3-10
広大な敷地の一角にポツンと突き出る大きな一本杉。
学校を象徴するその大木の下で、用務員・木下鈴護はスコップを用い、無言で穴を掘る。
少女は鈴護の傍らで、その様子を不思議そうに見守っていた。
「鈴護、これは一体何をしているのですか」
ここまできても解らない。
少女はこの状況を見ても、鈴護の行っている作業が何を意味しているのかを理解できないと言うのか。
頭の中には嘆きが。そして顔の表面には、偽りの笑顔が浮かんでいた。
まさか兎の墓穴を掘っているなどとは言えない。
既に真実を言えない所まで足を踏み入れてしまった。
少女に悟られるわけにはいかない。
少女に辛さを味わってほしくはない。
(でも、これじゃあ何も、解決にはなっていない)
苦痛をスコップで穴を掘る力に変える。
「……これはね、兎の寝床だよ。眠る時、寒くないように……上から土を被せてあげるの」
また嘘が積み重なっていく。
よりにもよって寝床とは。自分は何を言っているのだろう。
罪悪感が重ね重ねに積もる。
――もう、後戻りは出来ない様な気がした。
「兎の、寝床」
少女はまるでスポンジの様に、一切の抵抗もせず、鈴護の嘘を知識として吸収していく。
「兎は、いつか起きるのでしょうか」
その問いに鈴護は、何も答えることができない。
鈴護が土を掘り進める音だけが周囲を包む。必然的に場には沈黙が訪れていた。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
一分、その半分すらも経っていない筈なのに、体感的には永遠にも近い時間を過ごした様な錯覚があった。
「私、兎が起きてくるのを待ちます。兎が起きてくるまで、毎日見守ります」
それ程の長さを感じた間の後に、少女がどこか力強さを感じさせる声でそんな言葉を紡ぐ。
普段の少女らしくない、リスクや負担を考えない非合理的な発言を。
「目醒めた時、誰かが傍にいれば……これは、語彙が合っているのかどうか解りませんが」
その時。ジュライがその、実に人間的な発言をし終えた直後の瞬間。
「きっと――嬉しい、ですから」
少女に、新たな表情が生まれる。
一瞬の出来事ではあったが、鈴護はしっかりと目視した。
鈴護が想像していた通りの――小さいながらも、確かな『笑顔』と言う名の表情を。
「この表情は、鈴護が毎日の様に見せる表情の模倣、です」
顔を俯かせつつ少女はそんな事を言った。直ぐに普段の感情が希薄な表情に戻ってしまう。
「どんな時に用いる表情なのかは、私には解りませんが――鈴護のこの表情を見ていると、何故か不思議な感覚を覚えるんです」
少女の見せた表情は、彼女の成長を指し示す、とても重要な成長要素。
だが、問題なのはこれが鈴護の嘘によって成り立った物だと言う事。
嘘から生まれた笑顔が、ココロに突き刺さる。
「ふーちゃん、それは……その表情はね。――笑顔って、言うんだよ」
同じように『笑顔』を顔に浮かべ、少女にその表情の正体を教える。
鈴護の笑顔には喜びの色が見て取れなかったが、少女はその違いに気が付かなかった。
「笑……顔。これが、笑顔……」
自分が浮かべた表情が何なのかを教えられた事で、暫く彼女はボーっと考え込んでいたが、やがて鈴護の方へと振り向くと、再びその顔に小さな『笑顔』を浮かべて見せる。
「……ッ」
少女が浮かべた二度目の笑顔。
本来ならば喜ぶべき物である筈なのだが、その輝かしい笑顔が与えてくれる物は、少女に対する罪悪感だけだった。
「り、鈴護……?」
次の瞬間、鈴護はたまらずジュライを己の腕の中に引き寄せ、抱きしめていた。
ジュライの体温を感じる。
顔を少女の胸に埋め、その鼓動を感じる。
自分と同じ『人間』の感触を、身体で感じ取る。
「鈴護。どうか、しましたか?」
突然の抱擁に戸惑ったのか、少女がどこか心配そうに声をかけてくる。
「ふーちゃん……」
だが、鈴護は少女の身体を離す事なく、暫くそうやって彼女を抱きしめ続けるのであった。
偽りの――兎の寝床の前で。
「母さん。母さんもジローが死んだ時、今の私と同じ気持ちだったのかな……」
その夜。鈴護はベッドの上で足を抱え、膝に頭を埋めながら、在りし日の母の心情を想う。
今更、そんな事で罪の意識が軽くなる事などない。己の過ちを悔いる事しかできなかった。
少女の悲しみだけは見たくないと言う一心で、吐いてしまった一つの嘘。
「何故あの時、本当の事を教えてあげなかったんだろう。私、何で……」
無論、その問いに答えてくれる人間などはいない。
「私、子供がいたら、きっと母親失格だよね……」
真実を明かす事――それは簡単な事なのかもしれない。
一言。たった一言だけ少女に教えれば良いだけの事なのだ。
だが、少女のあんな笑顔を見てしまっては――嘘を明かす事はとてもできなかった。
「私が子供を宿せなくなったのも……こうなる事を、きっと神様が予測していたからなんだ」
その翌日から、朝が少しだけ寂しい物となってしまった。
兎の事で質問に来るジュライの声で目が覚めなくなってしまった事が主だった理由だろう。
少女は時間の暇を見つけては『兎の寝床』に赴き、いつ兎が起きてきてもいいようにと寝床を見守っている。
それが少女の新しい日課だった。
全ては己のたった一つの嘘から発展してしまった事。
『寝床』という偽りの名がつけられた墓標を、少女は何の疑問も持たず、いつまでも見守っている。
少女の努力、そして願いが報われる事は、永遠に訪れる事はない。
だが、少女は信じて疑わない。様々な事を教えてくれた、一人の用務員の教えを。
否。疑う事はできない。
疑う事を、少女は知らない。
少女にとって、与えられた知識は吸収した時点で全てが真実となってしまうのだから。
鈴護の嘘によって生まれた、その偽りの笑顔を浮かべながら。
少女、ジュライは今日も『兎の寝床』へと訪れる。
用務員・木下鈴護が帰宅するまで、残り三週間弱と迫ったある数日間の出来事であった。
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