東都日報絵師の事件帖 /著:和泉桂
富士見L文庫
序
「下絵ならできたぜ。どうだい、青海」
何年も使い込んですっかり綿がくたくたになった座布団に腰を下ろした来客に対して茶の一つも出さずに、この狭い長屋の主は文机に載っていた一枚の和紙を差し出した。
よほど暑いか寒いか、そうでなければ季節を問わずに殆どを袷で過ごす安和貴音は、今日もだらしなく単衣を身につけている。
とはいえ、後援者か姐さんの貢ぎ物か、貴音が身につけているものはたいていが高価な品で、高級品のはずの青海の洋装よりもずっと値が張るらしかった。
もっと寒くなれば女物の派手な打ち掛けを羽織ることもあり、存外、貴音は衣裳持ちなのだろう。
「どれ」
受け取った和紙に視線を落とした瑞垣青海は、そのあまりのなまなましさに驚愕した。
赤い。
どろどろと赤い、赤い……。
自分が腰を下ろした青畳が、そのまま溶けて血の海に化するかのような錯覚に襲われてしまう。
画面いっぱいに描かれた女は仰向けに倒れ、はだけた衣の乳房も露になっている。腹は鋭い刃物か何かで縦一文字に引き裂かれ、そこから引きずり出された腸は半紙の上に丁寧に並べられていた。
彼女の腹から流れ出したおびただしい量の血が、畳をじっとりと濡らす。
見たことのない凄惨な殺人事件の現場だからこそ、こんな光景だったと言われれば頭から信じてしまえるだろう。
女は、このように殺されたのだ……。
「おい、どうした?」
声をかけられた青海ははっとし、訝しげに自分を見下ろす貴音の人形のように端整な顔に視線を移した。
「あ……いや……」
気づくと自分のシャツから出た手が震えている。
自身も微かに昂奮しているのか、端整すぎるほどに端整な貴音の面も微かに赤らんでいる。まるで貴音の描く美人画のような艶やかさで、思わず彼に見惚れかけてしまう。
と、視線に気づいた貴音が喉を震わせて笑った。
「まったく、ぼうっとして、そんなに俺の絵がすごいのかい」
からかうような声は涼やかに響き、青海は押されるように大きく首を縦に振っていた。
「すごい。まるで生身の人間みたいだ……」
「屍体だぜ? 人間に見えなくてどうするよ」
「揚げ足取るなよ……実際ものすごいよ。この絵……見たままを描いたって言われても信じそうだ。まさに『血みどろ貴音』の面目躍如だ」
「当たり前だろ。こっちは商売なんだ。上手く描かなかったら食いっぱぐれるぜ」
青海としては精いっぱいの賛辞のはずが、その反応に少しむくれたような様子で言い、板の間に直に腰を下ろした貴音は煙管の一式を手許に引き寄せた。
白い膚。印象的な切れ長の目。尖った鼻梁に、ほっそりとした顎。赤い唇。
幼馴染みの貴音はこれまで青海が出会った中で、一番の美形の部類に入る。出会った頃は女の子かと思ったという当然のような逸話があるが、それで一目惚れしたりはしなかった。
何しろ、怖かったのだ。
この男の化け物じみた美しさが。
大人になるにつれだいぶ慣れてきたとはいえ、それでも、彼の美貌は凡庸な容姿の青海にとっては今なお畏怖の対象だ。
そんな貴音の生み出す絵は美しくも凄惨で、どこか悲しい。
本来ならば陰を描写しない日本美術の伝統に則って描かれた浮世絵は、どことなく陽気さが根底にあるのだが、貴音の絵にはそれが欠けている。
だからこそ、いつも惹きつけられてしまうのかもしれない。
「あとは彫り師に渡して版画にするって寸法だ」
「ああ……こんなものがばらまかれたら帝都中は大騒ぎだ」
「なあに言ってんだ、俺に依頼したくせに」
くっと鼻先で笑い飛ばした貴音は煙管でかんと盆を叩いた。
貴音が描いたこの下絵は新聞の記事となって帝都で販売されるのだ。
青海はもう一度下絵に視線を落とす。
板の間に転がった女の腹がかっさばかれ、臓物がはみ出している。それをやけに写実的に描いており、これはさぞや人目を惹くだろう。
本当に、この男の才能はとんでもないものだ。
今とは比べものにならないほどに浮世絵が盛んだった徳川幕府の時代ではなく、この明治の御代に彼が産まれたことが残念でならないと思えるほどに。
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