第一章「姫君の婚礼」

 杯印国の王城は、宴の来賓客で賑わっている。

 城のメイドである私は式典の準備で、朝からせわしなく城中を駆け回っていた。

 六月の空は姫様の婚礼を祝福するかのように青かったが、裏腹に私の心は晴れなかった。

 物心ついた時から世話係を仰せつかっていた姫様が、十七歳の誕生日を迎えるのを機に友好国の王子を婿に迎える。それ自体はとてもめでたいことだと思う。

 私の気分を重くしているのは、その姫様の婚礼の相手、金貨印国の王子がつい先日八歳になったばかり男の子、ということだった。政略結婚なのである、完全に。

 土地は広大だが資源に乏しい金貨印国にとって、森と農作物の恵み豊かな杯印国は重要な取引相手だったし、近隣国の情勢が不安定な杯印国にとっては、国防の為に水晶の騎士率いる陽炎騎士団を擁する金貨印国とは、是が非でも結びつきを強めておきたい処だった。近年力を増している東方の軍事国、剣印国の存在も、両国の結束を高めなければいけない大きな要因なのだろう。


――――剣印国が資源を求め、杯印国(うち)に攻めて来た時のために。いいえ、そうなった時疲弊したところを金貨印国に攻め込まれないように、と言うべきかしら。


 私はそこまで思考を巡らせると、テーブルクロスを敷く手が止まっていたのに気づき首を振った。いけない、考えすぎるのは悪い癖だ。最近では手が空く度に、相手国の王子が誕生して間もなく結ばれたこの約定について考えてしまう。


 自分の頬を軽く叩いて作業を再開すると、時計台の鐘が鳴る。私の胸には、いつもよりもその音が重く、長く感じられた。

 そろそろ姫様の準備が整う時間だった。私は慌てて作業を片付けると、壁にかかっていたエプロンを引っ掛けて、姫様の部屋へと向かう。



 毛足の長い絨毯は、木靴の足音を吸う。

 姫様の部屋の前にたどり着くと、いつものようにノッカーを手に取り、扉を三度叩いた。

「どうぞ」

 姫様の声を確認してから、私は飴色の、手に確と重い扉を開く。

「あら」

 姫様の姿を見ると、私の胸に締め付けられるような感覚が走った。

 姫様は既に婚礼の装束を纏っていた。真っ白の、身体にフィットしたドレス。装飾は胸元の一輪の薔薇のみという簡素なものだったが、さらりとした生地のきめ細かい質感から、素材が上等で有ることが一目でわかる。窓から入る太陽の光に、白銀のティアラが載る黒髪は青青と映えていた。

 艶やかな薔薇のような唇が、動く。

「おはよう、めーちゃん」

 姫様は何時もの笑顔で、何時もの挨拶をする。

 長い睫毛がドレスよりも白い姫様の目元に影を作り、磨いた大理石のように透明感のある肌はほのかに赤く染まっていた。私は一瞬言葉に詰まったが、なんとか作法をなぞった礼をして、挨拶を返す。

「……おはようございます、姫様」

 私は目の前にいる姫君を、この世のどんなものよりも、美しいと感じたのだった。

「御支度はよろしいですか?」



「ええ 」姫様の顔は笑顔のままだった。唇がほころぶように、開かれる。「すっかり、整ったわ」

 寝台から立ち上がる姫様の肩に、私は純白のショールをかける。

「ドレス、姫様にとてもよくお似合いです」それは心からの言葉だった。

「まあ」姫様はシルクの手袋を纏った右手を頬まで持ち上げ、私の言葉を飲み込むように、目を閉じた。「めーちゃんに初めて会った時も、そう言ってくれたわね」

 姫様の言葉にどきりとする。姫様と初めて出会った十二年前の夏の日は、私にとって人生を変える程に重大な意味を持っていたが、姫様にとっては普段通りの一日と何ら変わらない日であったろうと思っていた。

 其れなのに、その時の私が口走った一言を、覚えておられたことに驚いたのだ。

「姫様は私にとって、いつまでもお美しい姫様です」

 息を詰まらせ、やっとの事で言葉を返すと、姫様は喉を鳴らして笑う。

「めーちゃんも、真面目なところはずっと変わらないわね」

 そう言うと姫様は私に向かい合い、一歩こちらに踏み出してくる。わ、と思った時には、姫様の右手が私の頭の上に置かれていた。

「背丈も私を追い越して、こんなに凛々しいお姉さんになっても、めーちゃんは私にとって、ずっとあのころのまま」

 にこにことした姫様に、ゆっくり頭を撫でられていると、なんだかもどかしいような、いたたまれないような切ない気持ちになってしまう。

「さあ、そろそろ行かないと!」私は声を張って、自分の意識を仕事に戻した。そうしなければ、いつまでもこの部屋で姫様と一緒に居たくなってしまいそうだった。

「お客様は皆、姫様をお待ちなのですから」



第一章・姫君の婚礼



 杯印国王城のホールを、私は姫様の後をついて歩いていた。

 大理石の上に羊毛の美しい絨毯が敷かれたホールの暖かさとも、オーケストラの奏でる派手で明るい音楽とも、裏腹に私の心は影へ沈んでいくようだった。

 来賓の門閥貴族に完璧な作法で礼を返した姫様は、私にしか聞こえない声でぼそりと呟く。

「やっぱり、おばさまはいらっしゃらないのね」

 姫様の声は、いつも私にとってどんな音楽よりも心を揺さぶる。

 おばさま、というのは姫様の結婚相手である金貨印国第二王子の母君、金貨印国女王のことだ。

 彼女が八年前、第二王子を出産する直前に配偶者である国王を戦で喪い、それを契機に金貨印国の王城から一切の外出をしなくなったことは、上流階級の間で知れ渡っていた。

 彼女が主人の忘れ形見である第二王子を溺愛していることもまた有名だったので、品のない使用人や下級貴族達の中には、女王がこの宴に参加するか否か賭けをしていた者たちもいたらしい。

 そうでなくとも女王の美貌は世界に轟いていたので、彼女の出欠は会場中の関心事であった。

 姫様の言葉を受けて、私はホールの中を見回す。

 ホールの奥にいる、栗色の髪を揺らす可愛らしい子供に目が留まる。身体を大きく見せる、ふわりとした民族衣装に身を包み、剣を携えた騎士に囲まれていた。周りにいる大人たちの空気に威圧されたように、眉と眉を寄せ、困ったような顔をしている。

 彼が、金貨印国第二王子。此度の姫様の婚礼の相手だった。



 王子の方でもこちらに気づいたらしく、顔が明るくなって、精一杯手を振ってきた。姫様や私とは、幾度か対面の機会があったが、王子はその時、姫様にとてもよく懐いていたのだった。

 もっともその時には姫様も王子も、お互いの間に婚姻の約定が結ばれていたとは知らされておらず、王子に至っては未だに今回の宴が何のためのものなのか、彼の人生にとってどれほど重い意味があるのかすら、理解していないのだろう。

 お付きの騎士にたしなめられて悲しそうな顔になった王子に、姫様が腰のあたりで小さく手を振り返す。

 口元に微かな笑みが浮かんだ王子を見て、私は再度、胸が締め付けられる思いを味わった。

 誤魔化すように、姫様の後ろ姿に語りかける。

「……そうですね、女王はまだ、お身体が優れないのでしょう」

 王子の周囲を改めて見回すが、そこに彼の母の姿は見えない。

「ええ」

 姫様はふわりとターンしてこちらを向いた。スカートが遅れて、揺れる。私の手からグラスを受け取ると、優雅な仕草で口を付け、ずっと、ずっと変わらない笑顔のまま、そっと口を開く。

「はやく、おげんきになられるといいけれど」



 王子の一団を眺めているうちに、私はあることに気がついた。

 王子の周りを囲んでいる騎士達は、世界に名高い陽炎騎士団の面々だったが、その中で最も有名な人物である騎士団長の姿もまた、見えなかったのだ。

 陽炎騎士団の団長は九年前、金貨印国先王の存命中に就任した人物で、当時敵対していた杖印国との戦争で多大な活躍をし、劣勢であった争いを金貨印国の絶対優勢に導いた。二国間の休戦条約締結に欠かせない貢献をした救国の英雄である。

 その他にも、杯印国との国境付近に屯していた山猫盗賊団の壊滅や、杖印国の火竜討伐など多くの実績を上げ、当世一代の吟遊詩人シェルティから「水晶の騎士」「機械仕掛けの君」と謳われたことで絶大な人気を誇っている。

「きっとおばさまを、おまもりしているのでしょう」

 首を捻る私の思考が伝わったのか、姫様がそっと囁いてきた。

 ああ、と思い当たる。そういえば自分も、金貨印国の英雄、水晶の騎士の姿を最後に見たのは随分と昔のことだった。

 ここ数年は大きな戦も無く、元々は女王の近衞騎士師団であった陽炎騎士団を率いる水晶の騎士が、城から出たがらない女王にずっと付いて護衛しているという流れは自然なものであったし、溺愛している王子の婚礼の式に、水晶の騎士とともに女王が欠席しているのであれば、姫様の考えは裏付けが取れたようなものである。

 私が水晶の騎士と、金貨印国女王の関係についてもやもやと考えていると、オーケストラが流れるホールに、硝子の割れる高い音が響いた。

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