第9話(前編)

 一冊の本。

 それは、私の人生において、とくに思春期に多大な影響を与えた。


 時に謎を秘め、

 時に交友を形成させ、

 時に知識を偏らせるほど、

 魔力を持った蠱惑の存在———そして同時に、私の青春だった。


 類似品はあれど、

 複製は不可能とされた、

 唯一の本オーパーツ


『女騎士のためのオークマニュアル』


 私の手はページをめくることを止められない。

 ここにあるはずがない……と思っても、ページをめくるたびに否応なしに事実を突きつけてくる。


 これが、あの本である、と。


「ア、アのー」


 ばちんっ、と紙らしからぬ音を立てて本は閉じられる。声をかけられて反射的に反応してしまった。


 振りむくと、無垢な目をさらにまんまるにさせたエルフの少女が、こちらをじっと見つめていた。触手のほうは、蠢きながら少女の矮躯に巻きついて———なんて淫靡なるアクセサリーだろう……いや、今はそれではなく。私は後ろに手を回して隠す。


 深呼吸して息を整えてから、少女に向きあい微笑みかける。


「ん、どうした?」

「えッと、ママはね、スゴイんだヨ!」

「……なにが、すごいのかな?」


「だって、『マホウ』が使えるンだヨ!」


 彼女の言葉に、私は胸を撫でおろした。この本について言及されるのかと、焦燥感があった。


「ああ、そうだな。お前の母親の治癒魔法は相当なものだ。ほかのだれにもあの精巧な魔法は再現できな……。いや」


 記憶のなかに一人だけ、そうとは言い切れぬ人物が思い浮かぶ。名前は———。


「ヒーライト殿なら、もしくは……」


 ———名前は、そう、ヒ―ライト。

 軍神にして、最強を謳われる騎士。

 その昔、彼女には鍛錬に付き合ってもらったことがあるが、まるで歯が立たなかった。一人だけ童話の登場人物のような、生きる世界を違えたと思ったほどだ。できれば二度と戦いたくない。


 何者にも厚意を示し、何事にも興味を持つ、聖人で少年で、それでいて乙女———それが私の『ヒーライト』の印象だ。その実力たるや、留まることを知らない。これは国家機密になるが、次期国王候補に名が挙がったほどだ。しかし、次期国王候補として縁談を持ちかけられていたときに、こう言っていたのだ。


 「すまないが、私には心に決めた相手がいる。もっとも、生きているかも分からぬがな」……と。


 どうやら、数十年と片思いをしつづけてきた相手らしい。遠い場所を見る彼女の横顔が、やけに切なくてどこか達観しているふうだったことを覚えている。あのヒーライトも人の子なのだと初めて思った。そんなに大切に思っているものが……。


 そうだ。ヒーライトの大切なもの———あの本は彼女が持っているはずなのだ。


 ———なら、今私が持っているものはなんなのだろうか?


 私は握った手のひらが汗ばむのを感じた。


「……? ドウしたノ? おネエちゃん」


 エルフの少女に声をかけられて、私の思考は中断される。「なんでもない」とかるく相槌を打つ。


「ソれでネ、ソれでネ!」

「ん?」

「キズの治しはネ! タッくんのオシルでもデキるんダ!」

「……ほう、それは初耳だな」

「デモでもッ、ママはもっともっっとスゴイ『マホウ』が使えるノ!」


 私は目を見開く。

 まさか、あの完璧な治癒魔法よりもスゴイ術式を使えるというのだろうか。思わず、少女の話に前のめりの体勢になる。


「ソれはネ……『シアワセのマホウ』っていうノ! ワタシとタッくんを、イツモ見まもって、いっぱいシアワセにしてくれるノ」


 ———ああ、なるほど、と。

 聞いてみればなんてことはない。なんだそんなことかという内容だ。

 しかし。


「ああ。それは、最高のマホウ、だな」

「だヨネ!」


 えへへっ、と少女は笑う。心の底から喜んでいることが分かるくらい、まっすぐに。

 想像とは違う内容ではあったが、これ以上の魔法が存在しないのも、また事実だ。目のまえの笑顔を見ればだれでもそう思うだろう。


 しかし。

 一瞬だけ少女の笑顔に影が混じった。


「デモ、ときどき、ワタシたちを見てクライ顔するノ……きっとワルイこと起きないか心配なんだとオモう!


 だからネ! ……ママのコト、イジメないデ」


 ———? 私が彼女をイジメている?


 そんなことはない。少なくとも、命を救ってもらった恩人として、敬意を持って接している、はずだった。


 ならば。しかし。


 少女の言う「イジメないで」とは別なところを意味するのではないだろうか。


 彼女が心優しきオークなのはたしかだ。それに加え、オシャレに興味を持つ乙女だということも。しかし、その見た目ゆえに、迫害されてきたのではなかろうか?


 少女がいう「イジメないで」とは、私個人ではなく、人間全般をさしている、……そう思った。


「———ああ、イジメない。この剣に誓おう」


 腰にかけてある剣を手元に差しだす。もちろんのこと、鞘に納めた状態で、だ。

 この剣はいまや一本にも満たない。しかし、国より授かった由緒ある剣であることに相違なかった。


 ———これは私が騎士として歩んできた証。私の騎士道、人生を賭けて誓おう


 迷いなくまっすぐに少女を見つめる。

 少女は目をぱちくりとさせながら、視線を逸らされてしまう。


「ソレなら、隠してアル本を……」


 私の心臓が跳びあがった。

 会話しながら密かに服のしたに隠した本。もしや、彼女の言葉———「イジメないで」ってそういうことか!


「こ、これはだな……盗もうとかイジメようなどとは別に……! 違うのだ! ほかに疚しい気持ちがあってだな!」


「ソレ、……アげるね!」

「……え?」


 はやる気持ちによりしどろもどろになっていた私に、少女はにこっと笑顔を振りまく。汚れた心を浮き彫りにする、眩しい笑顔だった。


「ソノ本はタイセツな本! ……デモ、ママを悲しませるから……持ってイッて、ね!」

「悲しませる……? それはどういう———」


 その時。

 がちゃり、と扉が開く音がした。


 そこから現れたのは、お玉を片手にフリルエプロン姿のオーク。巨躯に対してエプロンが小さすぎてミスマッチなのだが、逆に絶妙な愛らしさを感じた。

 彼女は私たちの様子を見て、眉をひそめた。


「アト少シデゴ飯ガデキル……ノダガ、ドウシタ?」

「いや、その……こ、この本棚! かなりの収集家なのだな、……と感心していたのだ!」


 私は咄嗟に誤魔化そうとした。イジメるつもりも、盗むつもりもないが、服の下に"例のブツ"を隠してしまっているのも事実だ。苦し紛れの言い訳ではあったが、彼女は頷いて本棚に目をやった。


「収集家、トイウノハ少シ違ウナ」

「え?」


 ナゼナラ———、と彼女は言葉を続ける。


「ソコニアルノハ、私ガ描イタ作品ナノダ」


 ———?


 思考どころか、体中の電気信号が停止した。現実逃避とは違う。純粋に、彼女の言葉に理解が追いつかなかったのである。


 それは、つまり……


 ———彼女がこの本の出典だというのか?


「こ、ここにある書物は、すべて貴様が書いたもの……という認識で間違ってないだろうか……?」


 私は信じられず、確認を入れる。


「アア、ソウダナ。友人ガ描イタモノダッタリ、友人ト共同制作シタモノモアルガ、大抵ハ私ノダ」


 彼女の言葉を聞いて、なお信じきれずにいる。いや、彼女が著者であるなら、マニュアルコレがここにあることは納得がいく。……しかし、だ。そうなると、強大なる魔力を持つ、謎多きオーパーツを彼女自身が作ったことになる。


「マァ……今ハ諸事情ニヨリ描イテナイガ、ナ」


 そう言って、彼女は自身のごつごつと角張った手を見遣った。エルフの少女が言ったように、どこかクライ表情だ。

 なんと声をかければいいだろうか、と思考が逡巡した。謎が多すぎるのもあった。しかし、それだけではない。なぜか、彼女の表情は少女のそれと重なって見えて……「ずっと前からオークマニュアルのファンでした!」と言い出せる雰囲気ではなかったからだ。


 私は意を決して、口を開く———その時だった。


 きぃぃ……、とドアの軋む音がした。


 ドアの隙間。そこには、三日月のような笑顔が、あった。彼女の巨体の後ろ———ドアの隙間から、何者かがこちらを覗きながら、笑っていたのだ。


「何者だっ!」


 その視線と目が合った瞬間、怒声を送っては身構える。


「ひ………んだ」


 その何者かは私の問いに反応してか、なにかをつぶやきながら、部屋に入ってくる。

 私は目をひん剥いた。

 ヒュルン王国の国章が刻まれた鎧、金髪に碧眼、凛とした佇まい。行動の一つ一つ、歩くだけであったとしても、みなを引き寄せる美しさを持ち合わせている。

 彼女と私、二人が見覚えのある顔を同時に見合わせて、一言。


「おひんひんだ!!!」

「ヒーライト殿っ?!」


 そこにいたのは、間違いない。女神と謳われる騎士団の長にして、我が学友にあたる、ヒーライトその人だった。

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