2.冴えないシンクレール



 紘登ひろとの交友関係は浅くて狭い。人見知りで不器用な紘登は話すことが得意ではない。クラスの人気者がそつなくこなしているような、瞬発的な、いわゆる当意即妙なやり取りというものが苦手だった。こんなことを言ったら相手は気を悪くしないか、伝えたいこととニュアンスが違ってしまわないかと不安で、言葉を選ぶのに一々時間がかかるばかりで気の利いた一言が思いつかない。


 自分と同じように目立たないクラスメイトと賑わう教室の隅で居場所を作り、退屈で長い休み時間をやり過ごすのが紘登の日常だった。彼らとは気が合うわけではないけれど、一人で過ごす寂しさを味わうよりマシだった。田中は黒ぶちの分厚いレンズの眼鏡をかけていて、安藤はそばかすの浮いた褐色の肌をしている。二人ともお世辞にも魅力的とは言えない顔立ちで、女子には全く相手にされない。つぶらな瞳を紘登に向けて、二人はニヤニヤしながら紘登の話を聞いている。昨日の帰り道に駅前で見たネコの話だ。暇つぶしのネタにしようと思って、二人との退屈な交流に沈黙が訪れるまで温めておいた話だ。


「そんなにでかいネコ、見たことないけどなあ」


度の強い眼鏡で実際よりも小さく映る田中の光の無い目が、紘登は苦手だった。今だって田中は笑っているが、田中から眼差しを向けられると、自分がどこか侮られているように感じる。


「と思うだろ? いたんだよ。どうしてこんなところにでっかいお餅があるんだろう……と思ったんだけど」

「ネコだった?」


安藤は頬杖をついてマンガの主人公を気取った風に紘登を指さした。人に指をさすのは安藤の悪癖だ。紘登はこの仕草が好きではないので内心ムッとしたが、態度に出さずに話を続ける。


「そう、ネコだったんだ。餅が動いたと思ったら立ち上がって、伸びたんだよ。やっぱり餅か? と思ったけど、やっぱりネコなんだよな。高さ的には僕のお腹くらい……」


 話の拙さをカバーするように紘登が身振りを大きくしたとき、背後を通りかかった誰かの体に手が当たってしまった。バサッと物が落ちる音がして、紘登は慌てて振り返った。


「あ、ごめん……、……!」


 紘登の背後にいたのは、楠麗哉だった。


 瞬間、時が止まった。心臓が屋上から地面に叩きつけられたような衝撃。息が止まる。 叩きつけられた心臓が体の内側でバスケットボールのようにダムダムと跳ね返る。どうやら紘登の手は麗哉の腕に当たったようだった。よりにもよって、彼の腕を弾き、彼の持ち物を床に落としてしまった。何か、何か言わなければ。何を言えばいい? ああ、謝らなければ。「ごめん」って日本語で何て言うんだっけ。


 紘登が逡巡している間に、麗哉は黙って床に落ちた本を拾い、手で汚れを払った。例によって惚れ惚れするほど優美な動きだ。外れかけたブックカバーから覗いた表紙を見た紘登は、衝動的に叫んだ。


「ヘッセやん!」


 汚れを払う麗哉の手が止まった。麗哉は伏せていた瞳をゆっくりと持ち上げ、紘登の姿を捉えた。鋭い眼光を宿した切れ長のアーモンドアイ。麗哉と初めて目が合った。やん。反射的に飛び出した関西風の語尾に紘登は恥ずかしさを堪えた。


「……ヘッセ、知ってる?」


 目を逸らして頷いた。麗哉に真っ直ぐ見つめられて、紘登は怯んだ。紘登は明日話すネタを前日に用意するほど、即席の会話が苦手なのだ。


「う、うん」

「これ読んだ?」

「読ん……あ、その本はまだ読んだことないんだけど……えっと、他の作品なら、何冊かは、ちょっとだけ……僕好きだから、本読むの」


 憧れの存在が目の前にいて、自分に話しかけてる。クラス中の視線を集めているのを感じて、口調がぎこちなくなる。もっと自然に話をしたいのに、もどかしい。夢にまで見た麗哉との初めての交流なのだ。「ああ」とか「はい」とか、教師やクラスメイトに話しかけられて仕方なく返事をする程度、下手をすれば一日も声を発することの無い麗哉が、自分に向けて言葉を紡いでいる。自分のために発せられた、媚びが無く耳触りの良い彼の声。もっと話してほしい。もっと、もっと。


 麗哉の次の言葉を待っていると、誰かが「次の理科、移動教室だぞー!」と教室の入口で叫んだ。クラスメイトたちが場を切り上げてバタバタと準備を始めるのに合わせて、麗哉は背を向けて自分の席に戻ってしまった。会話終了。十秒にも満たない交流。ああ、何か気の利いたことを言えたらよかったのに。思わず彼が笑ってしまうような冗談を言えたら話が弾んだのかもしれない。過ぎた時間が惜しい。上手く話せなかったことが悔しい。唇を噛みしめると、田中と安藤が紘登の脇腹を肘で小突いた。理科室への移動中、「楠と話すなんてすごいじゃん」と称えられた。


 間近で見る麗哉は毅然としていて本当に格好良かった。だからどうしても麗哉と比べてしまうのだが、彼の顔を見た後だと、二人の友人の素朴な顔は幼児が野菜に殴り描きした人面のようにしか見えなかった。

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