第二章「蛇蝎の王様」

 ガラスの割れた大きな音に振り向くと、そこには人だかりができていた。周りにいる人々のささやき声を聴くと、来賓客の誰かが、テーブルにつまずいて倒れたらしかった。

 しばらく止まっていたオーケストラが、何事もなかったかのように再開される。ええと、この曲は何だっただろうか。確か、姫様のお好きだった曲だ。

 人の波の間から、倒れている人物の姿が見える。

 それは、どう見ても王城で行われる宴の席に、そぐわない人物だった。

 体型からして、性別は男であるようだ。麻でできた大きめなローブ――それは服と言うよりも、ほとんど、ただの大きな襤褸(ぼろ)布だった――を頭からすっぽりとかぶっていて、顔がよく見えない。

 したたか酔っているのだろう。ひざを曲げ、何度も立とうと試みているようだったが、うまく行かず、そのたび地面に身体をたたきつける格好になる。

 服の隙間から見える肌は青白く不健康な印象で、その薄汚れた身体からは腐った卵のような臭いが強く放たれている。

 完全に不審者であった。

 王城で行われる宴の来賓には、警備兵による帯物の検査が行われ、怪しい人物の入場は当然許されないはずだったが、どうやって紛れ込んだのだろう。

 私は姫様の方を見た。姫様はいつもの笑顔で、しかしじっと、真剣な眼差しで、その不審者を見つめていた。


 ずしゃり、ぐしゃり、と、派手な音を立てて、何度も何度も立ち上がろうと不審者は試みている。遠巻きだが、その周りには、人が集まってきていた。誰かが呼んだのだろう。入り口の方から警備兵が三人、こちらに向かって走ってくるのが見えた。オーケストラの奏でる音色の中で、彼らの鎧がこすれあう金属音が、小さく響く。


 と、私の視界の隅を、純白の影が通り過ぎた。

 真っ黒な黒髪に、白銀のティアラを乗せた、白いドレスの人物が、床に崩れ落ちている不審者の方へ向かってゆく。

「姫様!」

 私はあわてて、姫様の背中に手を伸ばす。しかし、姫様は歩みを止めず、その不審者の前まで滑らかに移動する。


 オーケストラの奏でる音色は、止まることなく流れている。


ああ、これは、この音楽は、確か――――


 その壮大な音の海を泳ぐように。姫様は、崩れ落ちている不審者の前に立つ。


――――子供の頃、一度だけ付き添いで観た、姫様の好きな演劇の曲。生き分かれになっていた兄妹が、再会するシーンで流れる曲。


「よく、いらしてくれましたね」

 姫様の声は、会場全てを支配するかのように、凛とした響きで私たちの動きを止める。

「ようこそ。おうさま」



 がしゃりがしゃりと、卵を落として割ったような鎧の音を立てながら、兵士が三人、不審者の周りを囲み、肩や腕を掴むと姫様から引き剥がそうとする。

 不審者が抵抗し、身を捩ったので、兵士の一人が不審者の纏う長い襤褸布を乱暴に床に叩き落とす。

 バランスを失い、再び背中から倒れる不審者。

 私はあわてて姫様に駆け寄ると、姫様と不審者の間に立ち、エプロンの裏に縫いつけてある護身用の警棒を確認した。無様に仰向けになっている不審者が、何時襲いかかってきても対応できるようにしておかなければ。そう、いざとなったら、私が身代わりに――――


 絨毯に音を吸われ、静かに着地する襤褸布。それを叩き落とした兵士が、唾を飲み込んだ。

 誰かの悲鳴が聞こえる。

 布をはぎ取られた不審者は、意外、というべきだろうか。年若い少年の姿だった。櫛の通っていない黒い髪。青白い、を通り越して殆ど泥のような顔色。襤褸布の下には綺麗な、フエルトの礼服――――それだけを見れば、どこかの貴族の子息と言われても通りそうな程に、上等な物だった。

 しかし、地面に横たわるその不審者には、普通の少年とは決定的に違う部分があった。

 倒れたまま何かを探すように、顔を色々な方向へ向けている不審者。しかし、その顔には眼が存在していなかった。

――――その不審者の頭は、まるでかつらのように髪だけを残して、鼻から上の部分が、ほとんど、ぱっくりと、消失していたのだった。

「ばけものだ!!!」

 来賓客の誰かの叫びに、会場の視線がその不審者に集まる。

 手をもがくように動かし、立とうとしているその不審者の口が開かれる。

 その声は、まるで――――

「あぇぇぇぇいえあえあええおおぶおおおぉぉぉおおおおぃぃぃうっぉぉおぅぇおおおうう」

――――けだものの、嘔吐のような音だった。



「姫様」

 私は不審者から目を反らさずに、背後にいる姫様に語りかけた。

「お逃げください」

 その不審者、いや、ばけものは、兵士三人に取り抑えられながら、聞くだけで身体が震えるようなおぞましい声をあげ、何かを探すように首をきょろきょろと動かしていた。

 杯印国の近衛兵が集まって、来賓客に避難の指示を出す。近衛兵に混じり、陽炎騎士団の団服も少数だが姿が見える。

「姫様!」

 姫様の動く様子がないのに、焦じれて私は背後を振り向いた。

 陽炎騎士団が事態の鎮圧に乗り出したという事は、きっと金貨印国王子の避難は完了したのだろう。早く姫様も――――


「おおおおおおぇぇぇあああああううあああうぁうあぇぇぇうあああうぶ」


――――ばけものの声が、ひときわ大きく鳴り響くさなか、私は姫様の顔を見て、凍ったように動けなくなった。

 姫様は、泣いていた。

 表情こそ、いつもの笑顔のままだったが、薄紅に染まる眼から、後から後から、大きな滴がこぼれ落ちているのだった。



 聞こえていた、ぞっとするようなばけものの声も、兵士たちの避難の指示も、来賓客の悲鳴も、争乱も、すう、と、私の世界から消えたような感覚が、あった。

 そのときの私の意識は、ただ一点。姫様の仄紅い唇。そこから漏れる音に向かって研ぎ澄まされていた。

 それは一瞬の事だったかもしれないが、私にとっては、とても長い時間のように、感じられた。


 姫様は、閉じた唇をふわりとほどくと、ゆっくりとした口調で、竪琴の調べのような美しい声で、言った。視線は、私の背後――――ばけものの方へと、向けられていた。


「いざ、きてみると、そう、こんな、きぶんになるものなのね」

 姫様の目が、動く。私の方に。

「御免なさい、めーちゃん。左様なら」

 心の奥の方で、陶器が割れるのに似た音が、聞こえた。

 身体が震える。立っているのが、辛いほどだった。

 私は、たまらず、声を上げる。

「ひめ……さま……」

 しかし、姫様は既に、再び私の背後へ、視線の焦点を合わせていた。

 それは普通なら聞き取れない程の小さな声だった。

 しかし私には、姫様が何を言ったかが、正確に伝わった。

 物心ついたときから、私はずっと、この姫様の世話係として、生きてきたのだった。


「私をさらいなさい。蛇蝎の王様」

――――姫様!という私の声は、ばけものの発する嘔吐のような声にかき消された。

「うぇえああああああああぶびえええいえいいいいいいいあうろろろろろうぁおおおおおるるるるるるぅぅぅるるるる―――――――――――――!!!!!!!!!!」


 悪夢のような光景だった。

 顔の半分が空洞になっている青白いばけもの。兵士達によって捕らえられ、今まさに拘束されようとしていたばけものが、その大きな叫び声とともにぶるぶると震えだしたのだった。

 ばけものの身体は震えながら、まるで人間大の雪だるまが溶け出す様に、黒い液体を身体から分泌して会場の紅い絨毯を汚していた。

 そのヘドロのような不潔な臭いのする液体から、無数の奇妙な単眼の蠅が、あとからあとから、湧き出してくる。



 感覚が引き戻される。

 逃げまどう来賓客。その喧噪は先ほどよりもずっと大きくなっていた。

 ばけものを取り押さえていた兵士が剣を抜き、嘔吐のような叫び声と黒い液体を吐き出しているその主に切りつけた。

 剣の衝撃により、というよりもむしろ、剣をよけるように真っ二つに切断されたばけものの身体は、まるで割れたバケツのように黒い液体をまき散らす。

 絨毯に、テーブルクロスに、その上の料理に、兵士の鎧に、身体に、染みをつけた黒い液体から、さらに単眼の蠅が際限なく湧き出てくる。ふと大きな塊が、牛の糞便のように染みから発生したかと思うと、それは真っ黒い妙に大きな蛇となって、びたんびたんと地面をのたうった。

――――ぶぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ

 蠅の羽音が、響く。頭の中で鳴っている様なその不快な音に、平衡感覚を失い、私は思わず膝をつく。

――――姫様を、姫様をお守りしなければ

 エプロンの内側から檜の警棒を取り出すと、それを支えにして何とか立ち上がろうとする。

蠅はどんどん、数を増している。今や会場の上空は、蠅でできた雲が一面を覆うかのように暗くなっていた。

 私は姫様の方をみる。姫様の様子は、こんな状況だというのに普段と殆ど変わらないように見えた。

 姫様の涙は、もう止まっていた。姫様はじっ、と、染みから現れた大きな蛇の方を、見ている。


――――ああ


 頭の中を、羽音にかき混ぜられている様な感覚故だろうか。

 私はそのとき、この異常な環境にある姫様を見て、全く場違いな事を考えていた。


――――――蠅の黒に、姫様の白いドレスは、よく映える



 式典の会場中に、蠅が満ちていた。

 立ち向かった兵士も、逃げ遅れた来賓客も、皆地に伏している。

 立っているのは、真っ白なドレスの姫君。動いているのは、蠅の他には、びたりびたりと蠢いている一匹の大蛇だけだった。

 姫がしゃがみこみ、蛇に手を伸ばすと単眼の蠅が一斉に蛇へと群がり、人の形を作る。

 跳ね回る蛇を背骨の部分に置く形で、少年の姿が形成された。

 顔色の悪い少年、鼻から上がぱっくりと消え失せている少年は、姫の手を取って立ち上がる。

「うぇぁああびぶるぅううううううううう」

 嘔吐の音の様な、声。

 存在しない瞳で、姫を、じっと、見つめているようだった。

 姫は、笑顔を浮かべている。それはこの宴が幕を開けてから、否、宴がはじまる以前からずっと、変わらないほほえみだった。

 少年は、姫の手を引いて、歩き出す。

 見えていなくても、身体から湧き出る無数の蠅を媒介として、どこに何があるかは認識できているようだった。

 会場の入り口へ進んで行く少年と姫の前に、一つの人影が、立ちはだかった。

 姫が口を開く。

「めーちゃん――――」



 それ自体が空気を構成する要素で在るかのように、会場を埋め尽くした蠅が発する熱と音に、朦朧として私は床に、倒れ込んでいた。

 ランプの光も、うっすらと入っていた天窓からの光すらも、黒の群に覆い隠され、薄暗い視界。体が重い。しかし、それでも、私の目には

――――行かなければ

 ばけものに手を引かれ、連れ去られようとしている姫様の姿が、確と、飛び込んできたのだった。

 毛足の長い絨毯には、蠅の死骸が散乱し、生臭い体液で絨毯を濡らしていた。姫様の祝宴の為に設えた美しい羊毛が、台無しだった。

 咳払いをする。床近くにも群を為す単眼の蠅共は、私が息をする度に鼻や口から体内への侵入を試みてくる。

――――姫様を、おまもりしなければ

 それでも、私にはそんなことをかまっている余裕など無かった。

 眼に力を入れ、服の袖で鼻と口を覆い、会場唯一の出入り口――――ばけものと姫様の向かう先へと這っていく。

「あ、あ、あ」

 ばけものが辺りを探るように、首をきょろきょろと動かすのが見えた。

 汚れた床を、這って移動することなど物心ついてから経験がなかった。身体の痛みと、疲労、ゆっくりとしか動けないもどかしさで汗が噴き出す。

 私は、握りしめた警棒を杖にして、全身の力を振り絞って立ち上がる。

 視界は霞み、すぐにでも床にくずおれてしまいそうだった、脚や腰にうまく力が入らない。

 しかし、それでも――――


「――――めーちゃん」


 驚いたような姫様の声。私はひきつる顔に笑顔を浮かべ、警棒を構える。

 そう。私の目は、ばけもの越しにしっかりと、姫様をとらえたのだった。


「姫、様、お逃げください。」

 開いた口から入り込む蠅を、噛み潰し、床に吐き捨てる。頭を揺さぶるほどの苦みと、歯から伝わる乾いた砂のような感触は、しかし私の意識をつなぎ止めてくれる。私は、声を、発した。

「姫様は、私が、必ず――――」



 改めてばけものと相対すると、胸の辺りを熊手で引っかかれているような気分になった。脚が、自らの意志とは無関係に震える。

 私の声に反応したように、ばけものの右腕がゆっくりと、動く。

「あ、あ、あ」

 前に突き出された右腕の、手のひらに黒い蠅が集まったかと思うと、見る見る内にその掌の中で、真っ黒な棒が型造られる。

 蠅が集合している部分は、その密度に比例して羽音が増幅するかのように、ひどくやかましかった。

 膨れ上がり、槌の形を成した蠅の集合体をばけものは構え、こちらに向かって歩いてくる。

私はこみ上げる嘔吐感を必死でこらえていた。

 その青白い表情はまるで芝居に使う仮面の様に、ぼんやりとした印象のまま不気味に固定されている。

「あ、あ」

 歯が滑るぎりりという感触を、口の中に感じて、自分の顎に強い力が掛かっていたことに気づく。

 こちらに迫ってくるばけものの足取りは、不思議なほどに悠然としていた。それはさながらこの世界に、自分を妨げる者など何もないとでも、考えているかのような。

 ばけものの槌は、歩きながらも、その太さを増していく。その槌自体が、ひどく大きな頭を持つ、醜い一匹の虫の様だった。

 そのばけものが一歩こちらに近づく度、私の身体からどんどん熱が奪われていくような気持ちだった。ついさっきまで蠅の発する熱で汗ばんでいた身体が、今度はがくがくと震え出す。

 あと、数歩、あと一歩で、あのばけものは攻撃してくる。動かなくては――――

「まって、おうさま」

 ばけものの背後から、声が聞こえる。蠅共の羽音に満ちたこの空間でも、私の耳にはっきりと響く清冽な音色。

「そのこに、ひどいことをしないで」

 ばけものの、歩みが、止まる。仮面のような表情に変化は無いが、明らかに姫様の言葉を理解し、反応している様だった。

 姫様は焦る様子もなく、ただ普段通りの歩みでばけものの脇を通り抜けると、私とばけものの間に立った。うつむいていて表情はよく見えない。

 移動する姫様を見て、私は妙なことに気づく。この空間中に満ちた黒い蠅は、移動する姫様の周りにも当然群がっているのだが、姫様の御身体に触れると、ぶつかるでも避けるでもなく、すう、と、姫様の白い肌の中に、吸い込まれていくのだった。

 姫様は私に背を向けて、立ち尽くすばけものの両頬に、手を添える。

「あの子はメアリー。ちょっと不器用だけれど、とても頭のよい子なの」

「ひめ……さま?」

――――いったい、何が起こっているのだろう。

 がくがくと震える身体。吐き気をこらえながら、私は目の前の光景を必死で飲み込もうとした。しかし

「めーちゃん」

 姫様が、こちらを振り返る。その表情は

「ごめんね、めーちゃん」

 私がはじめて見る、ものだった

 姫様は、ドレスの胸元から、布に包まれた小さな板を取り出した。杯の文様が刻まれた純銀のナイフは、姫様が肌身離さず身につけている、御父上の形見だった。

「おぎなわれて、しまったものは、かれのとなりに、いたたまれないの」

 巻かれている白い布を、くるくるとほどきながら、姫様は私の前まで歩み寄る。

「ごめんね、少しの間だけだから」

「ひ、めさ――――」

 姫様は手に持ったナイフの切っ先を私の口の高さまで持ち上げると、そのまま私の唇に突き刺し――――


「だから、すこしだけ、我慢をしてね」


――――私の右の頬を、切り裂いた。



 ぬるい水に顔を無理矢理つっこまれたような感覚と共に、目の前の風景がだんだんと遠のいていく。

 意識を手放すまでの短い間、私が感じていたのは、姫様の悲しそうな顔というものを、長い間お傍にいてはじめて見た、という驚きと、胸の奥で蠢くちりちりとした痛みだった。

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