2-9
青さに反射し、一際輝きを増した太陽の光。
一瞬瞳を閉じかけた視界の先に広がる光景は――紛れもない、本物の海。
映像による記録ではない。
太古に始まり、そして今も続く生命の始まり、起源が目の前に広がっていた。
「無事に到着! お疲れ様ぁ」
お互い手をつないだまま、人の手が加えられていない、自然のままの白い砂浜の上で佇む。
隣に立つ少女に視線を向けると、キラキラと光る海面がその透き通る瞳に映っている。
海の匂い。
波の音。
砂浜の感触。
何もかもが、少女にとっては初めての経験に違いない。
「どう? これが海だよ。凄いでしょう?」
微笑みながら、語りかける。
少女は視界に海を捉えて離さない。
今度は確実に、明確な驚きの色が表情から見て取れた。
間違いない。
今この瞬間、少女の顔に表情が宿ったのである。
驚き顔。無機質だった少女の顔に、感情とも呼べるべき新しい表情が生まれた。
鈴護は少女の変化を見て、並々ならぬ達成感を感じていた。
この数日間の努力が漸く実ったかの様な嬉しさが鈴護を包んでいく。
肝心のコミュニケーションまでは発展しなかったのが残念ではあったが、今の段階でそこまで期待するのは少しばかり欲張りだろうと、ここは我慢する事にしておく。
少女にもちゃんと感情が存在する事が解ったし、これから徐々に交流を重ねていけば――
「これが本物の、海――なのですか?」
そこで、声が響く。
鈴護の声ではない。
それ以外の、鈴護以外の別の存在が発した声。
それは――隣に立つ少女が発した声だった。
本当に、実に驚いた様な声色で、少女が言葉をはっきりと紡いだ。
不覚にもその声が少女の物だと言う事を理解するのに、少し時間がかかってしまう。
こちらの質問に返答する時とは違う声色。
それも自分から誰かに問いかけると言う快挙。
その言葉は他の誰にでもなく――確実に木下鈴護と言う人間に向けられていたのだ。
疑問。
日常でも当たり前の様に用いられ、誰もが当たり前に抱く感情。
それは些細な事。しかし、鈴護と少女の間には紛れもなく新しい第一歩。
少なくとも今この場に置いて、鈴護にとってこれ以上の喜びはきっと存在しない。
少女が鈴護に、己から〟質問〝して来たのだから。
単純に己の興味の為だけに、少女は口を開いてくれたと言う事だ。
鈴護は嬉しさで胸が張り裂けそうになるという言葉を、初めて体感できた様な気がした。
「そう、そうだよ! これがね、本物の海なんだよ!」
腕を広げる。本物の海の広さやら、凄さやらをジェスチャーで表現してみせる。
「記録された映像なんかよりも、本物の方がずぅーっと凄いんだから」
「映像、なんかより……」
鈴護の手の動きを追う様に少女は海を見渡した。微かな表情が一層驚きの色に満ちていく。
「……貴方は何故、知って?」
海を見つめたまま、不思議そうな声色で何かを問いかけてくる。
「え?」
「海。そして、記録映像の事を、です」
何故鈴護が、少女が海の映像を見ていた事を知っていたのか。それが気になった様だった。
「あ、ごめんね。貴方があの宇宙船みたいな部屋の中で、海の映像を眺めていたのを見たの」
確かにプライベートな事を盗み見していたのは余り気持ちの良い事ではないだろう。
そこは素直に少女に謝罪しておく。
「もしかして貴方が海を見てみたいんじゃあないかなあって考えて、今日は学校から連れ出したんだよ」
少女はその言葉を聞いて、一度海から眼を戻し、鈴護の方向へと振り向く。
しばし鈴護の眼を見つめていたが、やがてその首を左右に小さく振った。
「え? ち、違うの?」
その首の動きの意味を察すると、別に海が見たかった訳では無いと言う事らしい。
「私があの映像を目視していたのは、感情的な想いに浸る為ではありません。私が授業で得た知識に視覚情報を与え、実情報の認識を補完する為の作業です」
長い言葉を、聞き取り辛い小さな声で一息の内に喋ってしまう少女。
どうやら彼女は別に無口だと言う訳ではないようだ。
難解な言葉の内容は今一理解できなかったが、鈴護は己が突っ走った事の前提がそもそもの間違いだったと理解する。
「そ、そうだったんだ。私ってば、一人で勝手に勘違いして……。あはは」
あたふたと言う擬音が見て取れる位に狼狽する鈴護一〇〇系。再び暴走後に脱線事故発生。
鈴護の慌てぶりを暫く少女は見つめていたが、彼女は再び視線を海へと戻した。
少女の表情は再び無機質な物に戻ってしまっていた。
瞳には相変わらず海が映っている様ではあったが、感情的な物は内に潜んでしまった様に感じる。
「ゴメンね。もしかして、こんな風に引っ張り出されて外に出たの、嫌だった、かな」
そんな少女の横姿が気になり、鈴護は恐る恐る問いかけてみる。
返答は無かったが、視線を海に向けたまま先ほどと同じ様に首を振って見せる少女。
「え……。でも」
鈴護は言葉を濁す。
結局の所、自分の行動は全て勘違いだったのだから。
少女にとってこの時間は意味の無い結果に終わった筈。
だが何故少女は首を横に振るのか。
「記録映像から得られる情報と自身の視覚から直接得られる情報に、明確な差がある事が理解できました」
再びその小さく細い声で、小難しい言葉を呟く。
一度言葉を止め、少しの間を置いてから少女は鈴護の方へ体ごと向き直った。
その瞳には確かに、鈴護の姿が映っている。
「この行動は、マイナスではないと判断できます」
暗緑色の柔らかそうな髪が、ふわふわと潮風に揺れている。
鈴護の行動が結果的にはプラスになったと少女は述べた。
この行動は無駄ではなかったと。
(と、とにかく。嫌じゃなかったって事で良いんだよね?)
少女の難解な言い回しに、素直に喜んでも良いのかどうかは解らなかったが、心の中では歓喜を顕にする鈴護。
「学校の外に出たのは初めてでしたが、これならば問題はありません」
「初めて……。そう、なんだ」
半ば予想はしていたが、やはり少女はあの学校から外に出た事がなかった様だ。
「じゃ、じゃあ! これからも良かったら、お姉さんと一緒にこんな本物を探してみない?」
海の他にも知識だけでは解らない事はある。
それを一緒に探そうと鈴護は少女に語る。
「幾ら知識を詰め込んでも、自分の目で認識しないと宝の持ち腐れと言うか、すっごく損していると思うの」
少女が鈴護の言葉を理解できない様な素振りを見せたので、簡単な説明を行う。
「知識って言う物は、本物に直に触れる事で一段と輝きが増す物よ。今日貴方が外出して、あの珍しい鳥や、この大きな海を見た事だってそう」
知識の補完だけで終わるより、それを現実に己の目で見て知ればまた違った何かが得られると言う事。
少女は今日、それを身を持って知った筈だ。
「例えば、この目の前に広がる青い海を見た事で、貴方はどう感じたかな?」
鈴護は少女に対し彼女自身の感想を聞いてみる。
『ある事柄』の確認の意味も込めて。
あまり難しい質問内容ではないのだが、なかなか返答は返ってこない。
「解りません」
しかし、結局少女は一言だけそう答え、質問に対する回答を諦めてしまう。
(やっぱりそう言う事、理解できないのかな。と言うよりこの子は知らないのかもしれない)
悲しくもあり、苛立たしくもある少女の内面の現実。
こんな事も解らない程に世俗から隔離され過ぎた少女は、余りにも純粋でまっさらだった。
誰かは知らないが酷な保護者も居た物である。
彼女の親と出会う機会があったら、思い切り説教してやろうと心の奥底で決心する。
「そうね。例えばさ、こんな綺麗な海を眺めて、心が踊る様な――そう、〝どきどき〟しなかったかな?」
「〝どきどき〟とは、何ですか?」
少女が疑問を表現する様に首を傾げる。
『どきどき』と言う言葉の意味が解らないのか、鈴護の言動が理解出来ない様だった。
「どきどきは、この辺り。心臓の奥底が弾む様な、震える様なそんな感じ、かなあ」
我ながら語彙の少なさが情けないと考えつつ、鈴護は己の胸の辺りに手を置いてみせる。
鈴護の行為を真似するかの様に、少女の手もまたゆっくりと動き、胸の上へと手を置いた。
暫く掌から何かを感じる様に黙していた少女。
沈黙の後に、彼女は曖昧に頷いた。
「通常とは異なる勢いで、心臓が鼓動しているのが確認できます」
その不可思議な鼓動を、不思議そうに感じ取っている。
「過度な運動による酸素不足などではない。……これは一体?」
「それが、〝どきどきする〟って事なんだよ」
「どき、どき……」
「人間は初めて見る物を目の当たりにすると、たまらなく嬉しくなるの」
「しかし、知識があればそれ以上は必要ないと、授業では教わりました」
「知識を知っているだけじゃあ、〝どきどき〟は味わえないんだよ。授業や映像から得られる擬似的な認識だけじゃあ、〝どきどき〟は半減してしまうんだ」
鈴護は少女の手を取り、自分の鼓動が感じられる場所へと彼女を導く。
「ほら、私だって大人になっても綺麗な海を見て感動している。心臓が鼓動しているのが解るでしょう?」
鈴護の鼓動を感じ取っているのか、少女は暫く鈴護の胸の上から手を離さなかった。
己の鼓動をもう片方の手で感じ、それぞれを比べる様に両方の手を交互に眺める。
「どきどきするのは、嫌な感じだった?」
「……いいえ。未知の感覚ですが、不思議とマイナスになる要因は感じ取れません」
「でしょう?」
言葉の通り、相変わらず表情には乏しかったが、少女の顔から不快な色は感じられない。
「だから、ね。貴方が知識だけでしか知らない物を、自分の目で見れば沢山の〟どきどき〝を感じ取る事ができる」
鈴護は己の体に触れる少女の手をそっと取り、その手に自分の指を優しく絡ませた。
「私達には、自分で何かを見て感じる事のできる身体があるんだから。それを有効活用しない手はないよ」
つないだ指から少女の暖かさが伝わってくる。血の通った、人間の暖かさが。
「折角この島は、こんなに沢山の自然に囲まれているんだし。そう言う発見には、困らないと思うんだ」
殆ど未開の無人島だが、逆に考えるとそれだけ自然と生で触れ合えると言う事でもある。
「だから――私と一緒に、色んな世界の〟本物〝を探してみましょう?」
鈴護は、少女に対して、そんな『提案』を持ちかけたのであった。
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