第8話

水上が俺たちの領域に踏み込んでこようとした。それは今まで避けてきたことのはずなのに、どうして今日は……。

 授業中も、手は動かせども頭の中はそのことばかり考えていた。あのまなざしを思い出すたびにシャーペンを握りしめてしまう。

 水上は困っている人を放っておけない。そういう奴だ。だからクラスで浮いていた俺に声をかけてくれたし、監禁から解放されて学校に復帰したときもルールを気にせず接してきてくれた。


 ……それだけを知っていたなら、先ほどの俺はもう少し違った反応ができたかもしれない。

 でも、あの地獄での光景が忘れられない。その点においては俺も、あの場所に心を捕らわれたままなのだ。


 ああ、いっそのこと本当に水上を強く拒絶して、金輪際話しかけてこないようになってしまえば……。

 散々、心の中でできるできると言い張ってきたが、正直なところ想像ができない。

 だって俺は、人を殴ったことなんかないのだから。

 

 校庭の土気を含んだ風が流れ込み、早くも夏の訪れを予感させる五月の午後であった――。




「カガミクン、国へ帰ろう」


 六時間目の瞑想も終えて放課後。昼休みと変わらないノリで山川が話しかけてきた。今日は在籍するバレー部をサボる気のようだ。ちなみに彼から出てくる言葉の半分くらいは何かしらの作品からの引用である。


「今日は何もないのか?」

「ないんだな、それが」


 バレー部以外にも軽音学部やカラオケオフ会コミュニティなど、様々な人の群れに属している男なのでたいていの放課後は予定が入っていると聞いていたけど。もしかして気を使ってくれているのだろうか。


「あの、俺別に水上にフラれたりフッたりしたわけじゃなからな」

「え、なにその話! もっと詳しく!」


 ……忘れてやがった。そうか、適当さが山川駿という男の真骨頂であることを忘れていた。たまたま予定が空いていて近くにいた俺に声をかけただけなんだ。

 それなら俺も”気兼ね”なく……。


「鏡くん」


 帰ろうぜ、と少し明るめに声をかけようとしたところで、教室の入り口から透き通った声で俺の名を呼ぶ声が。


「帰りましょう」


 何故ああも内面はぐちゃぐちゃなのに声と外面は良いのか。性格の悪さは顔に出るという通説はどこへ。


「帰らないの?」

「いや、一条、悪いけど俺、山川と帰りにゲーセンに行く予定が」

「え、寄るの? いいよー」


 …………。

 水上にも通じる天然のリアクションいただきました。一条さんニッコリ。


「え、じゃあ三人で帰ろうよ。隣のクラスの一条さんでしょ?」

「ええ、あなたは?」

「山川駿。駿でいいぜ」

「ああ、そういえば年末にあった生徒会の打ち上げにいたわね」


 そんな感じで二人はあっという間に互いの壁を崩していく。さすがはリア充。あんな自己紹介は再放送でやってた昭和のドラマでしか見たことない。

 しかし何にせよ、一条がまた一つ現実へと一歩踏み出せたのは良かった。この調子なら俺が解放されるのも時間の問題かな。

 俺はこうして両腕を組んで二人の会話が終わるまで瞑想しているとしよう。


「よし、じゃあ駅まで行こうぜ」

「ほら行くわよ鏡くん」

「……っ!」


 会話がまとまったらしく移動する運びとなったわけだが……。


「あれ、どうしたの鏡? スタンダップハリー」

「う、うざっ!」

「くすくす」


 何も知らない山川を尻目に腹を押さえてうずくまる俺。振り返りざまにこちらへ……膝? 肘? なんか固いのを食らったらしい。瞑想していたから分からん。ただ一条からなのは間違いない。


「山川君、悪いけど下駄箱まで先に行っててもらえるかしら? 私が連れていくわ」

「オッケー先行くわー」


 そう言って振り返りもせずに教室を出ていく山川。こいつ俺が火だるまになって下駄箱に現れてもゲラゲラ笑ってそうだな。

 教室にはまだ何人かの生徒が残っていたが、みな一様に奇異の目線をこちらへ向けていた。一条はどんな顔をしているだろう。多分ニヤけてるのだろうな。


「早く立ちなさい」

「いって」


 周りに聞こえない大きさで俺の耳元でそうささやき、こちらの右手を捻って無理やり立ち上がらせられる。俺もびっくりしたけど多分周りはもっとびっくりしてるぞ。


「離せよ」


 そのまま俺は一条が持っていた俺の鞄をひったくって教室を出ていく。それと同時になんでこいつと一緒に下校しなけりゃいけないのかと今更ながら不満が湧いてきた。

 しかし時すでに遅し。三人が別々に帰るのであれば問題はないが、一条を抜けさせれば基本やわらかメンタルのこいつはまた闇堕ちしかねないし、俺が抜ければ山川がSM堕ちしかねない。そして山川だけ抜くのは俺だけでは無理だ。


「はぁ」


 ……数歩後ろに一条がついてきていることを確認し、俺は小さくないため息をついた。仕方がない。今日のところはこれ以上状況が酷くならないように仮面を被って明るく立ち回ろう。コロッケとかニッコニコで食ったりさ。


 俺がそんな風にげんなりしながら一階まで降りてきたところ、下駄箱で座ってスマホを弄っている山川を見つけた。よーしここは明るく――。


「お待たせ山川ー…………」

「あ、永野くん……」


 俺にしてはやけに明るいあいさつは、しかし当の本人には届かなかった。その間に一人の少女が立っていたからだ。


「水上……」


 吹奏楽部のはずの水上玲衣が、何故かジャージ姿に通学鞄という出で立ちでそこに立っていた。表情はどこか気恥ずかし気で、まるで先ほどのことなど忘れてしまったかのようだ。


「今から帰りなら一緒に帰れない、かな?」


 そして恐れていた言葉をあっさりと口にした。





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