第7話

教室へ戻ると、いの一番に水上が俺の元へすっ飛んでくる。何人かのクラスメートは顔を背けた。


「また急にいなくなってー」

「ひっつくなよ」


 こちらの袖をぐいぐいと引っ張りながらマジな顔で怒る水上。まるで本心から気にしてくれていたかのよう。

 俺はそれを振り払って自分の机に向かう。その間誰とも目は合わなかった。


「待ってよー、ってあれ、なんか頬赤くない?」

「いやそんなわけ……」


 初めは照れているとからかわれたのかと思ったのだが、先ほど一条に頬をぶたれていたことを思い出し言葉に詰まる。あいつ、顔だけは目立つからやめろっていつも注意していたのに。


「なんでもない」


 とっさに下手な返しをしてしまった。何かを隠しているのがバレバレである。それがたとえ年端もいかない(思考の)女子だったとしても。


「なんでもなく……」

「うるさい、殴るぞ」


 仕方がなく、俺は最も非人道的な手段を行使した。誰もが嫌う暴力による恐喝だ。

 最終手段とはいえこのような行動に出てしまうとは、俺はどんどん人として落ちていくな。

 俺の言葉に水上は目を丸くさせ、哀しみの目つきをこちらに向けてくる。

 ――それから十秒ほどは経っただろうか。


「……分かった」

「……そうか。なら今後も俺に話しかけようとする――」




「殴ってよ」




 ――え。

 

 一気に教室が静まり返った。聞き耳を立てていた人、状況の異常さを感じ取った人、そしてそれに同調した人達が一斉に押し黙ったのだ。俺自身も水上から普段聞きなれない重い声が発せられて少しひるんでしまう。


「殴られたら、その右足を引きずっている理由も教えてくれる」


 続けて出た言葉に、俺は自分が右足を痛めていること、先ほど強く踏みつけられたこと、そしてその前に通学方法について水上と話したこと、を思い出した。


「…………」


 少女の思わぬ反撃に俺は言葉を失っていた。クラスメートからの目はともかく、頭の中ではいかにして一条の秘密を守り抜くか、そのことだけに思考を巡らせていた。

 なに、なにを考えているんだこいつは。俺が殴ってこないとでも思っているのか? もう俺にはこの手を汚す道しか残っていないのだから、そんなこと心ひとつ決まれば……。


「…………」


 いつもとは毛色の違う水上の表情に耐えられず、俺は思わず目をそらせてしまう。五時間目は間もなく始まるはずなのに、時の経過は至極ゆっくりとしたものだった。


 …………。

 

 ……。



「……わかっ」

「ってちょっと待って、なにこの空気?」


 俺がある決断をしかけたとき、教室の後ろの扉がするすると開き、ロッカーに押し込むはずのバレーボールを抱えた山川駿介が能天気な言葉を発してそれは遮られた。


「駿くん……」

「鏡と玲衣ちゃんが、喧嘩? それは鏡が悪いな、間違いない」

「おま――」


 俺が不当な当て推量をさせられたことに反論しようとしたところで国語教諭が入ってきて時間切れとなった。俺も水上も自分の机に戻る。


「何したん?」

「黙れって」

 

 先ほどの手前、殴るぞとは言えなかった。あとは感謝の気持ちもあったからだろう。山川の竹を割ったような性格に助けられたのは事実だから。


「こいつとは何でもねえよとか言ったんだろ? お前が悪いんだぞ」

「ほんとやめろよお前……」


 基本的に恋愛脳なので明後日の方向の答えが来るのは不憫だと思うけど。とはいえ山川のおかげで何とか逃げ切ることができた。水上のやつ、何考えてるんだ……?

 俺はちらと斜め前の彼女の方を盗み見る。教科書を開きつつ、どこか思いつめたような表情を浮かべていた。


 ……その顔を見て、俺の中の水上玲衣という存在の実像が、良い方にも悪い方にも揺らぎはじめて、俺はますます彼女のことが苦手になった。

 もっと厳格に距離を置こう。それがお互いのためだ。

 黒板に書かれた論語の文章を書き写しながら、俺は強くそう思うのだった。




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