第6話




 それが、ある意味で俺たちにとって、新たな関係の始まりだった。

 あの事件で心に大きな傷を負った一条は、見栄をはって俺と同じタイミングで学校に復帰したものの、内心では爆発しそうな”思い”を抱え続けていたのだろう。

 思い……というのは、強迫観念だったり、屈辱感だったり、そしてそれ以外の、彼女にとっても未知の感覚であったり……。


「鏡くん」


 俺が水上の能天気さに頭を痛めているところに、教室の入り口から音もなく顔を出してこちらに声をかけてくる。その瞬間、教室は決まって静まり返り、一条は申し訳なさそうな顔をする。

 そして水上の疑いの視線を尻目に、二人してどこかへと連れ立って出ていく。




 ――この学校のルール、「永野と一条に配慮すること」

 それには二つの意味があることを、当の俺たちを含めて誰もが認識している。一見すると、酷い体験をしてきた俺たちを気遣う言葉に聞こえるが、実際はそこまでクリアなものではない。


 あんなことがあったから、一条さんには話しかけないでおこう。遊びに誘わないでおこう。クラスメートだけどLineグループには入れないでおこう。

 だって下手に関わったらまた犯人に……。


 配慮は、排除の性質も秘めていた。猟奇犯罪者の再犯率など知らなくとも、未だ犯人が捕まっておらず、何をされたかも詳しく聞かされていない他の生徒たちからすれば、被害者であろうと二人は異常者に変わりなかった。

 事件の被害者の苦しみは、こうして日常に回帰してもなお続く。おそらく日常が楽園だったであろう一条にとって、それはどれほどの地獄なのだろうか……。




 だから俺は、彼女の欲望を受け入れることにした。精神的ショックによる傷害願望。おそらく一条はそのような状態なのだろう。

 初日こそふさぎ込んで誰ともろくに会話していなかった一条も、一週間、二週間と経過すれば少しずつ感情を表に出せるようになるはずだ。そこにかつての友人と、皆から慕われていた模範的な自分がいるかどうかは分からないが。

 ただ、時間がかかったとしても一条がまた元の生活に戻れるのであれば、俺が協力しない手はない。今まで全く関わりのない同級生だったし、何より俺自身に協調性なんてものが備わっていなかったはずなのだが、そこはあの事件が招いた奇妙な副次的効果だ。


 こうして今日まで俺たちは、休み時間に連れ立って近場の空き教室に入り込み、行為に及んできたのだ。

 



 …………。


 ……。 



 理科室に入ってから二十分ほどして、俺たちは衣服を整えて昼食にありついていた。

 先ほどまでの激しい雰囲気からは打って変わって、再び教室は静かな昼下がりを取り戻している。

 俺たちは先ほどの、一見すると険悪になりそうなやりとりを終えてなお、六人がけの机に隣り合わせになって腰かけていた。


「あ」


 俺が袋から先ほどの食べ残しのパンを取り出そうとしたとき、右手首に鈍い痛みが走って思わず取りこぼしてしまった。先ほど地面に押し倒されたときに右手を少しひねってしまったようだ。


「……あげるわ」

「いいよ。お前は少しでも俺の見ているところで何か食ってくれ」

「何よそれ。あなた私の親にでもなったつもり?」


 ……つい少し前に俺もそんなこと考えてたよ。水上に対してだけどな。

 ふいにあいつの無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。


「鏡くん?」

「悪い、なんでもない。とりあえず早く済ませちゃえよ」

「……ええ」


 ようやく両頬のジンジンとした痛みが消え始めたので、手持無沙汰な俺は理科室のガラス棚にしまわれた器具の数々を物色し始めることにした。透き通るような容器と液体に満たされたアルコールランプ、ガラスとゴムというアンバランスな組み合わせで作られたシリンダーの数々。高校生にまでなるとあまり触ることのない、かつてワクワクさせられた実験器具の数々たち。


「火って熱いのかしら?」

「……」


 俺が小学生の頃の理科の実験の思い出に浸っているところに、優等生だった者から頭の悪そうな問いが発せられる。俺は一気に思い出の世界から現実へと引き戻された。


「火はやめろよな」

「そうよね」


 まさに人格破綻者同士の会話。もし何かの手違いで俺が全身火だるまになったりしたらこいつは高笑いしているかもしれない。ヤバい。

 一体どういう思考で俺を殴ったり縛ったりなんていう行動にたどり着くのか詳しくは不明だが、他の人に危害を加えられるよりはずっとましだからいいなりになるしかない。もし本当に火でも使わなきゃこいつが壊れてしまうようなら、その時も……。


「ねえ鏡くん」

「ん?」

「どうして私の言いなりになってくれるの?」


 もう慣れてしまったこの距離感で

 まあ男子と女子では思考の順番が違うとか聞く……というかそもそも今の今までそれを気にしていなかったっていうのは俺が気にされていないことの裏返しだよな。こいつほんと鬼畜。


「昔のお前に戻ってほしい。それだけだよ。他の奴にこんなことするようになったらお前転校必至だから、そこは自覚して自制しろよな」

「分かってる。私は異常者……私は異常者……」

「……悪い。そこまで自己暗示かけなくていい。戻ってこれなくなるぞ」

「そうなの? 難しいわね」


 腕を組んでうんうん悩み始める一条。昔はこんな風にして周囲の意見をバカ真面目に聞いて、その都度ツッコミを入れられる愛されキャラだったのだろう。そんなことを思うと胸が少し痛んだ。


 そんな一条の普通の少女としての一面が見られただけでも、この昼休みは価値があったと思う。

 水上の近くにいるよりも一条といた方が落ち着いてしまう今の俺は、やはりまだ現実を生きていないのかもしれない。


「たまにはクラスメートにも話しかけてみろよ」

「してるわよ。ただ気を使われてあまり続かないの」


 なんだ、しているのか。ということは話しかけず話しかけられもしないのは俺だけか。あ、これクラス替えに一人だけ馴染めずぼっちになるパターンに似ているぞ。


「他人の心配している場合じゃないわよ?」

「……見透かされているようだ」


 特にアクションを起こす気はないが、一条が完全復活したときに俺がどれだけみじめになっているのか少し気がかりだな。


「まあ、最低限の居場所だけは確保しておく」

「山川君はあまり友人として適していないと思うの」


 山川とは同じクラスの友人のことである。人類史上かつてないほどに適当に生きている世捨て人のような16歳だ。その性格故か友人は多い。


「そうしたら俺の友達はいよいよゼロになる」

「ゼロになるの?」

「……なるだろ」


 俺の言葉に複雑な表情を見せる一条。スクールカーストの高みから久しぶりに下々の者を目の当たりにしてしまって憐憫の情でも湧いたのだろうか。


「水上さんは……」

「……」


 水上は、もう友達とは言えないだろう。それはお互いの共通認識のはずだ。


「やっぱり、あれは私たちの勘違いだと思うわ」

「そう思うか」


 俺たちの脳裏には、あの地獄の日々の最後の光景がフラッシュバックしていた。

 暗闇に差し込む換気扇から漏れ出る光。電話越しに怒鳴り散らす男。開いたままの裏口。そして……。


「それが正しいと思う」


 そこでお互いに回想を切断し、振り切るようにして立ち上がった。ちょうど五時間目の授業が始まる頃合いだ。


「戻るか」

「ええ」


 二人の言葉に温度は無い。俺たちにとって教室はもはや落ち着ける場所ではないからだ。

 先に戻る一条の少し重そうな足取りを見て、その重さを少しでも軽くしてやれたらと再び思う俺であった。



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