4-2

 広い草原が目の前に広がっている。

 地平線の彼方まで、永遠と緑の絨毯が続いていた。


 ――ここは、どこなのだろう。


 木下鈴護はそんな果て無き草原の一角に立ち尽くし、己の現状に疑問符を浮かべている。

 何故自分はこんなところに居るのだろうかと言う、尤もな疑問が頭を駆け巡る。

 考えても解らない。理解が及ばない。

 きっとそれが解らないようにこの場所は出来ている。

 自分以外誰も存在しない草原。

 風の音と揺れ動く緑色の音だけが周囲に優しく囁いていた。

 辺りを見回す。あるものは草原と青い空。

 そして――自分から少し離れた場所に立っている小さな人影。自分以外の唯一の人間の姿。


 ――貴方は誰、なの?


 離れた場所に立つその人影に、声をかける。

 しかし、声は届かない。彼女の声は届かない。

 不安になる。大切な人間に置いていかれたかの様な、そんな感覚。


 ――もっと、近付ければ。


 人影に近付く為に歩み始める。

 近付いて初めて解る人影の正体は、一人の少年の物だった。

 見知った顔ではない。だがその面影には愛おしさを覚える。

 何故か彼の顔を見た瞬間、今は遠く離れた場所に居る最愛の夫の顔が脳裏に浮かんだ。

 焦る気持ちを抑えきれずに、少年の後姿を追って鈴護は歩を進めた。


 ――こっちを見て。何でずっと、向こうばかりを見ているの。


 少年がこちらではない方向を見ている事が、無性に鈴護を不安に駆らせた。

 こちらを見て欲しい一心で、鈴護はその後姿に声をかけ続ける。

 しかし、その努力も虚しく、少年がこちらへと振り向く事は無い。


 ――もっと。もっと、もっと近づければ。


 歩みはやがて、走りへと昇華した。

 急く脚が地を蹴り草を踏み、少年に近付こうと抗う。

 それでも距離が一向に縮まらない。それどころか段々遠ざかっている様な気さえした。

 このままでは、彼が行ってしまう。二度と、相見える事ができない場所へと。


 ――待って。行かないで!


 声は届かない。そもそも喉から張り出された声に音が存在しない。

 木下鈴護にはこの世界で音を出す術が無い。その声は、届かない。


 ――私を、置いていかないで!


 抗えない何かに抵抗せんとするばかりに、少年に向かって精一杯手を伸ばす。

 今度は少年との距離が段々と縮まり、その背中が大きくなっていく。

 もう、少し。あと、十メートル。もう少しで手が届く……!

 あと、五メートル。一メートル。


 ――もう、少し……!

 

 少年の姿はもう間近。それこそ伸ばした手で腕を掴めそうな位の距離にまで近付いている。

 しかし、鈴護がその腕を掴もうとした瞬間、少年の姿が忽然と消えてしまった。

 初めから其処には何も無かった様に。無へと還った。

 少年の存在していた場所には何も無い。

 あるのは、初めからここにあった草原と青空とそれ等が奏でる音だけ。

 意気消沈してその場に崩れ落ちる。異常な空虚感だけが後に残った。

 やがて空間に変化が現れる。

 草花が消え、風が消え、空気が消えた。空すらも無くなった。

 周囲の視界が唐突に暗転し、鈴護は虚無の空間へと放り出される。

 何も無い、存在できない――絶対零の空間。

 全ての存在が許されない世界。そんな場所に存在していると言う矛盾。

 足場が無い。この場所には地面すらも存在しない。


 ――落ちて行く。


 どこまでもどこまでも落ちて落ちて、落ちて落ちて落ちて落ちて落ちて――――――


 そんな世界の中――閉じる意識の中で。

 鈴護は、最近どこかで見た少女の姿を視界の片隅に認識した様な気がした。

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