3-9
「鈴護」
その日、最近ではすっかりお馴染みとった、自分の名前を呼ぶジュライの声で目を覚ます。
「……ん。ふわぁああ……。おはよ、ふーちゃん」
あくびを一つ。寝起き姿を気にする事もなく、鈴護は少女にのんびりと挨拶する。
「鈴護、来て下さい」
しかしどうにも少女は急いでいるらしく、挨拶も返してくれずに、鈴護の服の袖を引っ張り何処かへと誘おうとしてくる。
「え、ええ。ちょ、ちょっとどうしたの、ふーちゃん。そんなに急いだら転ぶ……わわっ」
寝起きの身体が完全に覚醒していないまま、勢い良く少女に続いて走る事になる。
何となくこの光景にデジャビュを覚えながら、少女に引っ張られる鈴護。
足を躓かせてそのまま崩れ落ちそうになるが、それよりも少女の引っ張る力の方が強く、何とか体勢を立て直した。
この間の様な弱々しい引っ張りではない。何か、焦りの様な物が感じられた。
「ふ、ふーちゃん? どうしたの、一体何があったの?」
走りながら少女に問いかける。危なく舌を噛みそうになってしまった。
「兎が」
前方に視線を向け、走りを止めぬまま少女は呟く。声に焦燥の色が含まれているのが解る。
「兎が、動かなくなってしまいました」
か細い少女の発言。かろうじて彼女の言葉の意味を理解する事が出来た。
「え……?」
兎が動かない。もしや、また具合が悪くなってしまったのだろうか。
様々な考えが脳裏に浮かぶ。
少女がここまで必死に急いでいる位だ。それだけの事が兎の身に起こったのだろう。
鈴護は彼女に引っ張られるまま、その『動かない』と言う兎の元へと向かった。
そして数分の後、少女の部屋に辿り着いた鈴護が目にした物。
そこには、確かに少女が表現した通りの光景が広がっていた。
――兎が動かない。
そう少女が主張した通りに、兎は瞳を開けることも無く、寝床から微塵も動かない。
少女の言葉通り、確かに――兎が『動かなく』なっていた。
「――嘘、でしょう?」
何かの冗談、と頭が否定をするものの、目の前では現実と言う名の時間が進んでいる。
「今朝起きた時には既に、この状態でした」
少女は寝床の段ボールへと歩み寄り、その傍らに座った。中の兎に手を差し伸べると、その頭を不安そうに撫でる。
「一体、どうしたのでしょうか」
兎の頬に手を置き、普段の温もりを求めるかの様に、優しく撫で続ける。
「すごく、すごく冷たいんです。昨日までは、あんなにも温かかったのに」
しかし、少女が求めた温もりは今の兎からは得られなかった。
代わりに少女の手の平に与えられた感覚は、とても生き物に触れているとは思えない様な、凍てつく様な冷たさ。
余りのショックに見ている事しか出来ない。
何も言葉をかける事ができない。
目の前で繰り広げられている現実があまりにも唐突で、少女だけではなく、鈴護自身にも信じられない光景であったが故に。
ジュライは兎を両手で抱き上げると、いつものように腕に抱き寄せた。
「それに、いつもは感じられた兎の鼓動が――今日は抱いても、感じられないんです」
鈴護は理解してしまった。何故、兎が動かないのかを。
少女が必死に兎を『動かそう』と兎の身体をさすったり、揺すったりしている。
その少女の必死さは、きっと報われない。少女の願いは叶わない。
目の前の光景を見ていて酷く悲しくなる。
まるで金属のワイヤーで締め付けられた様に、胸が軋んで悲鳴を上げる。
心臓が内部から無理矢理搾り出される様な痛みを身体が感じていた。
だが、鈴護には――いや、この世に生まれた『生命』の理ではどうする事もできない。
こればっかりは、どうにも出来ない問題なのだ。
鈴護も、それを知っていた。
彼女も今までの人生の中で、既に経験している事だったから。
「おかしいです。いつもならば、こうすれば『動く』筈なんです」
兎を地面に座らせ、動くのを待つ少女。
「ふーちゃん……」
少女には、何も解らない。
いや、それ以前に彼女にはそこまでの考えが及ばなかった。
その生命の灯火が消えてしまっていたのだと言う事を。
兎が、既に――息を引き取っているのだと言う事を。
そう。兎は――昨日まで元気だった筈の兎は、静かに、眠る様に『死』を迎えていたのだ。
関節的にでも『死』と言う概念を体験したことがない少女は、生命の終わりの訪れを理解できなかったのだろう。
「鈴護、兎は何故動かないのですか」
だからこそ少女は、そんな疑問を実に不思議そうな表情で鈴護に投げかけて来る。
余りにも無垢な、純粋過ぎる瞳。何も解らない無知な瞳。
その瞳を覗き込んだ鈴護は、以前にもどこかで同じ光景を見た様な、既視感にも近い想いに駆られていた。
(ジ、ロー……?)
そしてこの状況が自分が子供時代に体験した、愛犬の末路の情景と同じなのだと気が付く。
幼い自分の姿が視界に映る。過去の己の姿が鮮明に現れた。
「ジロー」が死んだあの日。動かなくなったジローを必死に動かそうとする自分。
冷たくなった大切な兄弟の体。
何故、どうして動いてくれないのか。
母にすがりつく過去の自分の姿が、現在の少女と重なってしまう。
『なぜ、ジローは動かないの? おかあさん』
同じレールの上。
誰しもがいつかは必ず体験する――永遠の別れ。
その悲愴は報われる事は無く、避ける事も出来ない。
「あのね、ふーちゃん」
それ故に鈴護は、少女に悲しみを味わわせたく無いと言う一時の気の迷いから――。
「はい」
不安そうな表情でこちらに振り向く少女。
水晶の様に綺麗な双眸が、鈴護の顔を映す。
全てを見透かされている様な後ろめたさ。その瞳を真っ直ぐと見つめ返す事ができない。
「兎さんは、疲れてしまったんだよ」
どこかで聞いた事のある様な言葉を――頭の中に微かに残っていた、己が記憶の片隅に存在していた誰かの言葉を。
少女の報われない努力をそれ以上見ているのが辛かったから。
記憶に従い、そのまま彼女に向かって言い放っていた。
何時かどこかで聞いた、過ちの言葉を。
「だからね、お休みしなくちゃいけないの」
そうして鈴護はとっさに、少女に嘘の知識を与えてしまう。
「疲れ、た?」
その嘘を嘘だと気が付く事もなく、少女は何の抵抗もなく鈴護の言葉を繰り返す。
これもまた、かつての母の言葉。
全てが己の記憶の通り。鈴護は、記憶の中の母と全く同じ道筋を辿っていた。
その選択が、何の意味の無い事だと解っていても。
一度言い放ってしまった偽りの言葉は、決して後に戻ることはない。
「そんな筈はありません。この子の体調管理は万全でした。体調を崩すなど考えられません」
――だって、ジローは昨日まで元気だったんだよ?
――どうして、ですか? 昨日まで、お腹の中で動いていたのに!
――今も、このお腹の中にはちゃんと重みがあるのに!
――助けて! 助けて、よ……!
――この子を、助けて……!
「鈴護、答えて下さい。兎は、一体どうしてしまったんですか? 兎は……」
幾ら叫べども、戻らない物だってこの世の中には確かにある。
「――もう、やめて……ッ」
気が付けば――苦しい物を吐き出す様に、そんな声を上げてしまっていた。
普段の女性からは想像もできない、強く、そして辛い――否定の叫びを。
一人の少女が、最も彼女に近い場所で――痛烈な叫びを、聞いていた。
――……。
自分は一体、何を叫んでいるのだろうか。
「あ、……」
そこで鈴護は気が付く。突然の叫びによって、少女を驚かせてしまっていた事を。
まさか唐突に目の前の相手が大声を上げるとは思っていなかった筈だ。
彼女は何も間違ってはいない。何も知らないだけの彼女には、何の落ち度もないのだから。
それどころか罪があるとするのならば、少女に『嘘』を教えてしまった、自分の方だろう。
取り返しの付かない事を、してしまった。
少女は俯き、こちらからではその顔色を伺う事はできない。
「ごめん……」
長い沈黙を破り鈴護が漸く口にした一言は、そんな謝罪の言葉だけであった。
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