第三章「有機的な曲線」

 杯印国と金貨印国の国境付近の山道を、兵士が行軍していた。

 皆一様に押し黙り、淡々と己の背負う荷物を運んでいる、

 戦のための物資を運んでいるようだったが、その光景には一つ明らかにおかしな点があった。

それは

――――ぶぅぅぅぅぅううぅぅぅうう

 兵士の一人が、鎧に包まれた己の胸を叩く。離し、じっと見つめたその平手には、真っ黒な蝿の死骸と、腐った卵の臭いがする黄色い液体がべったりと付着していた。

 いまや単眼の蝿は、まるで自身が新しい空気の一要素であると示すかのように空を覆い、世界中の空間という空間を、その群れで埋め尽くしていた。

 天上からの光も、全て空に満ちる蝿の群れに遮られている為、昼と夜の区別すらつかない。

 少しでも口を開こうものなら蝿が侵入を試みてくる為、道をゆく兵士は皆、顔の半分を分厚い布で覆わなければならなかった。



 突如現れた無貌の化け物により、杯印国の姫君が連れ去られた事件から二日が経過していた。

 化け物が去った後、杯印国の議会は国中に兵を派遣し事態の調査に当たった。集められた情報の限りでは、化け物の影響による直接的な死者はおらず、負傷者も其のほとんどが、気を失った際の打撲や擦過傷のみという軽いものだった。

 にもかかわらず、やはり化け物が現れた後の世界の変化は、目を覆いたくなるものであった。

 襲撃の際、化け物の肉体から発生した蝿は、無限に分裂を繰り返し世界へと広がった。

 城下町に居た者の証言では、平時であれば教会の昼鐘が鳴る時刻、王城のテラスのあたりから錐状の黒い塊が東へ向かって飛び去った直後、城中の窓という窓、扉という扉から、湧き水のように蝿の群があふれ、膨れ上がるように空の全てを覆ったのだという。

 今や街中のあらゆる処で、蝿の群が羽音を響かせ、手をこすり合わせながら腐肉や下水に群らがる光景が見られる。

 ある家庭でドアの隙間から侵入してきた蠅達が眠っている赤子に群がり、口や鼻からの侵入を試みたという事例が発生したため、赤子の居る家庭では各自夜なべして、母子が一緒に入れる麻の蚊帳が作られた。

 蝿の群れによって太陽が隠れてしまった空は、日没前だというのに黒く染められていた。

 このまま蝿の群が増え続け、日光が地に届かなければ、農作物への深刻な被害も予測される。

 幾重にも重なり、増幅する羽音。集合する虫により放射される熱。天を仰げば空を埋め尽くす蝿の群。潰れた蝿の撒き散らす、腐卵の臭い。

 道を歩けば蝿が顔を這い蠢く杯印国の城下町の街路には、当て布と鎧に身を包んだ自警団をのぞき、人の姿が見られなくなっていた。



 世界を覆った蝿の群れ。

 その一部は、杯印国の王城から飛び去った錐状の物体を追うように、杯印国の空を渡った。

 畝(うね)り揺らぎ、まるで甕(かめ)の水が底に空いた穴へ流れるが如く、その蠅の群れはある一点へと集まっているようだった。

 其処は杯印国のはるか東。

 嘗て金貨印国と杖印国がその所有権を巡って争い、二国の休戦が成立した後、事実上杖印国の支配下に置かれていた鉱山だった。古くは火竜が住処とし、盗賊やはぐれ者達のねぐらも散見されたその土地には今、群がる蝿達が、編み物のように、織り成し形作る真っ黒な城が築かれていた。

 金貨印国方面から攻城にあたっていた杯印国の軍隊は、飛び交う蝿の群れの前に力を奪われてゆく。振り払っても鎧の表面にびっしりと絡みつき、眼球の上を這い回り、鼻や口からの侵入を絶え間無く試みてくる幾億もの蝿。潰れれば撒き散る体液の腐卵臭と、集合し蠢く群れからの放射熱は、兵士達の思考の冷静さを確実に削いでゆく。

 身体を直接傷つけられはしなくとも兵士達は、蝿が群がり体液にべっとりと濡れた兵糧や馬を見るだけで、戦意をみるみる削がれてゆくのだった。

 黒き城に近づく程、蝿の数は増大した。馬を捨て突撃に走った小隊の兵達は、鎧の隙間から入り込む多量の蝿で鼻と口に栓をされ、気絶した。

 攻めあぐねる杯印国の議会は遂に、姫君の婚姻の相手国、金貨印国の王城へ使者を放つ決断をした。



 金貨印国の王城。女王の私室。

 晴れの日であれば城下を一望できるテラスへと続く扉は、しかし今は重厚な暗幕に閉ざされていた。明かりとりの窓にも隙間なく遮幕が引かれている。ガラス窓だけでは、蠢く蝿共の足や腹が、否応無く目に入る。

 一歩外に出れば耳にまとわりつく蝿の羽音も、この部屋においては厚い壁に吸い込まれ、空気を揺らすことはなかった。

 外界の騒乱と隔絶された部屋の中、天蓋から垂れる絹幕に囲まれた豪奢な椅子の上で、金貨印国の女王は口を閉ざし、杯印国から届けられた報告書が読み上げられるのを聴いていた。

 報告書は、婚姻を祝う宴が予期せぬ中断を迎えたことへの、杯印国大臣による陳謝から始まった。

 次いで、金貨印国の第二王子は陽炎騎士団の迅速な判断もあり、いち早く城外へと退避しため大きな怪我はしなかったこと。しかし、幼い王子にあの混乱と蝿の群が世界を包む様、そしてその後の周囲の大人達の焦燥と衝突は刺激が強かったと思われ、今は蚊帳を張った離れの別宅で、熱を出して寝込んでしまっていること。蝿が毒を持っている可能性もあるため、少なくとも熱が引くまでの間、王子の身柄は杯印国で預かりたい、ということが、使者の口を通して語られた。

 それに続く『また、姫の奪還には是非とも世界に名高い陽炎騎士団のお力をお借りしたい』という一文を、杯印国の使者は随分力を入れて読み上げた。

 最後に、不慮の事故により遮られたが、此度の事故によっても婚姻の約定自体に変更はない、ということを念押しして、報告書は結ばれた。

「成程」

 別の紙に綴られた、化け物の住処と思われる場所の地図や、蝿の群れの広がっている範囲(『確認し得る箇所に於いて、蝿の群れの広がらぬ処なし』)等の具体的な情報に目を通した女王は、絹布越しの使者へ向けて語りかける。

「ご苦労だった」

 部屋にいるのは女王の他に四人。玉座の正面に跪く杯印国の使者と、玉座の脇で直立する帯刀した男。女王付きの二人の侍女は入り口の扉を挟むように立っていた。

「……少しの間、検討したい。来賓室でお待ちいただこう」

 女王の歯切れ悪い言葉の後、ちりん、と薄衣越しの玉座から鈴の音が響く。

 杯印国の使者は立ち上がり一礼すると、侍女二人に導かれ、女王の部屋から去った。

「どう思う?」

 女王の声は、布の隙間から滲み出すようだった。布を挟んで直立している男へと囁く。

 その男は陽炎騎士団の団服を纏っていた。室内だというのに鈍く輝く兜を被っている。

 それは、鳥の嘴(くちばし)のように顔の前の部分が大きく突き出していて、側面に空く穴を除いて、ぴっちりと顔から首にかけて覆う奇妙な意匠の兜だった。その形が、物語の英雄を模したものであることは、金貨印国の民なら一目で理解できる。

 その異様な兜の男は、筒の中を流れる水のようによどみ無く歩き、玉座の正面へと移動すると跪いて言葉を発した。団服の赤いマントが、静寂の中で揺れる。

「エイビー(御意のままに)、女王陛下」



 男の返答に、女王は溜息をつく 。

「火竜討伐の後から、本当にそればかりだな、其方は。まあよい。議会は、陽炎騎士団及び水晶の騎士の派遣に賛成しているという。もっともな意見だ」

 女王は、薄布の向こうに跪く騎士に向けて、ぼそりぼそりと、つぶやいている。

 それは、国主としてどう動くかを決めるというよりは、己の意思とは無関係に決定された事項について、愚痴を吐き出しているような、半ば諦めの混ざった口調だった。

「杯印国に貸しを作ることで得られるものは多いだろう。八年前、休戦直後に杖印国にて火竜を討伐したことが、杖印国へ輸出する羊毛にかかる関税の、大幅な引き下げへと繋がったようにな」

 女王は一つ咳払いをし、言葉を続けた。

「剣印国の煩わしい鼠共も今は鳴りを潜め、休戦の間に、我が国の正規軍の戦力は増大している。小規模部隊にして名の知られた陽炎騎士団の派遣は、国防を保ちながらも杯印国に、いや」女王の影が、膝の上の羊皮紙を胸の辺りに持ち上げる。「世界に恩を売り、国の力を示すという目的に適合する」

 女王の言葉が終わると、部屋は沈黙に包まれた。天井のシャンデリアと壁面の燭台には、煌々と蝋燭の火が灯っていたが、その静けさは冷たく重いものだった。

「私が何を考えているかわかるか?水晶の騎士」

 呼ばれ、跪いていた男が面を上げる。無機質な金属に包まれた、その向こうの表情はまるで伺えない。

「エイビー、女王陛下」

 それだけを口にし、男は沈黙した。兜の中で幾重にも反響しているのだろう。男の声はとても低く、こもった響きである。

「……そうだな」

 女王は気の抜けたような声で、言葉を続ける。

「そんなことは二の次でしかない。最も大切なのは、王子の無事と――――」

 絹の布に囲まれた玉座に、一人腰掛ける女王は、そこで言葉を切った。



 女王が、杯印国の姫と最後に言葉を交わしたのは九年前、金貨印国国王の葬儀が行われた半年後であった。当時六歳だった姫は、黒目がちの大きな瞳がくるくると動く、利発そうな少女だったと記憶に残っている。

 急病により葬儀を欠席した杯印国の国王が、金貨印国王城へと弔いの挨拶に訪れた際だった。

 父親程の年齢である友好国の国王はあたたかな人柄で、王家に嫁いで間もなかった当時の女王は、社交の席でさり気ない彼の気遣いに助けられることが多かった。

 夫を亡くし、出産を終えたばかりで、心身共に弱り切っていた当時の女王にとって、この友人の訪問は心強く思えた。

 女王は当時、一日の大半を自室の寝台で過ごす生活を送っていたが、この友人の来訪を知らされた時は、青白く重い体を何とか起こし、礼装して迎えたのだった。

 侍女を従え玄関ホールへと続く階段を降りると、ゲートの向こうから杯印国の衣服を纏った一団が見えた。先頭に立つ杖をついた老人は、女王の姿を認めると部下に肩を支えられながら歩み寄り、手を取って労いの言葉をかけた。

 と、女王の視界の隅に、月の無い夜空にも似た、黒いドレスに身を包んだ少女が映る。目が合うと年齢に見合わない完璧な式礼で、穏やかに微笑んだ。

「お久しゅうございます。おばさま」

「そうか、姫も、わざわざ来てくれたのだな」

「うむ。本来であればな、女王。この後、貴公に内密な話がある故、連れてくるつもりはなかったのだが」

 言い淀む父の言葉を、娘が継いだ。

「ごめんなさい、おばさま。私がわがままを言ったのです。だって、金貨印国の王様はよく私と遊んでくださったし――」

 姫の小さな口が奏でる竪琴の調べのような音が、止まる。少女の視線は、いつの間にか女王から外れ、真っ直ぐにホールの最奥へと向けられていた。

 視線を追うように振り向いた女王はそこで漸く、ホールの奥、二階へと続く階段の、その根元に立つ人影の存在に気づく。新設されて間もない騎士団の団服に身を包んだ長い黒髪の男が、其の大きな目で、こちらを真っ直ぐに見つめている。

 姫は、変わらない微笑みをたたえたまま、視線に応えるように一礼すると、言葉を続けた。

「――それに、どうしてもお会いしたかったのです。救国の英雄、水晶の騎士様に」



 それから先は、流れるように時間が過ぎた。

 程なくして、一階の来賓室にて女王と杯印国国王、二人だけの会談が行われた。

 杯印国の王が持ちかけた話とは、生まれたばかりの金貨印国第二王子を将来、一人娘である姫の婿に迎えたい、という物だった。

 杯印国の王夫婦は男子に恵まれず、此度の病もあって、死後の後継者争いを切実に防ぎたかったのだろう。思えばこの時既に杯印国の王は、自分の命が永くないことを悟っていたのだ。

 金貨印国の女王にとっても、この提案は有難かった。現在大きな成果を挙げている陽炎騎士団を中心とした奇襲戦術には、陽動のための別働隊が不可欠だったし、それを維持するには多量の兵站が必要であった。税の臨時徴収、食料の大量輸入、兵力の縮小、選択を迫られていた金貨印国にとって、農業国である杯印国との結びつきが強まるのは願っても無いことだった。そして何よりも、夫を亡くし、二人の息子も未だ嬰児という十七歳の女王にとって、父親程に歳の離れた隣国の王の、端々に見える気遣いが嬉しく思えたのだった。

 婚姻の約定が成立し、杯印国王と共に玄関ホールへ戻ると、跪く黒髪の騎士と、二人の少女が何やら話をしているようだった。少女のうち一人は先ほど議題に上がった杯印国の姫。もう一人の少女は世話係なのだろう、ニコニコと騎士に話しかける姫の後ろで、姿勢良く見守っていた。

「姫様」世話係の少女が、姫に声を掛ける。「陛下が」

 姫はそれを受け振り返り、騎士へ一礼してから、父である王の元へと歩きだす。世話係の少女が、それに続く。

 杯印国の王はもう一度女王の手を取り、別れの挨拶と共に励ましと、両国の友好を念押しする言葉をかけた。

 女王の掌を包む枝のような両手は、夜の湖を想起させる冷たさで、小刻みに震えていた。

「おばさま」

 国王の挨拶が済むと、低い位置から声が聞こえる。

 姫の方を向くと両手を口の前に立てて、内緒話の合図をしていた。

 女王が腰を落とし閉眼すると、姫の近づく気配の後、小さな声が耳朶を打つ。

「どうかお元気で、おばさま」というささやきの後、姫は緩やかな口調で、奇妙な言葉を口にした。

「あのかなしいすいしょうのきしは、いずれせかいのにくしみを、そのみにうけることでしょう」



 杯印国の一団が過ぎ去った後、女王は自室に黒髪の騎士を呼び寄せた。

 この頃は、まだ薄絹の張られていなかった玉座の前で、女王が姫から耳打ちされた内容について問うと、騎士は心当たりがないらしく跪いたまま首を振った。

「しかし」面を上げた騎士は、星の無い夜空の様な瞳で女王に視線を合わせ、言葉を続けた「あの姫君は……私と同じものが、視えているのだと思います。女王陛下と初めてお会いした折の、例の詩人にも感じた事ですが……。あの姫君とは少し言葉を交わしただけで、私と同種の者が捉える仕方で、世界を受容しているのだと理解しました。詰まる所――――」



 静謐な女王の部屋。絹の薄布に囲まれた玉座。世界から切り離されたこの空間で、騎士と女王は何かが通り過ぎるのを待つかの様に、暫く口を開かなかった。燭台の炎と空気の動く気配だけが、この部屋の中で動的なものの全てだった。

「其方は言ったな。姫と最初に言葉を交わしたあの夜に。あの姫は自分と同種だと。其方達【欠けたるもの】は、生涯で最も大きな力を手にした時、世界に向けて戦いを挑むのだと」

 そう、杯印国の王と共に姫君が訪れた夜、今宵と同様に跪いて、騎士は静かに言ったのだった。

「あの姫君と其方は、いずれ命をかけて戦うことになると」

 異様な兜の騎士は、毛足の高い絨毯の敷かれる床を、じっと見つめたまま静止していた。

「杯印国の前国王には、世話になった。窓の外が糞蝿共に満たされた際も早馬で王子の無事が知れると、姫の安否ばかりが気になった。だが」

 女王の影が動き、改めて膝上の報告書が胸元へと持ち上げられる。

 そこに記されていたのは、事件の渦中、ホールに倒れていた来賓客の証言だった。

――――曰く、哀れにも化け物に連れ去られんとした姫君は、使用人と共に果敢に応戦したが、化け物の幻術により抵抗空しく連れ去られた。尚、その際姫の振るったナイフにより、使用人の一人が負傷した。

「化け物の所業は、あまりにも寓意的に過ぎる。姫を攫うのが目的であれば、何も警護の厳重な宴の最中を狙う必要などないのだ」

 冷たい鉄の兜を纏った騎士は、銅像のように動かない。かすかに揺らめく蝋燭の灯りが、鈍色の表面に有機的な曲線を描く。

「化け物が姫を攫ったのではない。姫が、化け物に攫わせたのだ」

 女王の思考は明らかに飛躍していた。破綻した論理はそのまま、女王の永い孤独の時間を示しているようだった。

 女王の影は首を振り、言葉を続ける。

「そう、我が金貨印国にとって最も大事なのは王子の無事と――」

 声の温度が下がる。跪く騎士は、女王の立ち上がる気配を感じ、面を上げた。

「――婚姻の祝宴を瓦解させ、私の王子を辱め、世界に糞蝿を撒き散らし宣戦布告した、あの魔女と化け物を間違いなく鏖殺することだ」

 騎士と女王の間にある薄絹が、女王の手により取り払われる。

 二人が、布を挟まず対面するのは実に六年ぶりだった。

 夫を亡くし、私室に篭りがちになっていた女王が、玉座の周囲を布で覆ったのが六年前。王城を襲撃した火竜に、女王の長男である第一王子が連れ去られた事件がその発端だった。

 陽炎騎士団の追撃によって王子の奪取と火竜の討伐は達成された。しかしその直後から、女王は二人の王子とその乳母だけが入ることを許された遮幕越しにのみ、他者との面会を行うようになる。

 二十六歳となった女王は、頬がこけ、眼窩の周りは黒く変色し落ち窪み、嘗ての美貌は薄れていた。

 その顔に浮かぶのは、苦い果実を思い切り噛んだ時の様な憎々しげな表情。

「私が何を考えているかわかるか?水晶の騎士」

 跪く騎士の返答を待たず、女王は言葉を続けた。

「議会の狙いなど知った事ではない。杯印国の願う親睦など糞食らえだ」

 表情が仮面のように、苦々しく固定されたまま、女王の声は、その激しさを増してゆく。

 どろどろと溶ける、坩堝の中の鉄のように、女王の激情は手が付けられない熱を帯び、女王自身の制御を奪ってゆく。

 騎士は唯、兜に空いた二つの穴越しに、苦悶にも似た呻きをあげる主の姿を見つめている。

「金貨印国の女王の名において、其方に命じる」

 騎士に向けた女王の眼差しは、暗い輝きに爛々と満ちていた。

「今すぐに陽炎騎士団を率い、化物の元へと向え。そして」

 女王の息は荒かった。咳き込むように、言葉を続ける。

「あの恥知らずの姫と化け物、目障りな糞蝿共の名を一匹残さず墓碑に刻め、水晶の騎士よ!」

「エイビー(御意のままに)、女王陛下」



――――ぶうぅぅぅうううん

 右頬の鈍い痛みとともに目覚めた私が、最初に耳にしたものは、やはりというべきか蝿の羽音だった。

 暗い部屋。冷たく硬い床にリネンを敷いた即席の寝台に、私は寝かされていたようだ。

「あら、気がついたのね。……えっと、めーちゃん?」

 身体を起こし声のした方へ振り向くと、其処には見知らぬ少女が、大きなランタンを両手に抱え、立っていた。胸元の灯りに照らされて、剣印国風の赤い髪と、そばかすの浮いた端正な顔が浮かび上がっている。

「ここは……」

 辺りを見回しながら、何気なく右手を自分の頬へ当てた時、私の心臓はぞくりと大きく脈打つ。伸ばした指は、頬ではなく、歯茎に触れた。

「当分、鏡は見ない方が善いわね。最も、初めから此処に、そんなものはないけれど」

 少女の声が遠く聞こえる。

 倒れる寸前の、最後に見た姫様の顔が頭をよぎり、私はその場に崩れ落ちそうになった。

 改めて、周囲を見回す。其処は壁も床も、天井までもが黒い部屋だった。蝿の姿は見当らず、漏れ聞こえる羽音も、耳障りという程大きくは無い。

「ついてきて、めーちゃん」

 赤毛の少女が、こちらに背を向け歩き出す。

「目が覚めたら、連れてきて欲しいとお姫様に言われているの」

 少女の背中で三つ編みが揺れる。少女の口調は平坦だった。

「知っている?あなた、丸二日も眠っていたのよ」



 暗い回廊を、赤毛の少女について歩く。

 窓が無いらしいこの建物の中で、光源と呼べるものは少女の持つランタンだけだった。

 闇の中、私はもう一度右頬に触れてみた。出血は無く、指の当たった歯茎も、まるで布越しで触れているように感覚が薄い。裂けた皮が垂れ下がって手に触れることもなく、私の右頬の肉は丁寧に切除されているようだった。

 そう、これではまるで、頬を切られたというよりも――

「――欠けている、という感じね」

 右頬に肉が無いのに、自分の口からきちんと言葉が出るのが不思議だった。

 昼夜の区別さえつかない閉ざされた空間を探るように、緊張した私の皮膚には、移動する空気さえざらりと冷たく感じられた。目の前の、少女の背のみを頼りに進む細い廊下は、本当に前へ進んでいるのか疑われる程、長く感じる。

 赤毛の少女は無言だった。

 暗い灯りの中で改めて見た少女の服装は奇妙なものだった。金貨印国の村娘がよく着るような麻布のシャツを、釦を留めず羽織るように纏い、その下には娼婦のような、紅いネグリジェを引っ掛けている。

 時折首筋を掻きながら先を歩いていた少女が、不意に足を止めた。其処は回廊の終端なのか、行き止まりにしか見えない黒い壁の袋小路だった。

「ついたわ」

 少女は、一度こちらを振り返り、黒い壁の方へ呼びかける。

「扉を開けなさい、王様」

 少女の言葉が終わるのと同時に、三方の壁が一斉に震え出した。

――――ぶぅぅぅぅぅうぅぅぅ

羽音。

蠢き。

震え。

 そびえ立つ行き止まりの壁に、両脇の回廊を形作っていた壁に、無数の罅(ひび)が入ったかと思うと、その細かく分かれた部分の一つ一つが、虫となって羽ばたきはじめる。

 無数の蝿の、互いにぶつかる音が、羽音と共に響く。衝突した蝿たちは砕け、さらに小さな蝿となって羽音を奏で、やがて散り散りの霧のように薄くなり、消えてしまった。

 蝿の壁の向こう側から、光が差し込んで来る。その光は壁の消失と共に強さを増す。

 廊下の向こうには爛々と蝋燭の灯されたホール。円形のその空間は吹き抜けになっていて、再奥には壁に沿い上方へ伸びる階段が見えた。

 ホールの中心には床から生えたような、真っ黒のテーブルが据えられている。

 その手前に、二つの人影があった。

 蝋燭の灯りに照らされて、白い肌に落ちる影は揺らめく。

 純白のドレス。白銀のティアラ。初めて出会った時から、ずっと変わらない微笑み。

 その白い人影は、礼服を纏った別の人影に、恭しく抱きかかえられていた。

 二人は静かに、ゆるやかに、光に照らされた空間を滑るように動く。

 一つになった二人の影がこちらへ歩み寄る最中、私は指先一つ、動かすことができなかった。

 蝋燭の燃える香りが鼻をつき、息をするのを忘れていたことに気づく。

 影すら溶ける漆黒の建物の中で、揺れる陰影は二人の身体に浮かぶものだけ。

 全ての音は遠くなり、抱かれたまま私の頭を撫でる姫様の手の感触に――

「めーちゃん」

――私は酷く顔を歪ませて、溢れるままに、涙を流したのだった。



 私が泣き止むまで、姫様の手は私の髪に触れていた。

 離れてからもしばらく、私にはその熱と感触の残滓が留まっているように感じられた。

「ご無事で……よかった……です」

 整わない呼吸で、なんとかそれだけを言う。

「姫様、どうして、こんな……」

 姫様の輝くティアラに、自分の顔が映りそうな気がして目を逸らすと、私の視線は後ろにいた礼服の男へと向かう。

 その男の顔は相変わらず、上半分が殆どぽっかりと空洞になっていて、ほうと開いた口からは、時折呻きに似た声が聞こえる。しかし、城で直面した時のような恐怖や嫌悪は、自分でも意外な程、湧いてこなかった。

 まるで自分の中の忌避の感情が全て消えてしまったかの様な気分に戸惑いながら、男の虚ろな顔へ焦点を合わせる。その頭蓋に在る空洞をじっと見つめていると、石を落としても底に当たる音が聴こえないような深い穴に、私の一部が切り離され、落ちて行ってしまうような感覚を覚えた。

 そうだ、と視線を背後に向けると、私を此処まで案内してきた赤毛の少女の姿は、いつの間にか消えていた。

 戸惑う私の手に。音もなく地に足を着けた姫様の手が触れる。

 そのまま私は、そっと姫様に抱き寄せられた。

 姫様の背は、私よりも少し低い。歳も、私のほうがひとつだけ年上だった。

 上等な香水の香りと、姫様が私を引き寄せる力とぬくもりに、私はくらりと目眩を覚えた。

 姫様は私をきゅうと抱き寄せ、ぱっくりと歯茎の露出した私の右頬を撫でた。

 自分で触った時と、同じ様に、痛みはなかった。

 姫様の手が直接触れているというよりは、やはり何か薄い幕越しな感じがする。

「――――綺麗」

 姫様の言葉に、喉が鳴った。

 姫様の艶やかな睫毛が蝋燭の光を受けて影を描く。

 炎の揺れが、動きが、瞑目が、刹那毎に姫様の微笑みの、その讃える印象を変化させてゆく。

 姫様の指。始めてお会いした時から、何一つ変わらない滑らかな指。

 姫様は、私の耳元へ口を近づけ、そっと囁いた。

「まきこんでしまって、ごめんなさい、めーちゃん」

 ためらう様な沈黙の後で、姫様は言葉を続けた。

「ごめんなさい。もうすこしだけ、なにもきかずにいて。おねがい――――」

 私は、姫様に抱きしめられたまま、目を閉じた。

 頭の中に浮かぶのは、姫様と始めて出会った時の記憶だった。

 庭師をしていた父と共に謁見の間へと呼ばれ、当時使用人見習いだった私は歳の近さを理由に、姫様の世話係を仰せつかったのだ。

 老齢の乳母とともに現れた姫様を見て、私はおとぎ話に聞いた百合の妖精が歩いているのだと思った。祝宴のために誂(あつら)えたのだと、今は崩御された前王が語られていた。耳年増だった上に緊張していた私は姫様への挨拶の後に

「ドレス、姫様にとてもよくお似合いです」

とつっかえつっかえ、しかし大声で口走ってしまったのだった。

 姫様は一瞬きょとんとした後、頬をすこし染め、くすぐったそうに微笑まれた。

 前王も、その場にいた使用人達も皆笑ってくれたので事なきを得たが、帰り道、父にはこってりと叱られた事を覚えている。

 その日から、今日に至るまでずっと、私は姫様の世話係として、過ごしてきたのだった。

 鼻の奥にしみる感じを覚え、足元が揺らぎそうになる。

 私は姫様をきつく抱き返すと、その背中を何度か、そっと撫でた。

 姫様の顔は見えなくても、私は、今姫様がどんな表情をなさっているかわかった。

















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