3.スパーク、スパーク



 放課後にのみ解放される図書室。紘登は入り口近くに設置されたカウンターの内側で読み終えたばかりのゲーテの詩集の表紙を指でなぞっていた。曜日固定で放課後の図書室に拘束されることが図書委員のネックなところだった。仕事内容はカウンターに座って貸し出しや返却された本をパソコンに打ち込むだけの簡単なものだが、放課後に図書室を利用する生徒はほとんどいないので、当番をサボる図書委員が多い。サボったところで特に咎められるわけではないが、紘登は自分の当番をきちんと全うしていた。


 図書室を解放するのを昼休みにしたら、もっと多くの生徒が本を借りにくるだろうし、教室の居心地が悪いときの逃げ場にもできるのになぁと紘登は思う。田中と安藤と過ごしていると、不意に息が詰まってたまらなく辛くなるときがあるのだ。


 読み終えた詩集を棚に戻そうと立ち上がると、一人の生徒が席に座り、頬杖をついて読書していることに気づいた。


 楠 麗哉だ。


 詩集を落としそうになって、危うく落としてしまうところでなんとかキャッチした。図書室ではお静かに。ということで、高揚する感情をサイレント身振り手振りで発散する。麗哉だ。本当に麗哉か? わあ、本当に麗哉だ。何万回も盗み見たのだ、後ろ姿だけで彼だとわかる。頬杖をついて本を読む姿が絵になる中学生なんて、この世に彼しかいない。


 麗哉を図書室で見かけるのは今日が初めてだった。彼はいつも革製のブックカバーをかけた本を読んでいるし、図書室の利用履歴を調べたこともあるけれど、図書室で本を借りたことは一度も無かったはずだ。他人の手垢がついた共用の本は触りたくないタイプかと思っていたのに、麗哉が、今日、奇跡的に図書室に舞い降りている。


 胸が高鳴る。彼とは昼休みに言葉を交わしたところだから、今日なら声をかけても不自然じゃないかもしれない。これは、チャンスだ。


 いや、だけど、僕は、上手く話せない。


 踵を返して、だけど今、図書室には自分と麗哉しかいないことに気づいた。


 こんなチャンスは二度と来ないかもしれない。このまま彼と関わることもなく、本当は気の合わない田中と安藤と退屈で窮屈な時間を過ごして、卒業してしまっていいのか?


 たまたま同じ学校に通い、たまたま同じクラスになっただけの、何一つ築きの無い関係。今、彼に話しかけないと、一生後悔してしまう気がした。


 きっとこの先、僕は何度も麗哉のことを思い出すだろう。その佇まいに瞳も心も奪われている。中学を出て別々の道に進んだ後も、焦がれ、憧れ続けるだろう。だけど、自分は麗哉に思い出されることもなく、ひとかけらも彼の中に残れないまま生涯を終えるのだ。


 そんなの、嫌だ。


 紘登は麗哉に話しかけようと足を踏み出した。そして、麗哉の後ろに立ち、声をかけずに通りすぎた。……何をしている?


 紘登は大きく息を吸い直した。今度こそ話しかけよう。簡単なことだ。何を読んでいるの?とか、昼間は本を落として悪かったね、など、自然にかけられる言葉のカードはいくつか思いついている。よし、決心した。たった一言だ。言う。言える。言えるさ。言うぞ。言うんだ。言うべきだ。言う。言うって。言え。言えって。言え、いいえ、言え、イェー……。


 そう思うのに、何度も麗哉の後ろを通りすぎてしまう。もし麗哉に無視されたら? 鬱陶しいと思われたら? 考えただけで怖いし、そういう自分の臆病な気質が心底憎い。麗哉の後ろを往復するのもこれで五回目、紘登の腹の中にいる臆病者が「いい加減にしろ」と涙目になっている。「このまま終わりたくないのなら勇気を出せ」と叫んでいる。自分に命令をしろ、沢田紘登。"自分に命令できない者は、いつまで経っても家畜に留まる"とさっき読んだゲーテの詩集に書いてあっただろ。


 紘登は口を開いた。しかし、発されたのは自分のものではない、低くて艶のある冷たい声だった。


「何か用か」


 紘登は慌てて口を閉じた。口を半開きにした間抜けな顔を、振り向いた麗哉に見られてしまったかもしれない。麗哉の抑揚の無い声には感情が感じられない。返す言葉に詰まっていると、麗哉が無愛想に言葉を連ねた。


「さっきから俺の周りを歩いているだろう。用があるなら言えばいい」


 「いや〜自分も言いたいと思ってはいるんですけどね」……とは言えず、麗哉の高圧的な物言いに、紘登は萎縮してしまった。


 痺れを切らしたのか、麗哉は本を閉じて席を立とうとした。


 待ってくれ、僕は君と話がしたい――!


 紘登が言葉を出す前に、またもや麗哉の言葉に遮られた。


「じゃあ、俺から言わせてもらうけど」


 席を立つかと思いきや、麗哉はイスを紘登に向かい合わせて、座り直した。長い足を組んで肘をテーブルに置いた不遜な姿勢だが、彼に似合っている。麗哉は顎を引いて問うた。


「お前、ヘッセが好きなのか?」


 思いがけない質問だった。昼休みのあの出来事が、彼の中に残っていたことに驚いた。


「うん……好きだよ」

「何読んだ?」

「『デミアン』と『シッダールタ』だけど……えっと、ヘッセは最近読み始めたばかりなんだ。僕には難解で、読むのにすごく時間がかかるから」


 "もっと気が利いたことを言えていたら、話が弾んだかもしれないのに。"


「――僕には難解だけど、君なら難無く読めるのかな」

「無理に追従しなくていい」


 蛇足だった。魂胆を見抜かれた気がして、紘登は恥ずかしくなって俯いた。麗哉は顎に指を当て、考えるような姿勢を取った。無表情だが、なんとなく笑っているようにも見えた。


「難解か……確かにそうだな。だからこそ、時間をかけてじっくり読み進める価値があるんだ」

「え、君でも読むのに時間がかかるの?」

「かかるさ。ただ読むだけじゃあ何も得られないからな。そんなの意味が無いだろう」


 そう言って、麗哉は笑った。あの楠麗哉が自分と会話をして笑っている。奇跡だ。初めて見るその微笑みが、なんとも尊く儚いもののように見えた。


「他には? どんな本を読む?」

「え? えっと……そうだな、君は?」

「モリエール、ケラー、カフカ、ドストエフスキー、マーク・トウェイン、ゲーテ……」

「ゲーテ!? 僕、読んだことあるよ!『ファウスト』で、とても良いなと思った一節があって……!」

「へえ、話せるじゃないか」

「さっきまで詩集を読んでいてさ……!」


 図書室の解放時間から一時間を過ぎても、紘登と麗哉は話を続けた。言葉を選ぶ間もないほど夢中になっていたので、会話が途切れることはなかった。


 学校を出て「また明日」と挨拶を交わして別れた後、紘登は高揚のあまり拳を天に突き上げた。


 初めて麗哉と喋った。

 それも一日のうちに、二度も!


 脳が痺れるような甘い興奮。炭酸飲料の刺激によく似た甘いスパーク感が、紘登の身体中をビリビリと駆け巡った。

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