第28話 恋
「初めて出会ったのは幼稚園。石川さとみは焦っていました。他の園児は、すでに着替えを済ませて帰る準備を整えていて、普段ならひとりで上手く出来るのに、その日はボタンをかけ違えてしまい、焦れば焦るほど着替えが遅れました。先生は別の親御さんの相手をしていて、泣き出しそうになっている石川さとみに気付いていません」
「どうしたの?」
「そう声をかけたのはイッチーでした。それはただの偶然でしたが、石川さとみにとっては、白馬に乗った王子様でした」
「アタシ、みちよしくんのおヨメさんになゆ」
「その日から、口癖のように言いました」
「一方で、イッチーには彼女とは違った感情が芽生えていました。例のボタンの一件が、石川さとみの母親に伝わり、母親から先生へ、そしてイッチーの母親が知り、イッチーは称賛されました。誰かを助ける事が素晴らしいことだと知り、模範的な人間を目指すようになりました」
「偉かったね、かっこいいね」
「そうした正しい行動が褒め称えられる時代を経たおかげか、子供絵画コンクールで入賞を飾った作品を含めて、当時のイッチーが描いた作品は、正義の名の元に悪をくじく事をテーマにしたものが多くありました」
「しかし、小学生も高学年になると、良い子ぶってんじゃねーよ時代が訪れます」
「みちよしとけっこんすゆ」
「屈託もなくありのままの気持ちを素直に表現出来る時期も過ぎ去り、照れや傷付くことを怖れて素直になれなくなった二人は、互いに距離を置くようになり、だんだん疎遠になっていきます」
「二人の溝を決定的にしたのは、クラスのガキ大将タイプの同級生が石川さとみを好きになった事でした。仲の良かったイッチーは妬まれ、優等生ぶった態度が気に入らないとイジメが始まり、イッチーの模範的な態度は消え失せました、正しい行動が敵を作る事を経験したのです」
「それは、暗黒の時代でした」
「学校から帰って、部屋で絵を描くことだけが、イッチーの心の支えだったんじゃないか。ナイフの雨が降り注ぐ絵や同級生が惨殺される絵を描いていた事から、そう感じました」
「しかしイッチーには、頼りになるお兄さんがいました」
「見るに見かねた友人のY氏が、そのイッチーのお兄さんに相談したのです」
「事情を知ったお兄さんは、イジメの事は一切言わず、イッチーの未来の為に留学が一番だと家族を説得し、先生とも相談してイッチーを留学させることにしました。親戚や知人を訪ねて協力を仰ぎ、高校を退学して働きに出て費用を稼ぎました」
「当時は小学生が海外に留学して絵の勉強をするなんて考えもしない事でした」
「月日は流れて、日本の高校入学と共に帰ってきたイッチーは、騎士道精神の塊みたいになっていて、まるで暗黒面に落ちる前のイッチーでした」
「ハンガリーのことわざに逃げるは恥だが役に立つ、というものがありますが、自分の特異分野を発揮できるに身を置くことで、イッチーは自信と尊厳を取り戻したようでした」
「イッチーが留学している頃から、石川さとみは寂しさを埋めるように家業の手伝いに明け暮れました。看板娘と呼ばれ、石川さとみを目当てにやって来るお客さんが、行列を作るほどの人気の弁当屋でした」
「いつも来てくれてありがとうございます」
「たくさん買ってくれるから助かっています」
「持ち前の明るさと容姿、塩対応ならぬ砂糖対応でお客は増え、弁当屋で働く女子高生が可愛すぎると話題になったのは良かったのですが、ついにはストーカーが現れてしまいました」
「ストーカー被害に悩む石川さとみの事を知ると、イッチーは湧き出る騎士道精神を発揮してストーカーを撃退しました」
「でも、運の悪い事にストーカーは権力者の息子でした。手段が野蛮だったことを咎められ、法治国家である世の中は、イッチーを暴行罪で逮捕しました」
「小学生のイッチーが受けた、傷が残るほどの暴力を黙認したこの国は、有力者の胸ぐらを掴んだだけの暴力を容認しました」
「私と関わると、倫由に迷惑をかけるね」
「石川さとみは言いました。イッチーがイジメられたのも、留学で寂しい思いをしたのも、逮捕されたのも。全部自分のせいだと言いました」
「イッチーは思いました。誰かを助ける事が素晴らしいことだと知ったのも、留学経験出来たのも、家族や友人の温かに気付けたことも、今の自分があることも、石川さとみの笑顔がたくさん見れたことも、全て石川さとみがいたおかげなんだと」
「でも、目の前にある石川さとみの涙は誰のせいだ?」
「俺がもっと上手くやれたら良かったんだけどな、ごめんな」
「いつかもっと、大人になって。石川さとみを守れるくらい立派になって、いつかきっと、迎えに来る」
「そうしてイッチーは上京を決意し、石川さとみは弁当屋の看板娘としてイッチーを待ち続けているのです」
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