2-8
「ねえ、ちょっと良いかな?」
鈴護がこの施設に訪れてから数日目の昼。
午前の業務も終了し、食堂で相変わらずバランス総合栄養食を摂取している少女がそれを食べ終えるのを見計らって鈴護は少女に声をかける。
どうも少女は呼びかけだけには素直に応じてくれるが、それがコミュニケーションに発展すると立ち去ってしまうらしい。
ここ数日間の行動の中で、何となく鈴護もその事を理解し始めていた。
「もし良かったら、一緒に外に出てみない?」
しかし話しかける為には、やはり会話を持ちかけるしかない訳で。
今まで通り無反応のまま空になった食事の箱を片付け、この場から立ち去ろうとする少女。
(駄目。ここで躊躇ったら一生このままだ。何も変わりなんて、しない)
鈴護はすかさず少女に歩み寄る。そして、優しく彼女の手を握り取った。
いきなりの奇行。突然の手を握るという行為に対して少し驚くだろうかと思ったが、少女は全く持って気にも留めていない。
と言うか、こんな時どうすれば良いのかが単純に解らないのではないのだろうか。
もしも、鈴護が考えている通りの話ならば、だが。
さて、鈴護が昨日思いついた考えとは一体どういった物なのかというと。
鈴護は昨日、少女が熱心(あくまで鈴護ヴィジョンで)にあの海の映像を見ているのを見てギュピーンと第六感的な何かで(あくまで鈴護の中では)一発逆転のある計画を画策した。
「あのさ。海、見たくないかな? 映像での記録じゃあなくて、本物の、海」
海。そう、海なのだ!
勝利の鍵は我等が生命の原初たる地、海にあり!
これによって、必ずや少女とコミュニケーションが取れる筈と、根拠のない確信が溢れる。
彼女の考えを簡潔に言ってしまえば、鈴護は少女に本当の海を見せる事こそが、少女との交流に置ける勝利への近道だと、自分の中で勝手に盛り上がってしまっていたのであった。
(きっとこの子は海を見たがっているんだ。だからあんな映像をじっと見つめていたんだ)
映像記録によるヴァーチャル世界ではない、リアルの視覚から取り入れる本物の映像を少女に見せる事で、そこからコミュニケーションの切っ掛けに発展するかもしれない。
鈴護の思考の中で、勝手な思い込みがパズルの様に組み立てられた結果の行動だった。
一つだけ不安要素があるとすれば、そのパズルは決して〟完成はしていない〝事だが。
確証なんてあるわけが無い。
だが、鈴護にとってはそれが現時点で考え付く限りの、もっともベストな方法だったのだ。
他にも色々と考案できそうな物ではありそうだが。
そこは流石、暴走列車鈴護一〇〇系と言ったところであろうか。
「ね、行こうよ! 外へ!」
そう言うと、鈴護は少女に極上の笑顔で微笑みかける。
少女の手を握り歩き出す。目指す物は自分にとっての希望か絶望か。
全ては外に拡がる別世界だけが知っているのかもしれない。
「どう? たまには外の新鮮な空気を吸うのもいいと思うんだけれどなあ」
少女の手を握りながら、自分がこの施設に来るとき通ってきた道を歩く。
鈴護自身も五日ぶりに感じる外の空気は非常にすがすがしく、また、段々強くなりつつある日差しが肌に心地いい。
少々気温が高い。
後方を歩く、握った手の先の小さな存在を心配し、振り向く。
暑さの下にいても、少女には何の変化も反応も無い。
喜んでいる様にも、不機嫌になっている様にも見えない。
まるで無反応。これまでと特別変わった様子は無さそうだった。
(外に連れ出すって言う行動も、やっぱり意味なんて無かったのかな)
手を振りほどいたり逃げ出したりしないという事は、少なくとも嫌がってはいないという事だろう。
だがそれすらも、ただ単に少女は他人の意思に逆らう事を知らないだけなのかもしれない。
やはり自分は、彼女にお節介を焼いているだけなのであろうか。
「あ……」
その時、少女が微かに声を上げて立ち止まる。
突然の停止に少女がこれ以上進むのを拒んでいるのかと考える。
振り向いた先の少女にはそんな素振りは無く、むしろその顔を上に向け、遥か彼方の上空を仰ぎ見ていた。
「どうしたの? 何か見つけたの?」
不思議に思いながら、それに習って空に視線を送ってみる。
どこまでも広がる一面の空色の中。視線を逸らせば太陽光線を直視しそうな視点の横。
「ああ、鳥だね。でも見た事の無い種類だなあ。暑い地域特有の鳥なのかな?」
二人が立つ場所より遥か上空の高度。
そこには何羽かの鳥が羽ばたき、大気のフィールドを悠然と泳いでいた。
「鳥。あれが、鳥……?」
鈴護の言葉に反応したのか、少女はボソボソと何かを呟いた。
気のせいか、鳥を見つめる少女の瞳は、かすかな驚きの色に染まっている様な気がした。
(少しだけ、連れ出した甲斐があったのかな)
例えかすかな変化であろうとも、少女の表情らしい物が見れた事。
この連れ出し劇にも多少なりとも意味があった事に、鈴護は安堵を覚える。
「体は大丈夫? もし具合が悪くなったりしていたら、戻っても……」
無理をして連れ出してしまった事が気にかかり、少女の具合を探ってみる。
「問題、ありません」
相変わらずの細く、小さな声。無感情な声色で、端的に言葉を伝えてくる。
「なら、もう少し歩こうか」
本番はこれからだ。今日の最終目的は少女に本物の海を見せる事。
それから数十分をかけて二人は山道を下り、海への道のりを歩き続けた。
「この先に、私が初めてこの島に来た時に足をつけた浜辺があるの」
鈴護が初日に歩いた海へと続く林道。海はもう間近である。眼と鼻の先と言っても良い。
「さ、頑張ろう?」
慣れない太陽光に当たり続けたせいか、少女の額に汗が浮かんでいる。
だが、その足は力強く地を蹴っている。
学校内での足の速さから見ても、運動が苦手という事はなさそうだ。
ここまで来ても、一切の抵抗は無かった。
それどころか彼女の表情の奥底には、少しだけ未知の経験に対する期待の色が現れている様な雰囲気が見て取れた。
「もう少しだよ。この道を抜ければ――」
鈴護は、その林の道を少女と共に走り抜けた。
――瞬間、それまでの木々の緑から、一気に空間が開け――目の前に一面の青が拡がった。
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