浴室の小鬼

 マリはお風呂を沸かすために浴室へ入りました。薄暗い浴室です。蛇口を捻ると澱んだぬるま湯が勢いよく出てきました。不快に思って蛇口を締めましたが止まりません。そうこうしている間に空っぽだった浴槽は汚水でいっぱいになりました。


 入浴を諦めて浴室から出ようとしてドアの方を見ると、ちいさな黒い、黒すぎる影のようなものがドアに寄りかかっていました。それはマリの方を向くと目をぐわっと見開いて「 イ タ 早ク逃ゲナクチャ」とノイズ混じりの声でぎこちなく言いました。マリは「これはなんだろう?まるで小鬼あくまのようだわ……」と思いながら自分の部屋へ向かいました。


 すると突然、心臓が締め付けられたようにギチギチと痛み、マリは胸を押さえました。あまりにも苦しくて「これは助けを呼ばなければだめ!」と判断し、父親か母親に助けを求めるために這うように部屋のドアを開けると、いつ先回りをしたのか——先ほどの小鬼がいました。


小さくて細い真っ暗な体に、大きな目。それと小さな歯が並んだ大きなクチ。マリは自分に念じました。「はやく逃げなくちゃ 逃げて逃げて逃げて」すると小鬼も同じように「逃ゲテ逃ゲテ逃ゲテ」と言いました。不気味な声でマリの心の声を反芻しています。


 マリが恐怖によろめいて壁に手をつくと、小鬼はその手に噛み付きました。顔をあげた小鬼の口元には肉片がついています。「多分、あれはわたしの手の甲の肉。自分の手、しばらく見ないでおきましょう……」と思いながら這って逃げていると、廊下でマリの母親を見つけました。


 「お母さん、たすけて」と、よろけながら掠れる声で言うと、お母さんはマリの方を見て神妙な顔をして「うん、大変だったね」とだけ言って手を広げて迎えてくれました。そう、迎えてくれたはずなのに、なぜかお母さんの腕のなかにはあの小鬼がいました。腕の中で楽そうに、静かに呼吸をして笑っています。マリはそれを見て、なんだか悲しいような、仕方の無いような、空虚な気持ちになりました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る