうか。理解が及ばない。
(そもそも私、何でこんな山道に立っているんだろう?)
意識がどこかに飛びかかかった頭で、周囲を見渡す。
己が立つ場所は学校の中ではなく、木々に囲まれた森の中に申し訳程度に伸びている土道の上だった。
「どうかしましたか?」
ジュライがこちらの具合を伺うように、何となく不安そうな声で問いかけてくる。
そこで鈴護は漸く思い出す事ができた。今はジュライと最近の日課になりつつある散歩の最中だったと言う事を。
(ふーちゃん、散歩はいつも楽しみにしているから……。私がこれじゃあ、楽しくないよね)
折角の外出だと言うのに、また悪い癖が出てしまっていた。
頭を軽く振って、行き場の無い悩みを頭の片隅にしまいこむ。
「ううん、何でもないよふーちゃん。ちょっと考え事してただけだからさ。あはは」
せめて今くらいは考え事をやめようと。この少女と居る間だけは、楽しい自分で在り続けようと、頭の中でスイッチを切り替えた。
「そうですか」
すっかり板についた様子で、笑顔のバリエーションの「安心した」笑顔を顔に浮かべる。
少女は笑顔を覚えてから、ますます人間味を増していた。
表情の変化も多彩になっているし、特に笑顔に関しては目覚しい成長を見せている。
例え鈴護の嘘から生まれ出でた偽りの笑顔であったとしても、少女の成長に変わりはない。
日常生活においても、彼女の行動に変化が現れた。
今までは合理的かつ少女自身が必要と思うこと以外には全く興味を示さなかったのに対し、最近の彼女は柔軟に、様々な視点から物事を捉えようと努力をする様になってきていた。
また、初期の頃には成り立たなかったスキンシップ的な会話も、ぎこちないながらも行えるようになり、更には驚く事に、己の気持ちを表に出す事もできるようになっている。
今日の夕食は何が良いかと聞けば、食べたい物を提示してきたり、自分から鈴護の仕事の手伝いを買って出たりと、些細な事かもしれないが、これも最初の頃から考えれば素晴らしい変化と言えよう。これは素直に喜ばしい事である。
「じゃあ、行こうか。ふーちゃん」
そう言って、鈴護は少女の手を優しく握った。
「はい」
喜びを隠さず、少女は笑みを浮かべて頷いた。
実に嬉しそうに。鈴護との散歩を心待ちにしていたかのように。
気持ちの良い少女の笑顔を見ていると、少しだけ後ろめたい気分が和らいだ。
そう、例え切っ掛けが何であろうと、あの笑顔だけは嘘じゃない。
少女のそれはれっきとした本物の笑顔。
(冷静になれ、木下鈴護)
今日一日、彼女と楽しく過ごして頭を冷やす。そして今度こそちゃんと真実を教える。
例えそれで嫌われる事になろうとも、やはり嘘を嘘のまま残してはおけない。
任期を終え、日常へと帰る前に嘘をついたことの責任だけは取らなくては。
一度責任を持った事は最後まで果たす。
他ならぬ、鈴護自身が少女に教えた言葉であった。
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