第44話 恩師
金内さんのいない部屋は静かで、空調と水槽の音だけが室内に響いていた。
広い部屋に憧れはあるが、独りでいると落ち着かない。
ベッドの代わりになりそうなくらいゆったりした3人掛けのソファに、時間をもて余した身体を預けて金内さんを待つ。
窓の外は雲ひとつない夕空で、窓の近くで金内さんの飼い猫が、眩しそうに目を細めて夕陽を眺めている。
俺はガラステーブルに置かれた原稿を手に取り、金内さんの言葉を思い出す。
「次の世代に伝えていきたい」
金内さんはどれほどの苦労をしてここまで来たんだろう。忙しい仕事の合間を縫って俺の原稿に向き合ってくれた。
金内さんがこれまでの経験で得たものを惜しげもなく俺に伝えようとしてくれた。
「やあこころくん、待たせたかな?」
春夫さんがダボシャツに腹巻きの、いつもの格好でやってくる。ただし、腹巻きの色が緑色で、どこぞの3刀流の剣豪を思わせた。
「あれ? なんか左の胸のところ濡れてますよ?」
「……ああ、洗濯物を取り込んでいたら夕立がね。それより、作品を読ませて」
夕立で濡れたにしては不自然な高さと位置のシミに違和感をおぼえたが、春夫さんが原稿を読み始めたので追求できなかった。
「へぇー、『太郎が望む桃』っていう作品なんだね、どれどれ……むかしむかしあるところに、お爺さんとお婆さんが住んでいました。か、馴染み深い始まりだね」
「え?全部読みながらコメント頂けるんですか?」
とてもありがたいことだが、日が暮れてしまう。
「ハハハ、冗談。読んでおくから帰っていいよ。明代が私にバトンタッチしたってことは、明代からはもう何も言うことがないって事だからね、親の役目が終わって子が巣立つ時だ。あとは自信を持って羽ばたいていくと良い」
「ええと……何の冗談ですか?」
「こころくん、これは冗談じゃない。明代は別れが苦手でね、もう会うつもりは無いんだよ。これからは商売敵であり、ライバルになる。次回作を待ってるファンたちの為にも、お互い自分の作品に向き合わなくてはならない。明代は器用な人間じゃ無いからね、そういう心構えで頑張ってほしい」
「いやいやいやいやいやいやいや、俺の力なんてまだまだ全然無いですよ。ひとりで完成させることなんて出来なかった。これからも同じ仲間としてアドバイスを……」
言いながら自分の言っている事が甘えだって気付いた。本来こうやってアドバイスなんて貰えるものじゃない。
「感想が聞きたければ今後は私が答えるよ。でも、プロとして良い作品を手掛けるなら、自分なりの答えを探して、自分で開拓していくんだ。それが君の作品で君の道なんだから」
いつも冗談ばかり言っている春夫さんとは思えないほど、真剣な眼差しだった。
怖い。
それは向けられた期待への重圧なのか、本気で夢を追う事への恐怖なのか。
例えるなら、初めての演奏会本番の日に、たくさんの観衆の視線を浴び、たったひとりで練習の成果を披露する時のような、興奮と緊張と、それまでお世話になった人達への恩を返さねばならないのに、上手く出来る自信がない不安。
ミスは許されない。というよりしたくない。でもまだ、演奏はこれからなのだ。
「あなたには作家として大切なものが、ひとつ足りてないわ。自信よ。根拠がなくてもいいから自分に自信を持ちなさい。いつでもその時に出せる全力で作品を作りなさい。答えなんて無いし、出来ることしか出来ないんだから、自分の作品に誇りを持ちなさい。そうやって自信作を世に送り出し続けた者だけが、好きなことでご飯を食べられるの」
金内さんが初めて会った俺にくれた言葉だ。
根拠が無いのに自信なんて持てるはずがない。当時の俺はそう思った。今までの人生で、自分に自信を持てた事なんて1度も無い。
だけど、いまは根拠はある。
金内さんから、たくさんの事を学んだ。
今までの厳しい指摘出しは、作品が世に出た時に酷評されても負けない、強い精神力を身に付ける為の特訓だったんじゃないかとさえ思える。
「そんなに考え込まないで、こころくんがデビューしたら、嫌でも顔を合わせる機会が来ると思うよ、そしたらまた改めて遊びに来ると良い。その時は特製のルイボスティーをご馳走しよう」
「下剤入りの?」
「そう、格別なやつをね」
春夫さんはいつものようにイタズラ心に満ちた顔で言う。
俺は玄関に向かい靴を履くと、明代さんにも聞こえるように大きな声で言った。
「ありがとうございました! お世話になりました! また必ず遊びに来ます!」
春夫さんは微笑んだあと、内緒話をするように声を潜めて手招きした。
「こころくん、実は小説において、すごい攻略法があるんだ。その法則を使えば、絶対に読者の心を掴める。小説だけじゃなくて漫画や映画。すべてのエンターテイメントに応用が可能な必勝テクニックだ」
「いいですね、ぜひ聞かせてください」
「今日の決意を、忘れないことだ。必ずまた、遊びにおいで」
俺は口を開くことができず、大きく息を吸って涙を堪えると、答える代わりに春夫さんと握手してマンションを去った。
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