第一話 本郷腹裂き事件のこと


「うえ…」

 見渡す限りの血、血、血。

 既に多少は乾きかけていたものの、その場に出してあった敷き布団どころか畳にまでじっとりと血が染み込んでいるらしく、踏むとぐっしょりと濡れている錯覚すら感じる。

 長屋に上がる前に裸足になるよう先輩の田名部が言ってくれたのは、こういうことだったのか。

 とんでもない情景に、仕事の合間、つい先ほど遅い昼食にありつくことに成功したばかりの瑞垣青海は口許を押さえた。

「やれやれ、こいつは派手にやったなあ」

 上体を折り曲げ、紬の袖からちょっと出した顎を撫でながらのんびりと言うのは、青海の上司にして東都日報の古株の『探訪員』である田名部だった。

「田名部さん、そんな暢気な……」

 洋装の青海は自分のズボンの裾に血がつくのではないかと気が気ではなく、腿のあたりを懸命に引っ張り上げる。

 いや、本当はもっと考えるべきことがあるのだが、そういうどうでもいいことをしていないと正気を失ってしまいそうだったのだ。

「おまえの名前が青海だから、これは赤海って感じだな……。あかみなら鮪がいいぜ」

「僕の名前はあおみ、じゃなくてせいかいです」

「みんなが『あおみ』って呼ぶだろうが」

 これが芝居小屋で使う血糊ならいいが、無論、そんな偽物ではない。

 これほどの出血なのだから、剥がせばきっと床板にまで染み込んでいるはずだ。それくらいに、おびただしい出血量だった。

 さすがに被害者とされる女性の屍体は運び出されており、当然ここにはなかったが、それでもたっぷりと立ち込めているのは嗅ぎ慣れない『死』そのものの匂いだ。

「暢気っていうか、これはあれだな。放心してるんだぜ。こいつは、久々に酷い現場だな」

 もともとは幕府の同心でこういう現場に関しては場数を踏んだ中年の田名部が、そんな放心しているようには到底見えない。

 今だって、初めての殺人現場に遭遇して完全に言葉を失って立ち尽くす青海とは対照的に、素足で器用に血溜まりを避けながら現場となった部屋を歩き回っていた。

 とはいえ、部屋といっても裏長屋の六畳ほどの空間で、家財道具は必要最低限しか見当たらない。

 若い女性の一人住まいだが鏡台を買う余裕がなかったらしく、長持の上に置いてある鏡が物悲しい。それにすら飛び散った血がべっとりとついており、触る気持ちにはまったくなれなかった。

「そんなこと言っている場合ですか」

「だってな、こりゃ、どこから手を着ければいいかわからんからな」

「俺たちが手を着ける必要はないでしょう」

 ここでよけいな真似をしたら逆に祟りとかありそうな気がするし、何よりも、警察が黙ってはいないだろう。

 そんな青海の気持ちをよそに、田名部が手を合わせて誰もいない畳の上で一礼したので、慌てて自分もそれに倣う。

 そうして、まじまじと悲惨な殺人事件の現場を見渡した。どのみちこれで取材は終わりなのだから、こんな凄惨な現場からはさっさとおさらばしたかった。

「さ、取材だ取材」

「えっ?」

「え、じゃねえよ。特別にこの長屋に入れてもらえたんだからな。初めてのヤマがこんなに派手とは、おまえもすごい運があるんだろうな」

「そんな運、困っちゃいますよ。でも……」

 特種をものにしようとする意欲に燃える田名部とは対照的に、大学を出たばかりの新人の青海は、この現場を前にしては元気が出ようはずもない。

「でももヘチマもねえよ。まずは、何ごとも場数を踏まなきゃならねえんだ」

「それはわかってます」

 青海はぼそぼそと言う。

「何か警察も気づかないような手がかりはないかねえ」

 そう言いつつも、田名部は手近なところに置かれていた手鏡を取り上げてその中を覗き込んだりしている。

「物取りの犯行、ってわけじゃなさそうだな。部屋が荒らされてない」

 寧ろ、荒らしているのは田名部のほうではないのかと思えるほど無造作に、彼は手鏡をひょいと取り上げる。

「財布だけ取っていったのかもしれませんよ」

「まあ、それもあるか」

 無精髭を引っ張りつつそんなことを呟く田名部は、きっと今頃事件のあらましを考えているのだろう。

 そうやって何かを考えていないと、こちらは具合が悪くなりそうだ。

「ちょっとあんたたち。踏み荒らすだけなら帰った帰った」

 仏頂面で三和土に立ち、二人を見張っていた大家が目尻を吊り上げて言うものだから、青海はびくっと身を竦ませる。地味な着物姿で髷を結った老女は、ひどく不機嫌な様子だった。

「すみません、そんなつもりじゃ……」

「まったく、これだから『探訪』なんて入れるもんじゃなあなかったよ。しかもこんな子供まで連れちゃって……本当にこの子、東都日報の探訪なのかい? さっきから受け答えもはっきりしないし、頼りにならないったらありゃしない」

 滔々と述べられた文句の中で子供と言われたのは当然青海のことで、かっと頬が熱くなる気がした。

 自分が童顔なのは、青海自身が一番よく知っているからだ。

 顔が丸っこくて目が大きいことが一番の原因だと思う。田名部みたいに貫禄のある顔つきか、もっとしゅっと細い顔だったりすれば、目が大きくてもここまで子供っぽくは見えないのに。

 おかげでどこに行っても学生扱いで半人前と見なされ、青海としても困っているのだ。

「俺たちが言ってる警察の見落とした手がかりっていうのは、あんたのことだよ」

「え? どういうことだい?」

 大家は不思議そうに眉根を寄せ、田名部の大ぶりな造作の顔を眺め回した。

「だからさ。警察にも言ってないこととか、こう……何かこの部屋とか、変わったこととか見当たらないかねえ。その、広橋さんの様子でもいいんだけどさ」

「その手には乗らないよ」

 ぷいと顔を背け、大家は田名部の言葉を遮る。

「だいたい、探訪なんてろくなもんじゃないからね」

「だけど、こんなところで殺しがあったんじゃ、周りの人間が犯人じゃないかって考えるのが普通だよ。事件が解決しない限り、次の店子が怖がって寄りつかないだろ」

「……まあ、そりゃそうだ。けどさ、そんなこと言っても、店子の部屋に来るなんて殆どないよ。変わったことなんて言われてもねえ」

 ため息交じりに言ってのけた大家は、困ったような顔になる。

「ほかの社の探訪員は来たのかい」

 さりげない調子を装いつつ、田名部は大家に問うて核心に迫った。

 このネタが東都新報だけのものか、あるいは他社も追っているのか。それによって、誌面における記事の大きさがぐっと変わるからだ。

 もしこれが我が社の独占記事になるのなら、扱いは勿論一面。

 おそらく絵師の挿絵入りでばーんと大きく扱い、帝都中をこの記事が駆け巡るようになだろう。

「まだだけど、静かなのも今日だけだろうよ。このあたりじゃ、昔から帝都日日新聞の古株の探訪がいるからねえ」

 その言葉に、田名部が嫌そうに白髪の交じった眉を顰める。

 帝都日日新聞は東都日報のライバル社で、それこそ新聞社が創設された頃からずっと部数を競い合っていた。彼らが事件を嗅ぎつければ、絶対に急いで記事にするに決まっている。

「どっちにしたって、あんたらによけいなことを吹聴されたんじゃ、次が決まらないよ」

 もともと畳は引っ越しのたびに店子が持ち込むので、この畳もおそらく殺された広橋加恵の持ち物に違いない。畳の下にまで血が染み込んでいるだろうし、その床を掃除するのは大家の仕事だ。そんな汚れ仕事をしたうえに店子が決まらないのでは、さぞやぞっとしないことだろう。

「そういうおどろおどろしいのが好きなやつが、喜んで入るかもしれないぜ」

「適当なことを言いなさんな。だってほら、あんたの連れなんて男のくせに真っ青じゃないかい」

 ぐうの音も出ない指摘に、頬を染めることだってできやしなかった。

「まったく、加恵ちゃんってきたら、別嬪で身持ちも堅そうだったのにねえ。やっぱりカフェーだっけ? そんな浮ついたものに勤めるような女の一人暮らしなんて、ろくなもんじゃないよ」

「そいつは偏見が過ぎるってもんじゃないのかい」

 窘めつつも、田名部は口を開いた。

「そういや、最初に発見したのは誰だい?」

「何だい、警察に聞いたんじゃないのかい。向かいの長屋のお園って子だよ」

 新しい人物名が出てきたため、青海は素早くそれを頭に叩き込む。

「お園さんね。何でまた、ここを覗きに来たのかね。すごい悲鳴でもしたとか?」

「悲鳴がしたならほかの連中だって見に来るよ。放っておくもんかい」

 確かに、悲鳴が聞こえたならば朝まで屍体が見つからないということもないだろう。

「たまにおかずを分け合ってたって話だ。醤油でも借りに来たんじゃないのかね」

 さりげない過去形に自分で言って悲しくなったのか、老女は目を伏せた。

 親しい近所づき合いをしているのであれば、そういうことだって珍しくはない土地柄だ。青海だって、幼馴染みとは米や味噌の貸し借りだってする。

 ちらりと台所を見やると、調味料が並んでいる。小皿の上に乗った味噌が干涸らび、この家のあるじが死んでしまったことを裏づけているようで何か物悲しかった。

「そのお園さんって子に、話は聞けませんかね」

「だめだめ、すっかり怯えて寝込んじまってるからね。うちの子に面倒見させてるくらいなんだ。話を聞くなんてもってのほかだよ」

「何か聞いていませんかね」

「さあ……戸を開けたときにやけに青臭い匂いがしたって言ったけどねえ。血の臭いの間違いだろって思ったよ」

 田名部は一つため息をつき、青海に「おまえ行ってこい」と命じた。

「僕が!?」




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東都日報絵師の事件帖 /著:和泉桂 富士見L文庫 @lbunko

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