最終話
朗らかな光が目に染みて「あぁ、朝だ」と直感した。
朝日特有の温かみ、まどろみのなかの浮遊感は、自分がベッドの上で眠っていたことを気付かせる。ひとすじの日差しで滲んだ涙が視界ごと白亜の天上を歪ませる。だが、天上と呼ぶにはあまりにも低く、それはもう、天井。
「起きたか」
ふと、となりを見やる。そこには、朝日を浴びて輝きたつ女性、ヒュルン王国騎士団長ことヒーライトが立っていた。
「体調はどうだ? 約一日強、ずっと眠っていたわけだから、かなりの疲労を溜めていたと見える」
「……?」
見渡すと、周りは見知らぬ小さな部屋だった。ベッド以外の空間はあまりなく、しかし、棚には必要最低限な生活用品だけ綺麗にまとまっている。
「ここはヒュルン王国宮殿に備えつけられている医療従事施設だ。その一室を借りさせてもらっている」
こちらの疑問を汲みとってか、ヒーライトは軽く説明する。
先ほどから薬品の香りがどこからともなく鼻腔をくすぐるので、彼女の言葉に嘘偽りはないだろう。しかし。
「なぜ私はこんなところに?」
この施設に来た経緯も、目の前にヒーライトがいる理由も分からなかった。
「覚えていないのか? ……いや、無理もない。ひどく錯乱していたからな」
ヒーライトはなにかを察するかのように視線を泳がす。
―――錯乱していた? 私が?
私は寝起きの頭を叩き、思い出そうとする。思い浮かぶのは、暗い森と力強くて優しい手を引かれる感覚。
―――そうだ、私たちは森のなかを走って……
その瞬間、稲妻のようなまばゆい閃光が記憶とともに頭の中を駆けめぐる。
―――いや、覚えている。思いだせる。彼女が、あの巨躯が、あの光景が、魔を断つ剣に切られた悲劇が。私はアレをたしかに見た
私は身を乗りだすように起きる。
「か、彼女は……いえ、オークはどうなりましたか?!」
記憶が正しければその答えは残酷なものだ。しかし、どんな残酷な真実であれ、受けとめなければならない。生死の有無はもはや最重要ではない。ただ、彼女の結末を見届けなければならない。これはすでに私に課せられた義務だ。
「……そうだな。ちょうど先ほど、上層部にも報告してきたところだ。まずはそこから話さねばあるまい。結論から、だ。
…………今回のオーク調査・討伐遠征だが、失敗。オークを討伐することはなかった」
「! それじゃあ……!」
ああ、とヒーライトは頷いて、言葉を続けた。
「今回の遠征、オークを確認することはできなかった」
「……………………………え?」
一瞬、寝起き以上の強烈な眩暈が自意識ごと視界を包んだ。
失敗。討伐できなかった。そのことはいい。しかし、オークを確認することができない、という言い回しはあまりにも妙だ。それではまるで最初から……。
言葉では表現できない。意味もわからず得体も知れない。けれど、蠢き犇きあう悪寒だけが背中にぴったりと張りついて、離れない。
「なにを言っ…て……?」
「そのままの意味だ、ナイティス。オークは存在しなかった。上層部にもそう報告した」
彼女の眼差しは真剣そのものだった。性格からしても冗談を言うようにも見えない。
しかし。ならば。どういうことだろうか?
―――…あれは、夢?
そんなことあるか、と頭のなかのもう一人の自分が声を上げる。
たしかにあの光景、あの惨状は、夢であってほしいと思わざるをえないものだった。しかし、その存在ごと
何度洗い流そうとも目蓋に媚びれついて離れないであろう、あの光景は―――。
「あ……」
頭によぎった想像もしたくない可能性が、口の端から息を漏らさせた。
―――いや。まさか
あの時。
魔を断つ剣に斬られた忌々しい光景。
それこそが現状の不可解な食い違いの答えではないか、と自分のなかで産声があがった。
―――まさかあの剣が
「ナイティス。私が駆けつけたとき、キミは花畑で叫んでいた。涙を流し、嘆いて、そして、気絶した。私たちはキミを救護したのちあたりを捜索した。だが、盗賊こそ何名かいたが、オークなどという存在はどこにも確認しえなかった。此度の遠征、私も記憶が曖昧な部分はあるが、それだけは真実だ」
淡々と状況を説明するヒーライトは、ふと懐からなにかを取りだす。
「オークの代わり……といったら難儀だが、捜索中に発見したモノがある。私の持ち物かとも思ったが、同じものがすでに懐にあったのでな。……コレは貴様ので合っているだろうか?」
手渡されたそれは、一冊の本。
何度も読みかえした内容。
忘れるはずがない日々の記憶。
私の人生をまるで昨日のことのように反芻させる。
『女騎士のためのオークマニュアル』
その本を握る力が自然と強くなる。
―――彼女が存在しない?
いや、そんなはずはない。
だって、私の記憶が、彼女を覚えている。いないはずがない。彼女はたしかに存在している。彼女が存在した事実がここにある。
あの夢のような時間を確かめるように、指の腹でなぞる。その本は何度も手にしたときの感触と一緒で、不思議と温もりを感じた。
彼女がいた証拠がある。彼女が遺した疵痕がここにある。今の私にはそれだけで十分だった。それだけで、決意するには十分すぎた。
―――必ず探しだす。もし貴方がいなかったとしても、貴方の影だけでも……
なら、ここにいるばかりではいけない。
私はシーツを翻し出口に急ぐ。
「待てナイティス、話が途中だ。それに、その体で急に動くな」
「放してくれ、ヒーライト! 私は行かなくてはいけない!」
ヒーライトの制止を振りきり、私はドアノブを回した。
「……あら、御機嫌よう。騒がしいと思ったらようやく起きたのね」
そのまま廊下へ出ていこうとしたが、そこから入ろうとする人物に入口を塞がれてしまう。
その人物には見覚えがあった。魔術隊所属を意味するローブ、そして雅な白髪―――魔術師レミリィだ。
「ほら、ぼけっと入口に立ってないで奥に入りなさい。私たちが入れないでしょ。この病棟室は小さいのだから」
「いや、私は外に……」
「ほら入った入った!」
有無も言わさず私を奥へと押しこめるように、レミリィが部屋に入ってくる。そして、レミリィ以外にもう一人、彼女の後ろに入ってくる人物がいた。
それはまったくの見知らぬ少女だった。病衣の上からでも戦闘訓練などは受けていないと分かるほどにか弱い、ごくごく一般的な少女。年少というには大人びていたが、おそらく二十歳は超えていない。この施設に罹っている患者だろうか。
「………あら、まだ説明してなかったの?」
雰囲気で察したのか、レミリィはヒーライトのほうを見やる。
「彼女は今起きたばかりだ。それに……」
ヒーライトは入口を瞥見する。そこには入口を守るかのように人が立っていた。
理路整然と背筋を伸ばし、ただまっすぐに眼前を見据えている。身にまとう純白の宮廷正装よりもさきに雰囲気で宮廷兵だと判った。
「ああ、なるほどね」と目を眇めたレミリィは、出入り口のドアを閉めてから構造石を取りだす。そして、音もなく術式が展開される。辺りは瞬く間に見知らぬ場所、どこかの屋内へと変容した。
「さ、これで入口の監視には聞こえないわ。私に海より深く感謝しなさい。……で、どこまで話したのかしら?」
どこか面倒そうに指で自前の白髪を弄りながら、レミリィは訊ねてくる。
「……任務は失敗。オークは存在しなかった。上層部にもそう伝えた……と、そう聞き及んでいる。……レミリィ殿も、彼女はいなかったと言うか?」
ヒーライトが話してくれたことをそのまま端的に話す。
彼女もオークについて知っている人物の一人のはずだ。
しかし、レミリィの目がぱちくりと忙しなく瞬く。まるでその内容が意外だったと言わんばかりに。そして、口の端に笑いを含ませながら横目でヒーライトを見つめた。
「オークは存在しなかった、ねぇ……しかも上層部にも、ふぅん? 貴方ってそんな嘘つけたのね、ヒーライト?」
「……嘘ではないだろう。ただの言葉の綾だ」
「『オークはいなかった』……まぁ悪くない隠し方なんじゃないかしら?」
二人の会話の意図が掴めず、私は困惑した。その反応がこちらの予想とまったく別物だったからだ。しかし、会話のなかに気になるワードが散らばっていた。
「ナイティス、私から説明しよう」
こちらの困惑を見かねてか、ヒーライトは私に体を向きなおす。
「実は、先ほどの話は、だれかの耳に入れば大事になる可能性があってまだ半分しか話せていない。混乱させたならすまない。包み隠さず率直に言えば、彼女は生きている」
「! 生き……て…!」
「ああ、たしかに生きている。だが、今はそのオークの姿を見せることは叶わない状態にある」
「っ……!」
どうしようもなくイヤな光景が脳裏に浮かび、私は奥歯を噛みしめる。この目で見た状況を鑑みてすべて無事であるはずもないことは分かっていたはずなのに。
「彼女は、今どこに……?」
「どこ、と言われれば…………ナイティス、落ちついて聞いてほしいのだが………君の目の前にいる」
私は思わず周りを見渡してしまった。目の前、と言われたにも関わらず、だ。
しかし、ここにいるのは私ことナイティス、ヒーライトとレミリィ……そして病衣の少女だけ。オークの一際目立つあの姿はどこにもない。
だが、ヒーライトとレミリィは体を向き合うように、立ち位置を変える。ちょうど二人のあいだに道を作るように。
そして、まるで主役であるかのようにその道を歩き、私の目の前にその少女は止まる。
「えっと……え?」
困惑するこちらに、病衣の少女がまっすぐ見つめてくる。
思考の処理が追いつかなくて、ヒーライトとレミリィをそれぞれ一瞥する。
レミリィとともにヒーライトは頷いて、こう言った。
「ああ。彼女が今回討伐対象だったオークその人だ」
―――?
―――今、彼女はなにを言ったんだろう?
肩まで伸びた黒髪、整った目鼻立ちにすこしカーブした長い睫毛。そして、少女らしい細腕に、華奢な体。
目前のどれをとってみても
「いや、いやいやいや……」
どんな事実であろうと受け入れると言ったが、さすがに生まれたばかりの赤子でももう少しマシな嘘をつく。
「まぁ落ち着きなさないな。冷静に状況を確認していけば分かることよ。人払いの魔法を施してまで他人の耳に入らないようにしたのに、まさかこの密談をただの患者に聴かせるはずがないでしょう?」
ヒーライトとレミリィは依然変わらず真剣な様子だった。たしかにレミリィの言葉も一理ある気はする。
「いや、た、たしかに……そう言われればそうかもしれんが、しかし、だ……!」
半ば咽せながら抗議する。許容量の超えたものを無理やり喉に呑みこませようとしているのだから咽せるのは道理だ。
そんななかを、フフッと笑い声が聞こえた。おかしくてうれしくて、つい出てしまったというように病衣の少女は目を細めていた。
「ン、イヤ、すまない。キミの慌てップリが面白かったモノデナ」
それはオークの声調よりも幾分か澄んでいたが、カタコトの端々から彼女の口調と同じものを感じた。
まだ確定したわけでもなければ、確信したわけではない。だが、病衣の少女から不思議と彼女の面影が見え隠れする。
「……本当に、本当に……貴方が、あの……」
しかし、まだどこかで信じられない自分がいた。
病衣の少女は微笑んで、懐からあるものを取りだす。光ってこそいないが、見覚えがあった。
彼女の手にあるそれは、一輪の青い花。
そして、彼女は見つめながら口を開く。
「マタ、コレを、私に付けてもらえないダロウカ? ソレトモ、今の姿に変わってしまった私にはモウ似合わないダロウカ?」
―――ああ
安堵のため息が勝手に口から漏れる。だって、当たり前すぎる質問だったから。こんなの理解よりさきに答えが出てしまう。
「いや、あなたは美しい。それこそどんな姿形を変えようとも、貴方は美しく愛らしい。この花が霞んでしまうくらいだ」
私はお手を拝借し、そっと前髪をかき分けて、その花を彼女の頭に添える。
花開くように、慈愛深い微笑みが表情に満ちる。
なんて可憐な姿だ、と私は思った。
その見覚えのある慈愛の表情は、もう言葉が不要だった。彼女がだれかなんてもう分かりきってしまったことなのだから。
「しかし、どうして……」
その事実は正直嬉しさを隠しきれないが、疑問は残る。
私はたしかに魔を断つ剣で切られる彼女の姿を見た。なのに、こうも元気な姿……いや、そもそもなぜ人間の姿になったのだろうか。
「……ソモソモ、私はオークではないノダガ」
それは唐突な、衝撃的な発言だった。まず耳を疑って、目を見開いて、ただただ言葉をなくすばかりだ。
理解できる自信がなかったが、まず説明を要求するしかなかった。
「私はコノ姿で、こことは違う世界で普通に過ごしていタ。ダガ、神隠しとデモ言うのダロウカ……ある日、私はこの世界に迷いこんダ。タシカまえにも言ったガ、異世界のモノがこちらに来たトキ魔力を帯びテ変容する、ト。私はコノ世界に転移して、こちらノ世界の魔力にヨリ、ああいった肉体に膨れあがっタ。……不注意ながら、ナ」
「補足するなら、エクスカリバーはどんなものであれ魔を切ることができる。知っているだろうが、それは所持しているだけで所持者の魔法でさえ弱体・無力化するほど強力で、彼女に纏った
オーク……いや、少女の言葉にヒーライトは付け足した。
つまり、その剣が魔力ごと彼女を切り、それで元の姿に戻った、と。
だが、それはおかしい。
魔を断つ剣なのだから、彼女の肉体に付与していた魔力を切れるのは理解できる。だが、エクスカリバーは刃物だ。この場合、彼女の体が真っ二つになっていなければ説明がつかない。
「そこは私から話そう」
ヒーライトが一歩前に出る。
「エクスカリバーには多くの伝承があるのは君も知るところだろう。その一つに【王を選定する剣】があることは知っているだろうか?」
その剣は数多の伝説を残している。その一つに、正しき血統―――王たる資格がある者のみにしか扱えない【王を選定する剣】と伝承されている。ヒュルン王国民であれば、畜生ですら知っていることだ。
特に、ナイティスないし宮廷の人間にとっては、知らぬ者はまずいない。なぜなら、ヒーライトが王たる剣を鞘から引き抜いたために『次期国王候補』の名とともに宮廷全体が大混乱に陥ったことは今でも記憶に新しい。
「そう、これは剣に選ばれたものにしか決して抜けぬ品物。一介の盗賊風情に扱えるものでは決してない。選ばれぬ者にとっての聖剣は、身を護ることはあれど、殺傷能力を持たず魔だけ取り除く
ヒーライトは口を噤む。
実際、ヒーライトの言葉は半分も聞きいれられないほど、思考の処理が追いついてなかった。
だって。
彼女が生きていること。
こうして目の前にいること。
二人、笑い合えていること。
その事実だけで、胸がいっぱいいっぱいだったから。
「―――ああ、そうだ」
しかし、それでも、やらなければいけないことがある。
「貴方に聞きたいことがあったんだ」
やり残してきたことを、今ここで。
「今更改まって恥ずかしいことなのだが……」
彼女の手を取り、指を絡める。相手の存在を確かめるように。
「私はナイティス。貴方の名を拝聴してもいいだろうか?」
ああ、もちろんだとも。と彼女は笑う。そして、彼女は自身の名前を口にした。
「―――――か。
……ああ、いい名前だ」
彼女の名前は忘れない。いや、忘れたくても忘れることができない。これからの人生、何度もその名前を口にして思い出すだろう。
「アリガトウ、ナイティス」
私からすれば唐突に、彼女に頭を下げられた。
「今回、私はキミにイロイロと助けられた」
「いや、感謝される謂れはない。思い返すと今回私はなにもしていない。ただお荷物で、不甲斐ないばかりだった」
「ソンナことはナイ」
キュッ、と私の手を握る力が強くなる。彼女の手は華奢ながらに力強くて、そして、なによりも優しかった。
「醜い姿にナッテ、私はなにもカモ諦めていた。ソンナ時キミに出逢い、私のタメに諦めずにイテクレタ。キミのソノ姿が私を勇気づけてくれてイタ。私はこの姿に戻れなくテモ、モウ諦めるコトはなかったダロウ」
「そうだとしても、『ありがとう』を言いたいのは私のほうだ。勝手に他人の台詞をとりおって」
「ムッ、ソレハすまないコトをした。ナラ、結果的に元の姿に戻ることができた、キミと私とで紡いだコノ童話に感謝したい」
「そうだな。この物語に私も感謝している。だが、これは決して
「アア、ソウダナ。ユメであるハズがない。ダッテ、キミが目を覚ましたらやりたいことがあったんだ、ナイティス。それは、キミの力を借りなければできないことだ。……手伝ってもらえるだろうか?」
「ああ、……ああ! もちろんだとも! あの無理難題のような戦況を抜けてきた私たちにできぬことがあるはずもない。そうであろう?」
私たちは手をとりあう。
私たちはここにいる。
なら、ユメをユメで終わらせてはいけない。現実にできぬことなどなにもないのだから。
笑いあう二人がいればきっと。
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