2-10
当初の目的である、少女とのコミュニケーション手段の確立。
暫しの間が二人の間に訪れた。
そうして提案を持ちかけられた少女の表情は、再び変化に乏しい物へと戻っていた。
だが、ここに連れて来る以前の彼女の表情とは少し違う何かが確かにその中にはあった。
少女は鈴護の瞳を見つめてくる。まるで鈴護の瞳から何かを読み取っているかの様に。
鈴護も少女の瞳をしっかりと見つめ返す。
暫しの間そんなやり取りが続いたが、やがて少女は鈴護の視線から顔を逸らし、海をじっと見つめ始める。
そして何かを考えるかの様に瞳を静かに閉じた後、鈴護の方に顔を戻す。
「はい」
そうして少女は、鈴護の提案にしっかりと頷いてくれたのであった。
「ほ、本当? 本当に、良いの?」
「問題、ありません」
「やった!」
少女の賛同の言葉を聞いた鈴護は、年甲斐も無く歓喜の声を上げはしゃいだ。
突然の大声に、少し驚く少女。
驚かせてしまったかと考えたが、怖がっている様子は無い。
「あ。そう言えば私、まだ貴方の名前を聞いていなかったよね」
喜びが未だ消えないままの表情で、鈴護はふと大切な事を思い出した。
少女とはまともに自己紹介すら済ませていなかったと言う事。
お互い、名前すら名乗り合っていない。
「少し順番がおかしくなっちゃったけれど、もし良かったら教えてもらえるかな?」
お互いの指を絡ませたまま、少女に名を尋ねる。
少女は少し、何かを訴えるように鈴護の瞳を覗き込んでいた。
「ジュライ」
波の音を間に挟み、少女の口から彼女の名前が紡がれる。
己の名前なのに少女は何の感情も無く、その名を口にするのであった。
ジュライ。
July――〝七月〟。
それがこの少女の名前だと言う。
「何か、不思議な名前だね。七月――それが、本名?」
「他の人々は、私をその名で呼称します」
彼女の言う「他の人々」が誰の事を指しているのか気になったが、追求はしないでおく。
少女には悪いが、どこか形式的なイメージを拭いきれない少女の名。
そう言えば最近、どこかでジュライと言う単語を見かけた様な気がする。
「貴方はその名前、気に入っているの?」
その所為かどうかは解らなかったが、鈴護はそんな事を少女に聞いてしまっていた。
言ってから流石に少し失礼だったかなあ、と後悔する。
「よく、解りません。私を呼称する上で必要な名称。それだけです」
鈴護の失礼な質問に気を悪くする素振りすら無く、少女はそんな風に自分の名を評した。
少女にとって、己の名前と言う物に特別な意味は感じられないらしい。
「そうか……七月、か」
全国のどこかにいるかも知れないジュライさんには申し訳ないが、やっぱりその名は何となく寂しさを感じる。
少女に似合いそうな愛称はないだろうかと、鈴護はここぞとばかりに乙女な思考をフル回転させた。
「七月――文月。ふづき、なんて言うのはどうかな?」
暫くそうやって愛称のレパートリーを考えていた様だが、鈴護は一つの名前を選りすぐり、少女に問いかけた。
「質問の意味が、解りません」
「貴方の愛称。ジュライは七月。七月は旧暦では文月って言うでしょう? だからふづき」
「……ふづき。――私の、愛称?」
愛称の意味する所は理解していたのか、少女は己に言い渡された名前を口の中で反芻した。
「ふーちゃん、なんて言うのも良いかもね。凄く可愛いと思う。なんとなくフワフワしてる感じも良い」
鈴護は少女がどう感じているのかもそっち除けで、どんどん自分が良いと思う愛称を勝手に少女に付けていく。
とは言え、当の少女も嫌がった素振りは見せないので、別にどうでも良いらしいが。
「かわ、いい……?」
その「かわいい」という単語には、少女は少しだけ反応を見せる。
微かな反応を、鈴護は第六感的な何かに優れる宇宙移民者の如く反応速度で捉える。
「よし。今日から貴方はふーちゃんで決定だね」
声高らかに、たった今決定した少女の愛称を発表してみせる。。
「ふーちゃん。うん、ふーちゃん」
名付けられた本人よりも嬉しそうに、何度も少女の愛称を連呼する鈴護。
その様子を不思議そうに眺める七月の名を持つ少女。
「そうだ。もう知っているかもしれないけれど、一応私の自己紹介もしておかないとね」
そう言って一息つくと、無駄に元気な声で鈴護は己の名を少女に教えた。
「私、木下鈴護だよ。よろしくね」
こうして、木下鈴護と少女・ジュライは初めてのコミュニケーションを終えた。
就任から何日かが経過した昼下がりの出来事。
未知との遭遇。隔離された空間。始めはどうなる事かと不安だけがあった。
しかしここに来て、漸く鈴護は学校での用務員生活に意味を見出せた様な気がしていた。
この子となら上手くやって行ける筈。
世界を見つめ、瞳を純粋に輝かせるこのまっさらな少女となら。
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