第12話(後編)



 ―――。


 空白の時間。時が止まったような、真っ白な時間。新しく時を書きこむまえの一瞬。


 ―――あぁ、時が進まなければいいのに、と。思う。


 ―――あぁ、このまま止まればいいのに、と。思う。


 けれど、時間は有限で、無情で無慈悲で残忍で、抗うことすら許されず、すべてに等しく、一瞬で過ぎ去る。


 オークかのじょが切られた事実を、その時のあいだに刻んだ瞬間―――私は見た。

 ―――彼女の力のこもった瞳を、見た。



「ゥ……ラァァアアアアア!」


 雄たけびを散らし、彼女は握り拳を振る。

 逃げること叶わず、盗賊の男は腹の真っ芯で拳を受ける。その体は一メートルほど宙に浮き、茂みの向こうまで吹き飛ばされた。


「―――」


 彼女はそちらには目もやらず、頭一つ分の高さから私を見下ろしながら、頰に触れてくる。巨大で武骨な手は優しく、ゆっくりと確かめるように、撫でた。そして、―――怪我ガ無クテ良カッタ、と微笑んで。


 ……ただ、そのまま、足から崩れるように、仰向けに倒れた。


 呆然は一瞬。

 理解を拒絶する脳が、許容の沸点を超えて一気に沸騰するように、動く。


「そん、な…いや……いやぁぁあああああああああああああああああああああああ!」


 悲鳴を上げ、草花の上に横たわる彼女に近寄る。彼女が切られたのは背中だ。そこから魔力を帯びた光の粒が漏れだしていた。肉体が傷口から溶けだしている。

 私はすぐさま詠唱を始める。


「だ、大丈夫、大丈夫だ。私にだってすこしの治癒はできる! だから、だからちょっとの辛抱だ」

 傷口に治癒魔法をかけた。だが、変わらず彼女が切りつけられた箇所から光の粒が次々と零れおちる。私はもう一度治癒魔法を詠唱し、重ねがけを試みる。しかし、さらに光が地面に落ちて消えていく。一向に治まる気配はない。


「どうして……! …っ!」


 そこまで言いかけて、治癒が一向に進まない原因に気付く。彼女を切った聖剣エクスカリバーは、いかなる魔を寄せ付けない高潔な存在だ。それに付けられた傷口は、どんな魔法であれ無力化されているのだった。もしこの世界で最優を謳われる治癒魔導士であったとしてもこの傷口を治すことは不可能だった。


「大丈夫、大丈夫だから……っ!」


 それでも、懸命に幾度となく治癒魔法を詠唱しつづける。だが、時間とともに彼女の身体は光の粒子に変わっていく。


「私はまだ、お前に約束を、まだなにもできてない、なにも返せていない……。だから、だから……!」


 幾度となく身を危険に晒してきた此度の物語―――その中で、彼女は「助かりたい」など一度として言わなかった。むしろ、身を挺して私や家族を助けようとさえしてくれた。

 そんな我慢強く、気高き彼女が零した言葉。一人の少女として語った願い。


『人間の少女のように、可愛くさせてほしい』―――そう言ったのだ。


 なら、叶えなければ嘘になる。彼女の人生が嘘になってしまう。

 人間とか、騎士とか、オークとか、オーパーツとか、異世界とか。そんなものどうでもいい。

 そんなもの、目のまえの少女キミの願いに比べれば、ただの些事だ。

 ただ少女キミ願いいのち救いたいかなえたい


「…モウ、大丈夫ダ……」


 ぽつり―――と、唇から言葉が滑りおちたようなか細い声だった。


「……治癒魔法ハ、モウ、イイ。……モウ、大丈夫ダ……」

「なにを馬鹿なことを……! だが、心配するな、今、助けてやる! だから、今は喋るな!」


 傷口の光が体全体に回って、少しずつその輝きが飛散していく。流れでた光が溶けていく。魔を断つ聖剣に切られて、存在そのものが、魔である彼女のすべてが、今にも消えかかっている。大丈夫のはずがなかった。


「助けるから! 今、助けるから……!」

「……私ノ体ハ、モウ助カラナイ……」


 弱々しくか細かったが、たしかに彼女はそれを言葉にした。

 言い返したかった。

 怒りたかった。

 笑いたかった。

 「そんなことはない」と、自信をもって言いたかった。

 しかし、言葉は喉で詰まった。口からはグチャグチャになった感情の嗚咽だけが溢れだして、止まらない。

 それは、彼女の瞳があまりにも穏やかだったから。一点の絶望も苦痛もないと思わせるものだったから。


 私を見るその目は、美麗と愚直の塊だった。


 もう手を施す術はない。

 そうは分かっていても、なにかないかと自分の懐を探す。探さずにはいられなかった。


「……ぁ」


 指先が懐にあったなにかを捉えた。それは、決して目の前の問題を打開できるものではない、が。


 ―――それでも、せめて


 私は震える手を動かして、彼女の頭を掻き分ける。そして、そこへもう片方の手でそれを添えた。


「……コレ、ハ……」


 蒼白く発光する花。

 彼女の手では摘むことができなかった花。

 その輝きは優しく、そして美しく彼女の輪郭を浮かび上がらせる。


「……アァ、アリガトウ……。ダガ、私ナンカニ似合ウダロウカ……?」


 その問いに私は笑った。あまりに当然の質問をするから、私は彼女に笑ってやった。ぼろぼろと涙を落としながら、笑ってやった。


「馬鹿だな、貴様は。似合ってる。ああ、誰よりも似合っているさ! 今、世界を見回しても、貴様以上にそのうら美しき花が似合う女性などどこにもいまい。貴方はだれよりも気高くて、そして可憐だ。私が保証する。だから……!」


「……アァ、アリガトウ……」


「……ナンダロウ、ナ……体ガ、軽イ……力ガ抜ケテイク、ノニ…………不思議ト良イ気分ダ……ケレド、眠クテ仕方ナイ……」



「……良カッタ……本当ニ、私ハ、 貴方ト…… 出逢 っ て … …   





「―――おい。おい、起きろ。目を開けろ……お願いだから目を開けてくれ」


 それ以上喋らなくなった彼女は、とても安らかな表情で、眠っていた。

 私は脇目も振らず泣き散らしながら、彼女の身体からだを抱きしめる。なんとしても抱き留めなければいけなかった。しかし、かなりの恰幅があった彼女の体は弱々しく、もう随分と小さく感じる。


「起きろ、起きてくれ、私はまだ貴方の、貴方の名さえ…………あぁ……あぁぁあぁ……ぁあああぁああぁぁあああああああああ……!!!!」


 悲痛な咆哮はもう彼女の耳には聞こえない。涙は遠く、光の粒とともに無情にも昇っていく。


 その日オークを包んでいた最期の輝きは、夜の空に昇って、消えた。

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